「またおねーちゃんなの!?」
「なによ、モンクあるっていうの?」
「だって、きのうもおとといもそのまたまえも……おねーちゃんばっかりじゃないか!!」
「きのうもおとといもそのまた前も、ジャンケンでまけたのはゆーちゃんでしょ! くやしかったらかてばいいじゃない。よわいゆーちゃんがわるいんだから!!」
 ここは龍菱家のリビング――時刻は夜の八時を回ったところ。声を張り上げているのは、龍菱りゅうびしあかり八歳とその三つ下の弟、ゆづるである。
 そのすぐ傍で彼らを見守るのは彼らの長兄、ひびき。といっても、響は横目でチラチラと事の次第を見ているだけでその意識のほとんどは目の前で広げている本へと向けられている。それは子ども向けの教育雑誌で、今回の特集は数週間後にやってくるという巨大流星群について。
 少し前から天体に興味を持ち始めた響は最近時間があればそんな本を読みあさっていた。だから今もどちらかといえば、それに集中したくて「はやく静かにしてくれ……」という意味合いで妹たちを見ている訳である。
「とにかく! 今日もわたしがかったんだからシンデレラなの!!」
「ヤダ!! きょうはぜったいセンゴクせんたいサムライレンジャーがいいの!」
 再び、燈と弦が声を張り上げた時だった。
「賑やかだなぁ……」
 ふとそんな呟きを漏らしたのは、彼ら姉弟の父、環だった。
 響が隣にいる父へと視線を向ければ、彼は今まで読んでいた英字新聞から顔を上げて火花を散らしている娘と息子を見ていた。
「まぁ……お母さん、上手だからね」
 響は相変わらず本へ視線を落としたままそれに返答をする。
 燈、弦の姉弟が一体何を争っているのか――それは、彼らの母、深知留が寝る前にしてくれる絵本の読み聞かせの権利だ。
 深知留は、子ども達が寝入るまで毎晩一冊必ず読み聞かせをしてくれる。それもただ絵本を読み聞かせるだけではなく、身振り手振りや声の抑揚を効果的に使い、子どもが豊かな情景を思い描けるような読み聞かせをしてくれる。それは、下手をすればそんじょそこらの図書館で行われている読み聞かせより数倍巧い――少なくとも子ども達はそう思っている。
 響もそれにはお世話になった。一番上の特権と言おうか、次妹の燈がある程度の年齢になるまでは毎晩独り占めだったくらいに。
「お前はいいのか?」
 ふと環から掛けられた問いに、響は本から顔を上げる。その眉間には少し皺が寄っている。
「ねぇ、お父さん……俺、もう十歳だよ? この年になって、寝る前にお母さんに本読んでもらうってちょっと問題じゃない?」
 冗談はやめてよ、とばかりに響はその肩を竦めてみせる。
 すると、環は「それもそうか」とフフッと笑って見せた。その後、静かに一つ溜息を吐いたのを響は見逃さなかった。
「そういうお父さんこそ、なんじゃない?」
「……え? な、何がだ?」
 息子の突然の問いに、環は明らかに動揺する。
「何がって……お父さんこそ、お母さんと一緒に寝たいんじゃないかってこと。最近、お母さんって毎晩、燈と弦と子ども部屋で寝てるみたいだし。お父さんもそろそろ広いベッドにひとりはさみしいんじゃないの?」
「べ、別にそんなことは……独りなら独りで勝手も良いし、仕事もできるしそれに最近は…………」
 子どもに変なことを気取られたくないのだろうか……環は響が聞いてないところまで延々と言い訳を始める。
 そんな父を見ながら息子、響は「言い訳しなくてもいいよ、お父さん」と、心の中で静かに呟く。
 だって、響は数日前に聞いてしまったのだ。
 朝、どこか元気のない環を迎えに来ていた秘書が言っていた台詞を。
『最近、愛しい奥様を独り占めできてないんでしょう?』
 愛しい奥様――それはもちろん、深知留のこと。
 確かに、最近環に元気がないことは響も気付いていた。だが、その直前に環は長期の海外出張に出かけていたので、響はてっきり出張疲れなのだと思いこんでいた。
 しかし、秘書のその一言でピンと来た。
 響が知っている限り、環が長期の出張から帰った後はやたら深知留に甘えている。本人は隠しているつもりだろうが、子どもの目から見てもそれは明らか。しかし、ふと思い返してみれば今回はそれがないのだ。
 というのも、環が帰ってきた龍菱家で毎晩繰り広げられていたのは燈と弦の熾烈な深知留争奪戦。しかも、深知留も深知留で環が出張中は子ども達と寝るのが習慣化していて、彼が帰国してからもズルズルとそうしている。少なくとも、夕べまでは。
(お父さんも大変だね……)
 未だ言い訳を羅列する環に対し、響は心の内でそっと労いの言葉をかける。
 そして、
「ねぇ、お父さん」
 響は今まで読んでいた本を静かに閉じるとその場にスッと立ち上がった。
「……な、なんだ?」
「ホームプラネタリウムの機械か天体望遠鏡……どっちか欲しいんだけど、前向きに検討してくれない?」
「え? 響、お前突然何を…………」
「じゃ、よろしく頼んだよ」
 響は環に有無を言わせず、そのまま妹たちの所へと向かう。
 未だ言い争いをしていた燈と弦は、突然の兄の姿に一瞬黙る。
「ねぇ二人とも。今日は、お兄ちゃんが読み聞かせするんじゃ駄目?」
 突然提案した響に、燈と弦はすぐに口々に文句を言い始める。お母さんじゃなきゃ嫌だ、とか、お兄ちゃんは最近星の話ばかりでつまらないだとか…………
 しかし、響にとってはそれも予測済み。彼はそんな妹たちに「ちょっと耳をかしてごらん?」というと、コソコソっと耳打ちをした。
 すると、一瞬のうちに彼らの顔はパァッと花が咲いたような笑顔になる。
「じゃ、ベッドに行こうか。今日は特別にシンデレラもサムライレンジャーもどっちも読もう」
 響が続けてそういえば、燈も弦も「うん!!」と元気よく返事をしてちょこちょこと兄の後ろに付いていく。
「おやすみ、お父さん。お母さんと仲良くね」
「あ、あぁ……おやすみ」
 未だ事の次第を十分に飲み込めない環に、響はニコリと笑みを残して姉弟達を引き連れ部屋を後にした。



 ◆◆◆



 それから、数十分後――――
「あら、子ども達は?」
 リビングへとやってきた深知留は、いつもと違い静まりかえっているその場に少し驚く。 ここ数日を考えれば、燈と弦がああでもない、こうでもないと騒いでいてもおかしくないはずなのだが…………
「もう寝たよ」
「そうなの? 珍しいわね」
「今日は響が読み聞かせをするそうだよ」
 深知留はそれにふーんと返事をしながら、ソファーの環の横に腰を下ろす。
 しかし、五分も経たない内に「ちょっと様子を見てくるわ」と深知留はソワソワと席を立とうとする。
 が、彼女が立ち上がる瞬間、環はその手をクッと引いた。
「え!?」
 深知留がそんな声を漏らした時には、彼女は不可抗力で環の膝の上に座っていた。
「あ、あなた?」
「大丈夫。あの子たちはあの子たちなりに勝手にやってるよ。何かがあれば響が来るだろう」
 驚く深知留に、環は優しく彼女の体を抱きしめる。
 そして、
「ねぇ深知留。たまには、俺と二人の時間を過ごすのもいいと思わないか? ……久しぶりに、ね?」
 環は既に腕の中に囲った深知留の耳元で囁く。
 そのまま、フッと息を吹きかけてやれば深知留はわずかに頬を染める。
 まるでそれは無垢な少女のような反応であるが、いくつになっても――例え母になってもそんな可愛い反応を見せてくれる深知留に環はその顔を綻ばせる。
 そして、息子と随分高い契約を結んでしまった気もするが、それもまた良いだろうと環は一人納得する。だって、彼のお蔭で今深知留が自分の腕の中に居るのだから。



 ◆◆◆



 一方、子ども部屋ではベッドに三兄弟が川の字になって寝転がっている。
「ねぇ、お兄ちゃん。さっきのお話……本当?」
 燈は響が読み始めたシンデレラなどそっちのけで問いかける。
「さっきのって?」
「だから、さっきの赤ちゃんのお話!」
「あぁ……」
 言われて響は先ほど姉弟に耳打ちしたことを思い出す。
『今夜は、お母さんをお父さんに貸してあげて? もし、お母さんとお父さんが仲良ししたら、赤ちゃんがくるかもしれないよ』
 響の返事が無いのを確認して、今度は弦が身を乗り出す。
「おにーちゃん、あかちゃんはいつくるの?」
 それはもう、待ちきれないというような期待に満ちあふれた瞳である。
 なぜなら……燈と弦の近頃の願いは、赤ちゃんが欲しい、なのだ。
 だから、響は先ほどそのネタを使った。深知留の絵本の読み聞かせよりも更に絶大な効果を持つであろうそのネタを。
 そもそも、最近、響達両親の友人宅で赤ちゃんが生まれた。そこの家は兄三人で末っ子に女の子。彼女が生まれた時に、響達三兄弟は深知留に連れられて病院まで会いに行ったのだ。
 その時見た赤ちゃんに燈と弦はたいそう感激したらしく、「うちもぜったい赤ちゃんがほしい!」と思い至ったらしい。
「わたし、由利おばちゃんちみたいに女の子がいいな」
「うん。ぼくも、いもうとがいい!」
 気の早い彼らは、もう生まれてくることを前提に性別の話になっているようだ。
「ねぇ、おにーちゃん。いつ? あしたにはくる? それともそのつぎ?」
 一向に答えを寄越さない兄に、弦は更に質問を投げかける。
 しかし、
「さぁ……いつかなぁ。でも、そんなにすぐは来ないよ」
 響はやはり曖昧な返答を出す。
 確かに、赤ちゃんがくるかもしれない、と言ったのは響自身。でも、だからといって具体的に突っ込まれても困るというのが響の本音だ。
 一応性教育なるものは響も学校で受けている。その時に保健の先生が、紙芝居やら絵本やらで精子だの卵子だの受精だの――事細かに説明をしてくれた。そしてその授業の一番最後に、先生が「要はみんなのお父さんとお母さんが仲良ししたら、赤ちゃんできるのよ」と言ったので、響はそれらをそっくりそのまま妹弟に言ったわけである。だって、幼い彼らに小難しい話をしても理解できるとは思えないし、その程度で十分だと思ったから。
 しかし、無駄に彼らの興味を煽ってしまったようである。
 だから響は、
「みんなで『早く来ますよーに』ってお願いすればすぐくるよ。きっとね」
 そう言って、逃げ……いや、願いを託した。
 そんな兄の事情など露知らず、燈も弦も「ホントに!?」と顔を輝かせると、「じゃあ、お星さまにおねがいする!!」とベッドから下りて窓辺に走っていった。
 喜び勇む彼らの後ろ姿を眺めながら響は、
(これで赤ちゃんできなかったら、俺、燈と弦に恨まれるよな……)
 と、ちょっとばかり不安に思ったとか、思わないとか。


−おわり−
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