「そりゃあね、うちが業績不振なのは認めますよ。でもこのご時世です。副社長もそこの所よく分かってくれたって……」
「そうですねぇ、河部かわべ社長のお気持ちはよく分かりますよ」
 華宮グループ本社、最上階の一角にある休憩スペースでは一人の男性がガクリと肩を落としていた。
 この気弱そうに見える人物、実は華宮化学の代表取締役、河部氏である。それと向き合うように座って慰めの言葉をかけるのは、華宮グループ副社長第一秘書の末広竜臣。
「副社長も何も責め立てようと思って河部社長をお呼びになったわけではないのですよ」
「でも、あんな言い方しなくたって……」
 河部は言いかけて、さらに肩を落とした。
 どうやら先ほど蒼に言われた言葉を思い出したらしかった。
 今朝一番でこの河部は蒼に呼ばれた。最近の業績不振について報告をさせるために。
 そんなのはよくあることで、呼ばれた河部も特に何も考えず、必要と思われる書類を揃えてやってきた。
 しかしただ一つ訳が違ったのは、今日の蒼がすこぶる機嫌が悪かったということ。
 だからといって、河部に対して感情的に怒鳴り飛ばしたわけでも八つ当たりをしたわけでもない。
 蒼は商売敵である樹月バイオケミカルの業績詳細を河部に提示し、それを比較対象としてこてんぱんに打ちのめしたのである。あくまで理論的に。
 痛いなぁ〜と思うであろう所を蒼は河部にズバズバと質問していった。河部も最初はそれに何とか対応していたが、この日の蒼は容赦がなかったのだ。
 それも、どの質問も「ごもっともです」というモノばかりで河部は最終的に答えに詰まった。最後はもう「いやぁ〜」と「そのぉ〜」の二言しか言えなかったくらいに。
 そこで蒼から言われたのがこの一言。
『今お答えいただけないのでしたら、一両日中に問題点と打開策の報告書をまとめて提出してください。言い逃れしようと思っても、無駄ですよ』
 それは流石に言いすぎだな、と竜臣も傍で聞きながら思っていた。
 しかし、言い方が悪いだけで社のためを思えば決して酷い言葉ではなかった。なかったのだが……相手を傷つけるには十分だったようだ。
 竜臣はすっかり俯いてしまった河部を、やれやれといった表情で見ていた。
「河部社長、そんなに落ち込まずに。副社長はね、本当は河部社長に期待をしているのですよ」
 竜臣の言葉に、河部は年齢を重ねてそれなりに皺が寄った顔をわずかに上げた。
「副社長は期待を持てない人間にはあんな言葉は掛けません。多少言い方がきついところはありますが、それは期待の大きさに比例してのことですよ」
「副社長が……私に期待を?」
「ええ。だって今の華宮化学を立て直したのは河部社長のお力があってのことではないですか」
 竜臣は河部に優しく笑いかけた。
 河部は先ほどよりももう少しだけ顔を上げた。
「前代表取締役の時代に不祥事があって壊滅寸前だった会社を、あなたは血も滲むような努力でここまで立て直してこられた。その世界では名もなかった『華宮化学』が、今や業界トップの『樹月バイオケミカル』に並んでいるんですよ。……なかなかできることではありません」
「いやぁ……あの時は、大変でしたよ。確かあれは……」
 いつの間にやらその顔を完全に持ち上げた河部は、自分の武勇伝とも言える会社再建の話を嬉しそうに始めた。
 竜臣はそれを何度も聞いて知っていたが、少しも嫌な顔はせずにこやかにうんうんと頷いて聞いている。時には「それでそどうしたんです?」「普通の人には真似出来ませんね」と合いの手を入れて、河部が心地よく話せるように努めた。
「副社長はね、そんな河部社長だからこそ期待されているんですよ」
 ひとしきり話を聞き終えた竜臣は穏やかな声で言った。
「河部社長、あなたならあの『樹月バイオケミカル』を抜ける、『華宮化学』を業界トップにのし上げられる……副社長はそう信じていらっしゃいます」
「でも……私は昔ほど若くはないですし」
「何を仰っているんです。若さがなんですか。年を重ねた分河部社長には“経験”が身に付いている。大きな強みです。そうではありませんか?」
 竜臣は河部の瞳を力強くジッと見つめた。
 次第に河部の表情に力が漲ってくる。
「できますかね……? いや……できるよう努めます。やってみせようじゃないですか!!」
 すっかり笑顔の戻った河部はそのやる気を見せるかのように、拳を握りしめて見せた。
「はい。その意気ですよ河部社長!!」








「それでは、報告書ができあがり次第すぐに連絡しますよ」
 河部は竜臣に軽く一礼をすると、先ほどとはうって変わってやる気に満ちあふれた様子で去っていった。
 竜臣はその背中を見送りながら、ふぅっと小さく一つため息を吐く。
 その時だった。
「流石ですね、室長は」
 不意に聞こえた声に竜臣は振り返る。
 そこには秘書室の主任、一ノ瀬いちのせ真希まきがいた。
「ああいう風に相手をやる気にさせるんですね。勉強になりました」
「聞いていたのか?」
「はい。途中からですが。……失礼かとは思いましたが、今後のために」
 真希はフフッと笑った。
「それで、どうかしたのか?」
「つい先ほど、華宮銀行の村田(むらた)頭取が副社長との面談を終えられたのですが、室長とお話しをしたいと……」
 真希は言葉の最後を濁した。
 竜臣の中で嫌な予感がする。
「……河部社長以上か?」
「いえ、似たかよったか、というところでしょうか」
 真希は竜臣の言葉にすぐに何かを察したようで、少しばかり肩を竦めて見せた。
「副社長……どうしたわけか、今日は凄いですね。容赦なし、という感じで」
「う〜ん、まぁ…ね……」
 竜臣は真希に曖昧な返事をした。
(機嫌……悪いんだよなぁ、今日の蒼様)
 理由は分かっていた。
 それは昨日、由利亜が屋敷の近くで基の車から降りるところを目撃してしまったから、である。
 それも由利亜は笑いながら嬉しそうに車から降りたのだ。バイバイ、と車中にいる基に可愛らしく手まで振って。
 アレは本当にタイミングが悪かった。一緒にいた竜臣が思わず「あ」と声を漏らしてしまったくらい。
 あと五分、社を出るのが遅ければそんな物を見ることも無かっただろうに……。後悔先に立たず、とはよく言ったものである。
 あの後からそれはもう目に見えるほど蒼の機嫌が悪くなったのは言うまでもない。一応、彼の最大限の理性で、外面的には少々機嫌が悪い程度で取り繕っているが、その機嫌の悪さが半端ではないということを竜臣は分かっていた。
 少なくとも、こうして容赦が無くなるくらいには。
「……何かあったんでしょうかね?」
「副社長も色々とあるんだよ」
 ふと尋ねた真希に竜臣ははぐらかした。
 真希もそれを察したのかそれ以上は詮索しない。
「まぁでも……あんな副社長、わたし嫌いじゃないですよ」
「え?」
 真希の意外な台詞に、竜臣は思わず声を漏らした。
「だって、何かあったら取り乱す、って人間臭くて良いじゃないですか。副社長っていつも無感情で鉄仮面の様な完全無敵さでしょう? それはそれで凄いな、と思いますけど、わたしは人間臭い方が好きですよ。まぁ、経営者としては駄目なのかもしれませんが、親しみは持てます」
 真希は「そう思いません?」と同意を求めた。
 竜臣はそれが何だかおかしくてフッと笑みを零した。
「人間臭い、ね。確かにそうかもしれないな」
(昔は不安になるくらい無表情でまるで機械のようだったが、最近は本当によく変わったものだ……)
 竜臣は由利亜が来てから目に見えるように代わり始めた蒼のことを考えていた。
(ただ、まだコントロールは利かないようだけどな)
 感情が豊かになるのは社会生活上良いことであるが、それを巧く制御して使いこなせなければ巨大組織の経営者としてはやっていけない。
 この世界はそれ程甘いモノではないのだ。特に年若い蒼に関しては。
(まぁ、コントロールできるようになるまでは俺がフォローすれば済む話か)
 竜臣は納得したように息を一つ吐いた。
「一ノ瀬さん、悪いけど村田頭取を応接室に案内してもらえる?」
「室長、少しお休みになりますか? 村田頭取にはお待ちいただくよう交渉してみますので」
 真希は少し心配そうに竜臣の顔をのぞき込んだ。
「いや。大丈夫だよ」
「でも……この後、副社長は華宮海洋開発と華宮鉄工、それに華宮紡績の代表取締役と会うご予定ですよ。この調子だといずれも同じ事になるのではないかと……」
「…………」
 真希の言葉に竜臣の顔が一瞬引きつる。
 しかし、すぐに諦めたように真希に微笑んで見せた。
「何とか……するよ。副社長のフォローも秘書の仕事のうちだからな。それで互いにうまくいくなら喜んでやるさ」
 真希はそれに「はい」と返事をすると、足早にその場を後にした。
(とりあえず、コントロール云々の前に蒼様には早急にご機嫌を直していただかないとな……いくらフォローすると言ってもこの調子が続いたら流石に俺も持たない)
 竜臣は、その場で一度背伸びをした。
「さて、とりあえずは仕事仕事」
 その後、竜臣が日が暮れるまで蒼のフォローに徹した事はいうまでもない。
 だって彼は、蒼の専属世話がか……いえいえ、第一秘書だから。



−おわり−