忘却の彼方に

「ねぇ、サファラス様……こちらは今、遅咲きのサネノアがまだ綺麗に花を咲かせています。今日はお屋敷に咲いたものを少し切ってきたのですよ」
 ある晴れた日に、レナンシュアは一人その場に立っていた。
 そこは、見晴らしのよい丘の上に建てられたサファラスの墓。
 その墓前でレナンシュアは今は亡き主人に語りかけていた。
 返事がないのは百も承知で、
「そちらはどうですか? サネノアは咲いていますか?」
 ゆったりとした口調で尋ねる。
 続けて、
「サファラス様、今日は任務の失敗を報告にあがりました」
 レナンシュアはその場に膝を着き、懐から徐に二つの小瓶を取り出した。
「お約束通り、シュリエラ様には会って参りました。サファラス様のご想像通り、とても悲しんでいらっしゃいました。ですが……これをお渡しすることはできませんでした」
 取り出した小瓶を、レナンシュアはそのまま墓前に置いた。
 その中身は薬師が調合した特別な薬。
 サネノアの実から抽出したエキスを原料に、特別な手法で作られた薬――通称、忘れ薬。
 サファラスがこれをレナンシュアに渡したのは、彼が息を引き取る二日前の事だった。
 レナンシュアはその瞳を静かに閉じ、その時のことを思い起こす。





 いつものようにレナンシュアがサファラスの傍に控えていると、彼は力のない声で彼女を呼び寄せた。
 「どうされました?」とレナンシュアが枕元に駆け寄ると、サファラスは枕の下から小さな小瓶を二つ取り出した。
「レナ……私の、最後の望みを聞いてもらえるかい?」
 サファラスは既にあまり力の入らぬ手で、まず小瓶の一つをレナンシュアへ渡した。
「……これは?」
「忘れ薬、だよ。うちが好意にしている薬師に頼んで調合してもらった」
 レナンシュアは噂に聞いたことのあるだけのそれを、手のひらの上に乗せて不思議そうに見ていた。
「レナ……私が死んだら、これをシュリに飲ませてもらえないだろうか?」
「シュリエラ様に……ですか?」
 少しばかりの驚きを含んだレナンシュアの言葉に、サファラスは静かに頷く。
「あの子は、優しい子だから……私が死ねばそれをずっと気に病むだろう。だったら、綺麗さっぱり……忘れさせてやりたいんだ。私との記憶はもちろん、私という存在さえも」
 その時、サファラスの脳裏には最後に見たシュリエラの泣き顔が思い起こされていた。
 遠ざけるために、冷たい言葉をかけた。
 二度と自分の事など考えることの無いよう、いっそ憎まれればいいと思って、酷い態度をとった。
 それでも…………
(私が死ねば、シュリは悲しむんだろうね…………)
 サファラスにはそれが容易に想像できた。
 だから、その苦しみを最小限にとどめてやりたくて……もう、自分の事では心を傷めて欲しくはなくて…………
 サファラスは“忘却”という手段を選択した。
「忘れてしまえば、シュリはきっと王太子殿下の隣で笑って花嫁になれる」
「しかしサファラス様、それでは……」
「レナ」
 言いかけたレナンシュアの唇を、サファラスは自らの指で優しく閉じた。
 そして、かぶりを振る。
「君の言いたいことは分かってる。でも、いいんだ。シュリが幸せになってくれないと、私は安心して天に昇っていけないからね」
「…………」
 サファラスは唇の戒めを解いてくれたが、レナンシュアは答えることができなかった。
 そして、サファラスはもう一つの瓶をレナンシュアに渡した。
「それから、これは君の分」
「わたくし……の?」
「そうだよ。シュリエラに飲ませた後に、レナも飲むんだ。何も私は君だけを苦しめる気はないよ。全てが終わったら、レナも綺麗さっぱり忘れるんだ。そして、この屋敷を離れて新しい生活を始めなさい」
 サファラスは一度言葉を切り、柔らかな微笑みを浮かべてレナンシュアを見つめた。
「私の自意識過剰かもしれないけれど、レナはきっと……そうでもしないとずっと悲しみ続けるだろう? 君もシュリに負けないくらい優しい子だからね。でも……私はそんな未来は望んでいないんだ。だから、飲んでくれるね?」
「…………」
 レナンシュアは答えずに、サファラスから視線を外す。
 それからしばらく待ったが、レナンシュアが答えを出すことは無かった。
「レナ……これは命令だ。いいね?」
 サファラスは少し語調を強めて言った。
 しかし、
「嫌……です」
 レナンシュアの返答は否だった。
 それは、レナンシュアにとって生まれて初めてのサファラスに対する拒否だったかもしれない。
「レナ………」
「嫌です。忘れません。わたくしは、サファラス様をお一人にはしないとお約束しました。いつ、何時もおそばにいると。サファラス様は……そんなわたくしをひとりぼっちにするおつもりですか?」
 レナンシュアは涙で上擦る声で必死に思いを伝えた。そこまで言えば、きっと優しいサファラスであれば応じてくれると思って。
 しかし、
「駄目だよ、レナ。命令だと言っただろう。……すべてを忘れなさい」
 サファラスは決して譲らなかった。
 レナンシュアはそのまま子供のように泣きじゃくってしまったが、サファラスはそんな彼女をあやすように撫でてくれたものの、遂に折れることはなかった。





 記憶を呼び起こしながら視線をたゆたわせていたレナンシュアは、ふぅっと一つ息を吐いて墓標へと焦点を合わせた。
「本当はね、サファラス様の言いつけ通り、シュリエラ様にはこの薬を飲んでいただこうと思ったんですよ。最悪は騙してお食事に入れてでも、飲んでいただこうと考えました。でも、できませんでした……」
 レナンシュアが会ったシュリエラは、サファラスが想像していたとおり、愛する人を失い、悲哀に満ちていた。元々細いからだがさらにやせ細り、頬は痩けていた。
 ミアナに聞いたところによると、サファラスに拒絶された日から先、食事もあまり摂っていないとのことだった。
 彼の逝去の知らせを受けてからは、自室で泣いているか、庭園の隅でサネノアの花を見ているか……日を追うごとに衰弱していると聞いた。サファラスの後を追いたがる自殺企図も見られ、もはや誰も何もしてやれないというのだ。
 だから、レナンシュアは主人の言いつけ通り、主人の愛した婚約者に薬を投じようと決めたのだ。
 しかし、最後の最後で、踏みとどまった自分がいた。
 サネノアの実を口に運ぼうとしていたシュリエラを見た瞬間、
 ――それが本当に彼女にとって幸せなのか?
 ――綺麗さっぱり忘れてしまうことが、本当に幸せにつながるのか?
 レナンシュアは、突如湧き出た疑問に身を任せるように、気づいたときにはシュリエラに問いかけていた。
 ――すべてを忘れれば、幸せになれるのですか?
 意地悪な質問だと思った。身分の低い自身が聞いていいことではないと思った。
 それでも、レナンシュアは聞かずにはいられなかった。
 シュリエラがそれにどう答えるのか、レナンシュアはわからなかった。しかし、レナンシュアの言葉が紡がれるたびに揺れ動くシュリエラの視線に、レナンシュアはある種の答えを見い出していた。
 そして、最後にシュリエラは泣きながら言った。
 忘れたくない――と。
 レナンシュアは手に持っていた小瓶をそっと握りしめ、そのまま持ち帰ることに決めた。
 代わりに、主人の思いをシュリエラに伝えた。
 そんなこと、サファラスは望んでいないとわかっていた。言うなれば、これはレナンシュアのエゴだ。
 それでも、サファラスが最期の時に何を考え、何を思っていたのか、シュリエラには知ってほしかった。
 その方が、彼女はきっと幸せになれると思ったから。
「サファラス様、申し訳ございませんでした。わたくしは、忠臣にはなりきれなかったようです。……サファラス様はきっとどこかでご覧になっていたんでしょう? 怒っていますか? 許していただこうとは思っていません、でも、わかってください」
 レナンシュアは墓前で深々と頭を下げた。
 ふと、柔らかい春の風がレナンシュアの頬を撫で、それはまるでサファラスが許しを与えてくれたかのように錯覚させる。
「サファラス様はお優しいですね。でも……任務に失敗したからには、きちんと罰を受けるつもりです」
 レナンシュアは墓前に置いた小瓶のうち、一つの封を開け、中身を草むらへとこぼした。
「今後一生、あなた様のことを決して忘れない……その罰を、わたくしに与えてください」
 レナンシュアは墓石をそっと撫でた。
 いつの間にか溢れてきた涙をこらえることなく、レナンシュアは墓石にすがりついた。
 サファラスとの思い出が、レナンシュアの脳裏に走馬燈のように駆け巡る。その思い出に呼応するように、涙は止まるところを知らずに彼女の頬を濡らす。
 やがて、どれほど泣いた頃か……
「サファラス様……最後にわたくしの願いを叶えてはいただけませんか?
 レナンシュアは涙をなんとか拭いながら残り一本の小瓶の封を切ると、墓石にゆっくりと薬をかけていく。
「わたくしは、あなた様にこれ以上辛い思いをしてほしくないのです。いつか、わたくしや……皆がそちらへ行く時まで、こちらのことはすべて忘れていてください。どうか……すべて忘れて幸せにお過ごしください」
 そして最後に、消え入るような声で……
「愛して……いました。サファラス様…………」
 言葉の終わりとともに、小瓶の中身が空となる。
 もとより、叶うはずも、叶えるつもりもない愛だった。
 それでも、レナンシュアは誰よりも近くでサファラスを愛していた。
 シュリエラから奪おうと思ったことなどない。サファラスへ思いを告げようと思ったこともない。
 ただ、サファラスの幸せを望むことだけが、レナンシュアの愛だった。
 それさえも、叶うことはなかったけれど…………
 レナンシュアは、それからしばらく墓石に体をもたれかけていた。
 時折、春の暖かい風が頬を撫で、レナンシュアの涙をゆっくりと優しく乾かしていく。
『サファラス様を愛したことを……お忘れになってもよいのですか?』
 つい一刻ほど前、自らがシュリエラに掛けた言葉が、ふと脳裏をよぎる。
 あれは、レナンシュアが自分自身に問うた言葉だったかもしれない。
 それに対し、『忘れたくない』と泣きながら返したシュリエラに、レナンシュアは自己を投影したのだ。
 そう……
「忘れません……忘れてなんてやりませんよ。絶対に」
 レナンシュアは目尻に残った涙をぬぐうと、その場にスッと立った。
 その日一番大きな春風が、レナンシュアの頬を優しく撫でた。

―END―




Extra.