「由利亜ももうすぐね。体は大丈夫なの?」
 京は目の前のアイスコーヒーに浮かぶ氷をストローで突いた。その衝撃でカラリンとグラスの中で氷が涼しげな音を立てる。
 季節は五月の下旬、日差しの強い日は長袖を着ているともう汗ばむほどの暑さである。
 ここは華宮家のリビング。由利亜と京が向き合うようにソファーに座っている。
「大丈夫よ。毎日家にいても退屈しちゃって。訪ねてきてくれて嬉しいくらい」
 由利亜は答えながら臨月間近の大きなお腹を撫でた。
 もうすぐ産まれてくる新しい命が、この中には入っている。
「結構不安だったりする? 産まれてくるのを待つって」
「そりゃ、少しはね。でも楽しみの方が強いよ? 深知留さんの赤ちゃん見たりしてたから余計に、ね」
 由利亜は一年前に産まれた深知留の子を思い出していた。
 初めて見た生まれたての赤ちゃん。何もかもが小さくて、心許なくて……抱き上げるのさえ怖かった。それでも、可愛いいと思う気持ちが強かったことを由利亜は今でもよく覚えている。
 まるで小さな宝物……それがもうすぐ由利亜の腕の中にやってくるのだ。
「でも、由利亜も二十三歳でママかぁ……」
「早いって? そうでもないよ? わたしとしては蒼さんが三十になる前に産みたかったから遅いくらい」
「ってことは蒼さん、今年で二十九歳? そりゃそうよねぇ〜、だって考えれば基お兄ちゃんが二十九歳だものね。なんだか、懐かしいわねぇ……あれからもう六年か」
 京は物思いに耽るように言い、窓の外へと視線を向けた。
 由利亜と蒼が出会って、結婚してもう六年――色々なことがあったが、思い返してみればあっという間だった気もする。
「六年前は想像もできなかったわね。二十三歳の由利亜が、すっかり主婦になってこんな大きなお腹してるなんて」
 京は由利亜に視線を戻して微笑んだ。
「わたしだって想像できなかったけど? 京がバリバリのキャリアウーマンになるなんて」
 由利亜は微笑み返した。
 大学卒業後由利亜はすっかり華宮の家に入り、女主人として藤乃のサポートの元、蒼を支えて屋敷を切り盛りしていた。
 対する京は卒業と共に樹月紡績に就職し、今では二年目にして企画開発部の第一線で働くキャリアウーマンである。
「どんなこと言ってもわたしはどうせコネ入社だからね〜。馬鹿にされないように頑張ってるだけよ。悔しいじゃない? 結婚までの腰掛け、とか、お嬢様のお遊び、とか思われるの」
 京は謙遜していつでもそう言うが、それだけでやっていけるほど甘い世界ではない。
 由利亜としては、京の性分がキャリアウーマンとしてやっていくのに相応しいのだと思っていた。
「そうそう。由利亜、忘れないうちに渡しておく。今日はコレのために来たんだから」
 京はそう言って自分の横に置いていた大きな紙袋からいくつもの物を取り出しはじめた。
 テーブルの上に京が並べるのは、赤ちゃん用の下着に洋服、涎掛けに靴下……テーブルの上はあっという間に埋め尽くされた。
「京、一体コレは……」
「こういうの、数があっても困らないでしょう?」
「いや、それはそうだけど……」
「急がないから後で使用感を教えてくれると助かる。これね、うちでベビー用に開発した繊維を使って作った物なの。華宮紡績で最近出された物に対抗して作ったのよ。使用感、華宮の物と比べてくれるとよりありがたいんだけど?」
 京は必要と思われる用件を伝えると、テーブルの上に並べた物を再び紙袋にしまって由利亜に差し出した。
「もちろんジャッジは公平にね? いくら由利亜といえども華宮贔屓は無しよ?」
 サラッと無茶なお願いをする京に由利亜は思わず笑ってしまった。
「何よ、由利亜」
「ふふ……京、本当に仕事に生き甲斐感じてるんだなぁ、と思って。とてもじゃないけど、来月結婚する人には見えない」
 由利亜は京の左薬指に光る婚約指輪を見た。
「それ、どういう意味? マリッジブルーとか、エステに追われてるのが普通って事? ……残念ながら、今はそれどころじゃないのよ。今週末から四日間はパリに出張だしね。本音を言えば籍だけ入れれば式も披露宴もどうでも良いくらい」
「え、それは駄目よ」
 人生の一大イベントにあまり興味がなさそうに言う京を由利亜が慌てて止めた。
「京のウェディングドレス姿、わたしは楽しみにしてるんだから。まぁ……それまでにこの子が産まれてくれると良いんだけど。この大きいお腹で出席はできないからね」
 由利亜は「頼むわよ」とお腹を優しく叩いた。
「そうね……。ねぇ赤ちゃん、そういうわけだから早く出てきてちょうだいね? あ、でも今日明日なら良いけど今週末から四日間は出てきちゃ駄目よ? 京オバちゃんがあなたに会えないからね」
 京は相当無茶な申し出をしながら、身を乗り出して大きな由利亜のお腹を撫でた。
 すると、その時赤ちゃんがポンと由利亜のお腹を中から蹴った。
「あ、今蹴ったわ」
「じゃあ、了承ということでこの契約は成立ね、赤ちゃん。もちろん、契約違反は許さないからね?」
 赤ちゃんまでもを商談相手にする京に、由利亜はアハハと楽しそうに笑った。








 その日の晩、由利亜は大きなお腹を抱えて中庭のベンチに腰掛け、満点の星空を見上げていた。
 結婚して間もない頃、晴れている日は毎日のように星空を見上げている由利亜のため、蒼がこのベンチを備え付けてくれたのだ。
「ねぇ、お母さん。もうすぐ、赤ちゃん産まれそうよ? お母さんもお父さんも、孫ができるわね」
 由利亜は愛おしそうにお腹を撫でながら星空に話しかける。
 とその時、由利亜の肩にふわりとカーディガンが掛けられた。
「由利亜、ここにいたのか。冷えるぞ?」
「あ、おかえり。今日は早かったのね」
 由利亜は振り返ってベンチの後ろに立つ蒼を見た。
「来客が一件無くなったんだ。それより……温かくしろ、っていつも言ってるだろう? まだ朝晩は冷えるんだから」
 蒼はブツブツ言いながら由利亜の隣に腰掛けた。
「大丈夫よ。そんなに神経質にならなくても」
「由利亜が気にしなさ過ぎるんだよ。まかり間違って今風邪でも引いたらどうするつもりだ? ……まだここにいるなら、藤乃に頼んで膝掛けを用意させるか? それとも毛布の方が……」
 独り頭を悩ませる蒼の仕草がおかしくて、由利亜はクスッと笑みを漏らした。
 その脳裏には、妊娠当初のことが思い出される。
 由利亜のお腹に赤ちゃんがいると分かった時、待ち望んでいただけに蒼の喜びは一入であった。しかし、その一方で蒼の心配のしようったらなかったのだ。
 例えば、由利亜がいつも通りに出かけようとすれば何人もの人を付けられ、コケッとつまずこうものなら歩くな動くなの騒ぎだった。
 それに、何処の何が良い、という情報を得ればそれを即座に取り寄せ、“安産祈願”のお守りだって「こんなにあったらある意味、御利益無いんじゃ……」と不安になるくらい収集してきた。
 その蒼の過保護っぷりを見るに見かねた経験者の深知留が「無茶さえしなければ、多少のことは大丈夫よ」と言えば「お前と由利亜じゃ繊細さが違う」と言い出す始末……
 最後は氷室や藤乃、竜臣が『これでは由利亜様がストレスフルだ……』と一致団結し、蒼を半ば無理矢理に海外出張に追い出したほどだ。
「ふふ……」
 由利亜は思い出したらおもしろさがこみ上げてきて、思わず笑い声を上げてしまった。
「何がおかしい?」
「相変わらず心配性だから。今がこの調子で産まれてきたらどうするのかな、と思って」
「心配するに越したことはないだろう? まずは無事産まれてくれればそれで良い」
 蒼は赤ちゃんに語りかけるよう、由利亜のお腹をそっと撫でた。
「ねぇ、男の子と女の子……どっちだと思う?」
 由利亜も蒼も生まれてくる子の性別は知らなかった。
 もちろん希望すれば教えてくれると医者は言った。それでも、産まれてくるまで楽しみにしたいと由利亜が望まなかったのだ。
 蒼は由利亜の問いにうーん、と唸る。
「京はね、男の子だって言うんだけど、藤乃さんと深知留さんは女の子だろうって。わたしの表情からそう思うって言ってたけど」
「女の子かぁ……」
 蒼は何かを考えるように星空を見上げた。
 由利亜も隣で一緒に見上げる。
「もし女の子なら……素敵な恋をして欲しいな。わたしやお母さんのように。それで同じように最愛の人と一緒になって幸せになるの」
 由利亜は「ね?」と蒼に同意を求めたが、どうしたわけか彼は返事をしてくれなかった。
「……駄目、なの?」
 由利亜は不安混じりに尋ねる。
「いや……駄目ってことはないけど……その……何というか……まぁ…………」
 蒼は肯定も否定もせずにそのまま口籠もってしまった。
 由利亜はそこでピンと来た。
「ねぇ蒼さんもしかして………」
 由利亜はこみ上げる笑いを堪えながら、隣で複雑な面持ちをする蒼を見やった。
「まさか、今から『嫁にはやらん!』とか思ってる?」
「べ、別にそんなことは……」
 明らかに挙動不審になった蒼に由利亜は遂に堪えきれずにプッと吹き出した。
「笑い事じゃない。大事なことだろう? 変な男に引っかかったらどうするんだ。世の中そんなにいい人ばかりじゃないんだぞ? 遊んだり、騙そうとするヤツだって大勢……」
「あーはいはい。それは、大丈夫よ」
「何で言い切れる?」
 わかったわかった、とばかりに軽くあしらう由利亜に蒼は問いかけた。
「何でって? それは、わたしの娘だから」
「由利亜の娘、だから?」
 蒼は訝しそうな表情で首を傾げる。
「そう。わたしの娘なら、男を見る目はあるってことよ」
 由利亜はニコリと笑い、優しく蒼の頬に口づけた。
 そして蒼から離れる瞬間、彼の耳元でそっと囁いた。
「わたしの娘ならね、蒼さんみたいな“いい人”を、広い世の中から必ず探し出せるわ」
「…………」
 その一瞬の出来事に蒼は呆気にとられたようにその場で硬直してしまった。
 由利亜はそんな蒼を余所にカーディガンを羽織り直してその場を立った。
「さぁ、蒼パパ。もうおうちに入ろう? 今日ね、京がおもしろい物を持ってきてくれたのよ。わたしたちの小さな宝物のために、ね」
「由利亜……」
 蒼は堪えきれない嬉しさのため、変態よろしくな表情を見せながら、先に歩いていった由利亜の後をいそいそと追った。



−おわり−