第4話

 部屋に入ると、サファラスはグズリと崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
「サファラス様!!」
 レナンシュアは悲鳴のような声を上げた。
「大丈、夫だ。すまないね…………」
 サファラスは青ざめた顔をしていた。
「あんな……ご無理をなさるから」
「だって、私が出て行かなければシュリは帰らなかったろう? ……いいんだ。私が直接言った方が信憑性があっただろう? どうせあのシュリのことだ、レナが何を言ったって『サファラスはそんなこと言わない』とか言って譲らないだろうからね」
 言ってサファラスはフフッと笑った。
 サファラスは年齢よりも少し幼い反応をするシュリエラのことをよく分かっていた。それは幼い頃からずっと一緒にいたからなのかもしれないが、それ以上にシュリエラを愛していたからだ。
「こうするより……」
 突然、呟くように話し始めたレナンシュアにサファラスは視線を向ける。
「もう……こうするよりないのですか? 愛する方に暴言を吐き、わざと遠ざけて…………。シュリエラ様をサファラス様の妻にすることは……もうおそばにいていただくことは、望めないのですか!?」
 レナンシュアはわずかに声を荒げる。
「望めないよ。望んだらあの子が可哀想だ。レナ……お前だって分かるだろう? 私がもう長くはないということくらい」
「それは…………」
 レナンシュアは言いかけて言葉を止めた。いや、止まった。
 いつの間にか込み上げてきた涙のせいで。
「はっきり言えば、シュリエラに王太子殿下との結婚話が持ち上がったのは絶好のタイミングだったんだよ。そうでなければ、私はシュリエラをいつまでもつなぎ止め、今暴言を吐くよりももっとずっと深く傷つけてしまったかもしれない」
 サファラスは小さなため息をついた。
(ここにはもう来るな、と……アルダ様が言わなければ、私に言えただろうか…………)
 サファラスはゆっくりと自分に問いかける。
 いつの間にか自らの命の極限を悟り始めていたサファラス。
 そんな状態でいつまでもシュリエラをそばに置いて良いとは思っていなかった。なるべく早く、もう来てはならないと伝えなければならなかったのだ。
 そうでなければシュリエラが負う傷が深くなってしまうから。
 いくら深い傷を負ってもサファラス自らが手当をし、守ってやれるならいい。しかし、シュリエラが傷を負うということは、サファラスがもう彼女のそばにはいないということ。
 そんなこと、分かっていた。分かり切っていたのに、サファラスはいつまでも言えなかった。
 理由は簡単だ――シュリエラを愛していたから。
 限界の限界までそばに置きたくて、見ていたくて、言い出すことはできなかった。
 そんな時にアルダが手紙を送ってよこした。
『娘にはもう会わないで欲しい』
 と。
 もちろん、その一言だけではない。手紙の要点を言えば、そういうことが書かれていた、というだけだ。
 優しいシュリエラの父らしく、その手紙にはサファラスを気遣う言葉がところどころにちりばめられていた。きっと、サファラスを傷つけないよう何度も書き直したのだろうと簡単に推察できた。
 いっそ汚い言葉で罵られて、娘には金輪際近づくな、と言われた方が楽だったかもしれないと思うくらい。
 やがて例の噂を耳にしたサファラスは、シュリエラを本当に愛しているならどうするべきなのかを改めて思い知らされたのだ。
 サファラスがふと視界にレナンシュアを収めると彼女は目を真っ赤にして涙をポロポロと零していた。
「何でお前が泣くんだい?」
「だって……だって…………それではサファラス様ばかりが辛すぎます。サファラス様だけが…………」
 子供のようにしゃくり上げて泣くレナンシュアの涙をサファラスはそっと拭ってやる。
「いいかい、レナ、死にゆく者ができることはただ一つ。残された者がその後もずっと幸せに暮らしていけるようにすることだと私は思うんだ。誰か一人が亡くなっても時は止まらず流れ続ける。だから、残された者が歩みを止めず、時に乗って幸せを掴めるようにしてやりたいんだよ。シュリにそれができれば……私は幸せだ。辛くはない」
「それでは……サファラス様が、一人ぼっちじゃないですか」
「そうかもしれないな。でも……それでもいいさ」
 レナンシュアは涙を拭ってくれたサファラスの手を両手でギュッと握りしめる。
「ならば、わたくしが……わたくしがずっとおそばにいます。サファラス様が嫌だと申されても、一人にはしてさしあげません。あなた様がお生まれになった時から、わたくしはずっと一緒なのですから…………」
「お前は優しい子だね。そんなことを言うと、私はそれに甘えてお前を傷つけてしまうよ」
「サファラス様に傷つけられるなら、本望です」
 レナンシュアは未だ残る涙を自分の手で拭った。
「さぁ、レナ……泣きやんだら例のアレを頼めるかい? 急ぎでフォレイン家へ」
「はい、かしこまりました」





 どうやって屋敷まで帰ってきたのか……シュリエラはそれさえ覚えていなかった。
 サファラスの元へ出かけてから半刻と少しが経った頃、おぼつかない足取りで屋敷に戻ってきたシュリエラをミアナが抱き留めるように迎え入れた。
「シュリ様? どうされたのです? サファラス様にはお会いになったのですか?」
「…………」
 ミアナの問いにシュリエラが答えることは無い。
 そして、部屋に入るなりポロポロと大粒の涙をこぼして泣き崩れた。
 今まで堪えていたものを全て放出するかのように声を上げて泣くシュリエラ。
 ミアナはそんなシュリエラにそれ以上何も尋ねることはなく、寄り添いただ抱きしめて背中を優しくさすってやった。
 主人の身に何が起こったのか、ミアナには分からなかった。
 それでも、泣くほど辛い思いをしたことは紛う事なき事実である。
「サファラスがね……もう、わたしには会いたくないって…………」
 消え入るような声でシュリエラがそう言ったのはずいぶんと経ってからのことだった。
 ミアナは話し始めた主の声に耳を傾ける。ただ単調に彼女の背を叩きながら。
 シュリエラはポツリポツリとサファラスとの間にあったことをミアナに話し始めた。
 まだ彼女の中で巧く整理がつかないのであろう、ミアナがその話を全て聞き終えるまでにはかなりの時間を要した。しかし、ミアナは一度も急かすことなくじっと静かに話を聞き続けた。
「わたし……王太子殿下のところなんて行きたくないないのに…………。サファラスはさっさと行けばいいって…………」
 途中でシュリエラはまた嗚咽を漏らし始める。
 感情のコントロールが利かないのだろう。
 ミアナはそんなシュリエラが愛おしくなり、彼女を抱きしめる手にギュッと力を込めた。
「ねぇシュリ様。それは本当ですか?」
 ミアナは優しくゆっくりと話しかける。
「だって……サファラスが言ったのよ。サファラス本人の口から……聞いたんだもの。それに……もうわたしと会いたくないって。全て終わったんだって…………」
 シュリエラはすがるようにミアナの服にしがみつき細い肩を震わせる。
「たとえご本人が言われたとしても……それが本心なのでしょうか?」
「…………?」
 シュリエラは涙で濡れそぼったその顔をわずかに上げた。
「わたくしは、違うと思います。サファラス様は考えもなしにシュリエラ様を傷つけるようなお言葉を述べる方では無いはずです。少なくとも、わたくしが存じているあのお方はそのようなことはなさいません」
「ミアナ……それはどういうこと?」
 すっかり涙が止まってしまったシュリエラはミアナをきょとんとした目で見た。
 ミアナはそんなシュリエラの瞳に残る涙をハンカチで優しく拭ってやる。
「サファラス様にも……何か事情がある。そう信じてみてはいかがですか?」
「サファラスに事情が?」
「えぇ。そうです。そうでなければ、サファラス様がそのように酷いお言葉をシュリ様に仰るとは思えないのです。そうではありませんか?」
 ミアナはシュリエラに微笑みかけた。
(まだ……望みはあるの?)
 シュリエラはミアナの顔を見ながらわずかに注す光が見えたような気がした。
「ほら、シュリエラ様。しっかりなさってください。そうと決まればまだできることはあります。もう一度、機会をうかがって何とかサファラス様に会いに行きましょう? またわたくしが何とかいたしましょう。まだ何一つとして終わってなんていませんから」
 ミアナは元気づけるようにシュリエラの背をポンッと軽やかに叩いた。


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