深夜――シャワーを浴びバスローブを羽織った環は静まり返る庭を窓から眺めていた。
 片手に持つミネラルウォーターのボトルを時折口へと運び、渇いた喉を潤す。
 ふと、背中で聞こえた衣擦れの音に環は静かに振り返る。
 ベッドサイドのライトが僅かに灯る中、ベッドに俯せに横たわる深知留と目が合う。環がシャワーを浴びる前は確かに寝ていたのに、いつの間にやら起きたようだ。
「なんだ、起きてたのか?」
 環の問いに深知留はコクリと頷く。
 環はそれを確認しながら、愛しい恋人の元へと向かいベッドサイドにそっと腰を下ろした。
 そして、乱れて顔に掛かる深知留の髪をそっと除けてやればそれは汗で僅かにしっとりとしていた。先ほどまで彼らが愛を確かめ合っていた名残だ。
 そのまま何度か指で髪を梳いてやれば深知留は目を細めて微笑む。それはまるで喉の下を撫でてもらう猫の様に。
「うるさかった? それとも、怖い夢でも見た?」
 環の問いに深知留はかぶりを振る。
 だったらどうして……と環は密かに思う。
 深知留は情事後に寝落ちるとほとんど目を覚まさない。それは言い換えれば、環がそこまで彼女を体力的に追い込むからだ。
 肌を重ねる間隔が空いた時は尚更で、一週間振りに海外から帰った今夜もそれと同様であるはずだったが彼女は珍しく目を覚ました。
「水飲む?」
 深知留は環の問いに頷く。
 すると、環がペットボトルを差し出してくれたので深知留はそれを受け取ろうと手を伸ばした。が、受け取った瞬間手の中のペットボトルがバランスを崩す。
「おっと……」
 零れる寸前で受け止めた環に対し、深知留は眉根を寄せる。
 そんな深知留に環がクスリと笑みを零せば詰る様な視線が返事の代わりに飛んでくる。
「ごめん……力が入らないんだろう?」
「……って、環さ……が……」
――だって、環さんが
 そう告げようとするも、深知留の声は掠れていて上手く出ない。
 深知留が何とか声を出そうと咳払いをすれば、
「俺が? 激しくし過ぎたって?」
 環が勝手に楽しそうに言葉の続きを紡ぐ。
 すると深知留は何とも複雑な顔をしてボスッと枕に顔を埋めてしまった。それはまるで、なんて事言うんですか! とでも言いたげに。
 環は「ごめん」と言うが、クスクスと笑いが漏れてしまう。
 いつまでも笑い続ければ、すっかり拗ねた深知留が枕の隙間から環を咎める様に睨む。
 だが、その目は疲労のせいか、それとも羞恥のせいかほどよく潤んでおり、環にすればそれがまた別のものを連想させて些か困った状況になる。
「そんな顔するな」
――また押し倒したくなる
 後半部分は心の中に押しとどめ、環はペットボトルから水を一口煽るとそのまま深知留の顎を掬って口付けた。
「……ん……」
 環から送り込まれる潤いを深知留は上手に飲み下す。
 もっと? と問えば深知留が頷いたので環はもう一口与えてやる。
「美味しい……」
 先ほどより幾分発声できる様になった深知留はそのまま環の膝の上に体を預ける。そして力の入らない手で僅かに彼のバスローブを掴む。それはまるで甘える様に。
 環はそれが何だか嬉しくて、深知留の手に自らのそれを重ねる。そして、未だ素肌を晒す彼女が風邪など引かぬ様にとブランケットを引き上げてやる。その頃にはすっかり深知留の目はとろんとしてしまった。
 そのまま深知留は寝てしまう……そう環は思った。そしたら自分は残っている仕事を片づけに立とうと。
 だが、深知留は寝なかった。正確に言えば、寝ない様に耐えている様だった。
 限界を感じるたび、深知留は目を擦り環の手を握った。
 その手は温かく、眠くないはずがなかった。そのうちあまりにも辛そうな深知留を見かねた環は「眠いなら寝ればいい」と深知留の頭をそっと撫でてやった。
 すると深知留はまるで小さい子が駄々を捏ねる様にイヤイヤと首を振る。
「どうして? 疲れたんなら寝ればいい。傍にいるから」
「駄目……。だって…………」
 深知留は言いかけて言葉を止める。
 その瞳は何かを考えている様だったが、環はその続きが知りたくて俯き加減の顔を自分の方へと向けさせる。
「だって? 何?」
 そうしてやれば観念したのか深知留は小さく一つ溜息を吐いた。
「環さん……明日からまたいないんですよね?」
 確かに、環はまた明日からフランスへの出張が入っていた。
 今日まで一週間は韓国へ、やっと帰ってきたと思ったら今度はまた十日近くいなくなってしまう。
「だから……その…………」
 詰まるところ、深知留は寂しかったのだ。
 環の仕事を十分理解している深知留は、これまで一度だって我が侭など言ったことはない。何処へ行くと言われても、長らく帰らないと言われても、環の身を案じる言葉を添えて素直に送り出してきた。
 だが、それはあくまでもそうしていただけであって本心からというわけではない。たまにはこんな風にどうしようもなく寂しいと思ってしまうことがあるのだ。
 今回はその気持ちに何だか抑えが利かなくて、甘える様な行動に出てしまった。
 だがそれを実際に言葉にすることは憚られて……
 一方で、環は深知留の様子から大体彼女の言わんとしていることを理解していた。
 そうしてしまえば、実際に彼女の口からその事実を聞きたいのが男の性というものである。
「だから?」
 環は再び深知留を促す。
 しかし、深知留は言い澱む。
 別に照れているわけではないし、もちろん焦らしているわけでもない。それなりの彼女の考えがあってのことだ。
 ここで自身が勝手な感情を口にすれば環に余計な負担をかけてしまうのではないかと……実に深知留らしいとも言うべき思惟があるのだ。
 結局、
「何でも……ないです」
 考えた末に深知留はそう告げた。気持ちを反映するかの様にその視線は下へと向く。
 その時だった。
「俺は……寂しいよ」
 環の口から零れた言葉に深知留は僅かに視線を上げる。
「仕事だって割り切っても……君に長く会えないのは結構辛い。深知留は? 寂しくない?」
「…………」
 問われたそれに深知留は一瞬応えられなかった。
 環はさらに重ねる。
「俺と離れてても……平気?」
 すると深知留はふるふると何度もかぶりを振った。
「いや……です。わたしだって……」
 漏れ出るのは小さな声。
「わたしだって……寂しいんです。時々、どうしようもないほど……会いたくなるんです」
 環はそれに静かに耳を傾ける。
「本当はずっと一緒にいたいけど、でもそれはわたしの勝手な我が侭だから……だから、そんなこと言ったら環さんには迷惑かと…………」
「迷惑なわけないだろう?」
 深知留の言葉は環に遮られる。
「どちらかと言えば、いつも笑顔で送り出される方が寂しくなるよ。君は俺がいなくても平気なんだろうなって思うとね」
「そんなこと……そんなことないです!」
 深知留は身を乗り出す様に環に抱きつく。
「平気じゃない……平気じゃないから、だから今日も……できればずっと環さんと一緒にいたくて……寝ちゃうのなんて勿体なくて…………」
 そこまで言うと深知留の視界が一気に反転する。
 気づけば、環の顔が真正面にあってその先には見知った天井――深知留は環に組み敷かれていた。
 落ちてくるのは触れるだけの優しい口づけ。
「それなら、朝まで寝ないでいる?」
「…………」
 一瞬、意味の解せなかった深知留であったが、すぐに環の言わんとする意味を把握して僅かに困った顔をする。
 だが、今日この時の深知留は少しだけ違った。
「じゃあ、充電……させてください」
「充電?」
「はい。次に会う時まで電池切れにならない様に……寂しくならない様に、朝まで環さんをいっぱい補充してください」
 深知留はお返しとばかりに環にキスをする。
「そんなこと言って……途中で音を上げても知らないよ? 手加減できなくなるかもしれない」
「いいですよ。環さんでいっぱいになれるなら。その代わり……十日分、いっぱいにしてくださいね」
 満面の笑みを浮かべる深知留をいつまでも見ていたいと思いながら、環は焦点の合わない位置にまで彼女に近づきその唇を捕らえる。
 それが二人の充電開始の合図だった。








 翌朝、環は深知留の寝顔に一度だけキスを落とした。
 その身には既にスーツを身に纏い、出掛ける準備は万端だ。
 環は離れる際に深知留の頬をそっと撫でたが、疲れ果てているのだろう彼女はピクリとも動かなかった。一方で、環も僅かな疲労感を覚えていたが、それはあくまでも心地よい疲労感である。
 しばらく深知留の寝顔を見つめていた環は、これではどちらが補充をしたのだが分からないとフッと笑みを零す。
 その時ふと思い出すのは、昨晩結局一度も手を付けられなかった書類の存在。
 本当は、環は今回屋敷に戻る予定は無かった。韓国から帰国後は空港近くのホテルに泊まり、仕事をこなして翌朝の便でフランスへ行く……そういう予定だった。
 だが、それを急遽変更した。仕事をこなすからと政宗を説得して、更には必要な資料を屋敷に置いたままだと嘘まで吐いて。
 随分訝しい顔をしていたから恐らく政宗は気づいているだろう。その証拠に「だったらその資料は私が取りに行きます」とは言わなかったから。いつもの彼であれば確実に言っている。
(きっと、仕事が終わってないことも予測済みだろうな……)
 環は小さく一つ溜息を吐くと、もう一度深知留の首元にその顔を埋める。
 パッと鮮やかに咲くのは紅い華。
 それは環なりの充電完了のシグナル。これが消える前に帰ってくるのは恐らく無理だが、それでもなるべく早く帰ろうと心に誓い環は静かに部屋を後にした。

−おわり−

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