第1話
サネノア――
一年に一度、春の季節に甘い香りのする大輪の花を咲かせる。
花の色は淡紫色から濃紫色であるが、濃紫色の花を付けるものは珍しい。
花が咲いた後、濃紅色の小さな実を付けるが、それを食べると記憶が消えると古くから言い伝えられている。
そんなサネノアの花言葉は――『忘却』
「シュリ様、ちょっとこちらに来てください! ねぇ、ご覧になってください」
いくらか興奮した乳姉妹のミアナの声が、シュリエラの耳に入る。
「どうしたの?」
シュリエラは今まで読んでいた本を閉じ、ドレスの裾を捌いて窓辺にいるミアナの元へと向かう。
「ほら、咲いたんですよ。シュリ様のお好きなサネノアの花。あそこに濃い紫色が見えるでしょう?」
言われてミアナが指さす方向を見ると、確かに中庭の片隅でサネノアの花がいくつか花を付け始めていた。
「本当ね……」
サネノアの花は大振りであるために、二階にあるこの部屋の窓からも確認できる。
「昨日まではまだ蕾でしたのに……もうあんなにたくさん。十日もしないで満開ですね」
キャッキャと嬉しそうにはしゃぐミアナの声を聞きながら、シュリエラは瞬きもせず、サネノアの花をじっと見つめていた。
(今年も……もうそんな季節になったのね)
上流貴族フォレイン家の長女、シュリエラ。
彼女がこの国の王太子の元へ側妃として上がったのは今から四年前のことである。
当時、まだ十八才だったシュリエラが城に上がる際に持ってきたのが、今花を咲かせているサネノアの種だ。
シュリエラは窓辺に寄りかかり、その瞳を静かに閉じた。
記憶が遙か昔へと遡る。
シュリエラは父アルダが持つ別荘地の野原にいた。
あれは……そう、まだシュリエラが四つか五つの時のことだ。
「シュリ、シュリ………」
シュリエラの愛称を呼ぶのは、フォレイン家と同様、上流貴族であるアムスレット家の嫡男、サファラスだ。
サファラスは両腕に溢れんばかりのサネノアの花を抱えていた。
花の色味は濃い紫。
サネノアは通常、淡紫色の花を咲かせる。しかし、ごく希に濃紫色の花を付けるものが存在するのだ。
この地にはその濃紫色のサネノアが群生する場所があった。
サファラスの腕の中から、シュリエラは甘く良い香りを肺いっぱいに吸い込む。
「いいにおいね。きれいなおはな」
「あのね、これね……シュリにあげるよ」
「ほんとう? ぜんぶシュリがもらっていいの? ……ありがとう。シュリね、サファラスがだぁいすき」
シュリエラは嬉しそうににっこりと笑う。
そんな彼女の笑顔をサファラスは少し赤らめた顔で見つめていた。
シュリエラより三つ年上のサファラスはいつでも優しく、シュリエラはそんなサファラスが大好きで心から慕っていた。
互いに大臣をしていた父親同士が仲が良かったこともあってか、二人は兄妹の様に常に一緒にいたのだ。
「あの……あのね、シュリ………」
サファラスは少し照れた様子で、怖ず怖ずとシュリの顔を見る。
「なぁに?」
シュリは屈託のない笑顔でその首をかしげる。
「ぼくが……あと何年かして、父さまみたいにえらくなれたら………シュリは、ぼくと……ケッコン、してくれる?」
「ケッコン?」
「うん、そうだよ。ケッコン」
「ケッコン……て、なぁに?」
サファラスの一世一代のプロポーズにも関わらず、幼いシュリエラはまだ結婚の意味を理解できていなかった。
「ずっといっしょにいることだよ。大人になっても、おじいちゃん、おばあちゃんになってもずっとずっといっしょにいること。シュリは……ぼくといっしょにいてくれる?」
「ずっといっしょに? ……うん! シュリ、サファラスとずっとずっといっしょにいるよ。シュリ、サファラスとケッコンするー」
シュリエラが答えきらないうちに、嬉しさを堪えきれなくなったサファラスはシュリエラを抱き上げてくるくると回った。
「やったぁ!! ぜったい……ぜったいやくそくだよ。シュリ」
「うん。シュリ、やくそくするよ」
サファラスはシュリエラを降ろすと、彼女が抱えるサネノアの花を一輪手に取り、そのまま彼女の髪に飾ってやる。
「シュリ、きれいだね。ぼくがぜったい幸せにするよ!」
サファラスとシュリは互いの小指を絡ませて約束を交わした。
しかし、二人が誓い合った幸せな未来は、意外とあっけなく崩落し始めた。
サファラスが二十才になった頃、突如原因不明の病に倒れたのだ。
それまで、毎日のようにあったシュリエラの元への訪れが突然絶えた。その頃、サファラスは王宮勤めの仕事をしていたが、公務で忙しく会いに行けない時は必ずシュリエラに手紙を送っていたのだがそれも来ることはなく。
シュリエラは少しばかり心配したが、それでも何かしら訳があるのだろうと特に気にはとめていなかった。
だが、それはサファラスからの連絡が途絶えて五日ほど過ぎた時のこと。
その日の晩、シュリエラは突然、仕事から帰った父アルダに呼ばれた。
「お父様、何かご用でしょうか?」
そう言ってアルダの書斎に入った瞬間、シュリエラはすぐに何か良くない雰囲気を感じ取った。
アルダの顔は明らかに険しい。
「もうお前も耳に入れているかもしれないが……サファラス君が重い病に伏せっているそうだよ」
「サファラスが………?」
シュリエラは驚きを隠せずに思わず聞き返す。
サファラスからの連絡が途絶えた訳を、仕事が忙しいから、くらいに考えていたシュリエラは思ってもいなかった知らせに動揺した。
「彼のお父上が言うには、もう数日高い熱が下がらないそうだ。うわ言でなんどもシュリの名を呼んでいる、と。頃合いを見て会いに行ってあげなさい」
「はい、お父様」
シュリエラは、翌日にはサファラスの元を訪ねた。朝日が昇るのも待ち遠しいほどに、シュリエラは朝一番で飛んでいったのだ。
「シュリ……心配掛けてしまったね」
ベッドに横たわるサファラスはいくらか痩せていた。それでも、シュリエラが想像していたよりはずいぶんと元気そうで、少しだけ安心した。
「連絡もできなくてすまなかった。情けないね……こんな格好で」
「別に良いのよ。それより、早く良くなってね?」
「だと良いんだけど……」
サファラスはスッとシュリエラから視線を逸らす。
「サファラス、何弱気なこと言ってるのよ。きっと、仕事で疲れていたから少しだけ酷くなっただけ。すぐに良くなるに決まっているわ」
シュリエラは励ます様にサファラスの手をギュッと握りしめた。
「大丈夫。サファラスが良くなるまで、わたしは毎日お見舞いに来るから」
「ありがとう……シュリ」
サファラスは少しだけシュリエラに微笑んで見せる。
「だって……わたしはサファラスの婚約者よ?次の春にはわたしをお嫁さんにしてくれるんでしょう?ずっとずっと昔からの約束だったじゃない」
シュリエラは少し照れるようにサファラスに微笑み返した。
幼い頃約束したとおり、二人は次の春に結婚することが決まっていた。それは互いの家も了承済みで、既に婚約も済んでいた。
後はサネノアの花が咲く頃に結婚する、そう決まっていたのだ。
◆◆◆
それから、シュリエラは毎日サファラスの看病を続けた。
雨の日も、雪の日も、シュリエラは乳姉妹のミアナと共に毎日毎日サファラスの元へと通った。
シュリエラは献身的に看病に当たったのだ。東で病に良く効く薬があると聞けば自ら馬車を走らせ買いに行き、西に名医がいると聞けばすぐさまそこに飛んでいく。
それは一貴族の娘としては褒められたものではなかったが、シュリエラにとっては体裁などどうでも良かった。
ただサファラスの病が治ってくれさえすれば、それでよかったのだ。
しかし、そんなシュリエラの努力もむなしく、サファラスの容態は一向に回復しなかった。
一度良くなったかと思えば、すぐにまた動けないほど重くなる……そんなことの繰り返しだった。