第6話
シュリエラは光の消えたうつろな目をして庭にいた。
目の前にはサネノアの花がある。満開を過ぎ、既に濃紅色の実がいくつかなっている。
十日以上が経った今でも、シュリエラはサファラスの死を未だに受け入れることができなかった。また、受け入れようともしない。
しかし、そんなシュリエラの気持ちとは裏腹に、王太子との結婚話は着々と進んでいた。
一月後には城へ上がるのだとアルダはシュリエラに言った。
だが、シュリエラにとってそんなことはもうどうでも良い。
彼女の中ではサファラスが全てで、彼のことしか考えられなかったから。
涙が枯れるほどに泣いた末、シュリエラはできることなら自らの命を絶ってしまいたかった。
事実、彼女は何度も死のうとした。しかし、それらは全て両親やミアナたちによって阻止されたのだ。
生きる望みも失い、死ぬことも許されないシュリエラはいつの間にかその瞳から光を失った。
シュリエラは徐にサネノアの実を一つその手に取る。
濃紅色の丸く小さな実が掌の上でコロリと転がる。
『サネノアは花が咲いた後、濃紅色の小さな実を付けるが、それを食べると記憶が消える』
昔、本で読んだ一文がシュリエラの脳裏に浮かぶ。
(食べたら……本当に忘れられるかな)
(今までのことも、自分のことも……サファラスのことも、全て…………)
そして、シュリエラがその実を口に運ぼうとした時だった。
「それを食べて、サファラス様のことを……何もかもをお忘れになるつもりですか?」
突然の声に驚いたシュリエラは手にしていた実をポトリと落とした。
丸いそれはコロコロと転がっていく。
「レナ…………」
シュリエラは声の主をそう呼んだ。
レナンシュアは自らの足下まで転がってきた実を拾う。
「これを食べたら、シュリエラ様は幸せになれるのですか? 全てを忘れて、お城へ上がれば幸せになれますか? ……でしたらわたくしはお止めしません」
レナンシュアはシュリエラに実を差し出す。
「忘れたいの……。死ぬことができないのなら……もう、何もかもを忘れたいのよ…………」
シュリエラは深い深いため息をついた。
サファラスが亡くなったと聞かされてから、シュリエラは来る日も来る日も考えた。
サファラスがなぜあんなにも酷いことを言ったのか、あれが本当の本当に彼の本心だったのか。それとも…………
しかし、何度考えても答えは同じ。
もう誰にも分からない、である。
だからシュリエラは忘れることを選ぼうとした。
答えの出ないことを考え続けて苦しむのなら、死ねないのなら、何もかもを忘れてしまおう、と。
「忘れて……それで本当に後悔はしませんね? 優しかったサファラス様、あなたを一途に愛し続けたサファラス様……忘れるということは、そんなことも全て忘れてしまうんですよ。それでもシュリエラ様は後悔なさらないのですね」
言われた瞬間、シュリエラの脳裏はサファラスで埋め尽くされる。
忘れろと言われても決して忘れられないサファラス。
小さな時からずっと一緒で、いつも優しくて、笑っていたサファラス。
どんな時もシュリエラを守り、導いてくれたサファラス。
『シュリ、おいで』
『可愛いね、シュリ』
『シュリ、好きだよ』
『結婚しよう、シュリ』
サファラスの声がシュリエラの中で繰り返される。
そんなシュリエラにレナは言葉を重ねる。
「そんなサファラス様を愛したことを……お忘れになってもよいのですか?」
シュリエラは耐えられずにその顔を覆った。
「忘れ、たく……ない。忘れる、事なんて……できない…………」
涙混じりの声を絞り出すシュリエラをレナンシュアはそっと抱きしめた。
既に遥か遠くへと行ってしまった主人の代わりに。
「でしたら、覚えていてください。シュリエラ様を心から愛し、最期の最期まであなた様だけを愛し抜いて逝ったあのお方のことを…………」
いつの間にかレナンシュアの瞳にも涙が浮かんでいた。
しかし、レナンシュアは自らの役割を果たすべく、唇を噛みしめて涙を引かせる。
「本当は黙っているよう言われましたが、今日はシュリエラ様に一つだけお伝えしに参りました」
レナンシュアはシュリエラを体から離し、その瞳をジッと見つめた。
一瞬、沈黙という名の静けさが辺りを包み込んだ。
「シュリエラ様……どうか王太子殿下に嫁ぎ、お幸せになってください。何があろうとも必ず。それが……あのお方の、サファラス様のお望みでした」
「サファラス……の?」
レナンシュアはゆっくりと頷いた。
「死期を悟ったサファラス様が、シュリエラ様に暴言を吐き、遠ざけてまでお望みになられたことです。シュリエラ様が死に逝く自分の傍にいれば傷ついてしまう、だから王太子殿下の元へ行く方が良い、と。……そうでもなければ、あのお方が愛するシュリエラ様にあのような態度はおとりになるはずがございません。ですからどうか……どうかサファラス様の最期のお望みを叶えてさしあげてください」
レナンシュアはその頭をゆっくりと深く下げた。
涙を堪え、毅然とした態度で自分の役割を果たそうとするそんな彼女を、シュリエラは涙に歪む視界で見ていた。
その時のレナンシュアは強くしなやかで、そして美しかった。
シュリエラは、彼女を見ながらずっと苦しんでいた胸のつかえがようやく下りた気がしていた。
(あぁ……この人が……レナが………答えを持っていたのね)
(やっぱり……サファラスは…………)
シュリエラの瞳からは堰を切ったように涙が止めどなく溢れていく。
もう涙なんて枯れてしまったとシュリエラは思っていたのに、それでもポロポロとこぼれていく。
「それからもう一つだけ。シュリエラ様……サネノアの花言葉、ご存じですか?」
「忘却……よね」
シュリエラは涙を拭いながら答える。
「一般的にはそうですね。でも、濃紫色のサネノアに隠された別の花言葉があるのはご存じですか?」
シュリエラは答える代わりに、首をかしげた。
レナンシュアはそれに対しわずかに微笑む。
「あなたを決して忘れません……ですよ。まるで反対、でしょう? ……願わくば、いつまでも忘れずに、その記憶の中でサファラス様を生かしてさしあげてください」
言い終えると、レナンシュアは一度だけ深くお辞儀をしてその場を去っていった。
シュリエラはそんなレナンシュアの背中をいつまでもいつまでも見つめていた。
「……リ様…………シュリ様!」
シュリエラはふと我に返ったようにミアナを見る。
「どうかされましたか? ご気分が優れないのですか?」
「ううん。何でもないわ。大丈夫」
(あれからもう……四年が経つのね)
思い出していた遠き日の記憶を再び大切にしまい込むように、シュリエラはゆっくりと息を吐いた。
「シュリ様、殿下がお越しですよ。お呼びしても全然お返事されないから…………」
ミアナが目配せした方向を見ると、先ほどまでシュリエラが本を読んでいた椅子にいつの間にか王太子が腰掛けていた。
「まぁ……殿下、申し訳ございません」
「良いんだよ。何か、悩み事かい?」
「いえ、ちょっと庭の花を見ていただけです」
シュリエラは窓辺から離れて王太子の元へと歩み寄る。
「花って、コレのことだろう?」
王太子はそういいながら背中から一輪のサネノアを取り出した。
「あら、どうされたのです?」
「シュリはこれが好きだからね。庭師に見繕ってもらって、一番綺麗なものを一つ手折ってきたんだ」
王太子はそのサネノアの花をシュリエラの髪に飾り付ける。
一瞬、シュリエラの中でデジャブのように遠き日のシーンが蘇る。
別荘地の野原でサファラスがプロポーズをしてくれたあの日、あの時…………
「シュリ、綺麗だね」
『シュリ、きれいだね』
記憶の中の幼い声が、王太子のものと一緒に聞こえた気がした。
(この人は……あの人と同じようにわたしを愛してくれる)
「殿下、よろしければお散歩に参りましょう? わたくし、もっと近くでサネノアの花が見たいのです」
「もちろんだよ。私もそう思って君を誘いに来たんだ。シュリは本当に好きだね。サネノアの花が」
「えぇ。大好きですよ。殿下の次に」
シュリエラはフフッと笑った。
(これで、これで良いのよね? ……サファラス)
シュリエラは記憶の中の声に静かに語りかけた。
―END―