「あーもう最悪!」
 深知留は地面に散らばった教科書を拾い集めながら、誰へともなく文句を放った。
 事の始まりは朝。七時にセットしたはずの目覚ましがなぜか八時になっていた。
 慌てて飛び起きてみると多英子は既に仕事に出かけた後、何で起こしてくれなかったの、と八つ当たりをすることもできなかった。
 深知留はそのまま朝ご飯も摂らずに電車に飛び乗り、大学へと急いだ。そして、このまま行けば何とか一限目に間に合う……と思った矢先、深知留は構内の階段で見事に転んだのだった。
 お陰で肘は擦り剥けるし、元々数回櫛で梳いただけの髪はボサボサになるし、おまけに教科書は鞄から飛び散った。その見た目と来たら、とてもじゃないが花も恥じらう女子大生とは思えない。
 さらに大学に入学して早二ヶ月、深知留は未だに無遅刻無欠席でやってきたのに、この調子では遅刻決定となってしまう。
「こんな時に限って……一体何なのよ!」
 深知留は再び文句を放つ。
 その時だった。
「大丈夫?」
 そんな声と共に、深知留の目の前には散らばった教科書の内一冊が差し出された。
 深知留は地べたに座ったままゆっくりとその視線を上げる。
(…………)
 そこにいたのは一人の女性だった。
 しかし、その支度は少し変わっていて、ナース服の様なものを身につけている。
 深知留はそれですぐにピンときた。
(看護専攻の人だ)
 病院実習へと出かける彼女たちが、大学構内で同じ格好をしていたのを深知留は見たことがある。この大学は病院が隣接して建てられているのでそんな光景も珍しいことではない。
「カバーが少し傷ついちゃったかな?」
「す、すみません……ありがとうございます」
 女性は深知留よりも明らかにお姉さんだった。
(三年生……うーん、四年生くらいかな?)
 深知留は教科書を受け取りながらどうでも良いことを考える。
「あら、肘を擦り剥いちゃったのね。血が出てるみたいだけど、痛む? 大丈夫?」
 女性はいつの間にかしゃがみ込んで深知留の擦りむけた肘を心配そうに見ていた。
 すると、
「ちょっと香夜、何やってるの?」
 少し離れたところから、別の女性が声を張り上げた。
 今深知留の目の前にいる女性はどうやら香夜というらしい。
 香夜に呼びかけた女性もまた、実習服に身を包んでいる。
「申し送り、遅れちゃうよ。あのオバサン、遅れるとすっごい怒るんだから!」
「分かってる。ちぃちゃん先に行って!!」
 香夜は続けて深知留の教科書を拾い集めながら返事をする。
「あの……わたし、大丈夫ですから。もう行ってください。手伝ってくださってありがとうございました」
 どうやら香夜も急いでいるらしいと察した深知留はぺこりと頭を下げた。
 香夜は少し躊躇ったが「じゃあ、ごめんね」と言ってその場から立ち上がった。
 そのまま香夜は行った……深知留はそう思っていた。しかし、どうしたことか彼女は二、三歩進んだところで再び深知留の所へ帰ってきたのだ。
「あのね、これ、とりあえず貼っておいて? でも後で保健室行くのよ? 少なくとも消毒はしてね」
 香夜はそう言うと、実習服のポケットから絆創膏を一枚取り出し、深知留の肘にペタッと貼ってくれた。
「あ、どうも……」
 深知留がろくにお礼も言えずにいると、香夜は「じゃあね」と言ってそのまま友達の元へ走っていってしまった。
「もう香夜ってば、いつもいつもホントにお人好しなんだから!」
「あーはいはい。そういうちぃちゃんも、先に行かないで待ってるんだからお人好しよね」
「だって、あの看護師長オバサンの嫌がらせ、香夜が一人で受けるんじゃ可哀想だと思って」
「じゃあ、その彼女を怒らせないよう急ごう。あと五分……ちぃちゃん、五階の病棟まで走るわよ!」
「ちょ…ちょっと待ってよ、香夜!」
 小さくなる香夜たちの後ろ姿を深知留はジッと見つめていた。
「白衣の天使かぁ……」
 深知留はポツリと呟いた。が、そのすぐ後にハッと我に返る。
「ヤバ! わたしもあと五分しかない!!」
 深知留は腕時計を確認すると、香夜に拾って貰った教科書を鞄に詰め込んでその場を駆け出した。

 この時、深知留は大学一年生、香夜は大学四年生……誰も知ることはない二人の偶然の出会い。


 −おわり−