平穏に過ぎていたある日の晩、事件は起こった。
 それは蒼が長期の海外出張を終えて帰国した日のことだった。
 空港から一度社に寄った蒼が必要最低限の仕事だけをこなして帰宅すると、最愛の妻、由利亜と末娘の有羽奈ゆうなが玄関先に迎え出てくれた。
「パパぁ、おかえりぃ!!」
 有羽奈は久しぶりに見る父親に興奮したのか、嬉しそうにはしゃいで蒼に飛びつく。
 蒼もまたそれに顔をほころばせながら娘を抱き上げる。
「ただいま、有羽奈。お兄ちゃんたちは?」
「まだ帰ってないわよ」
 有羽奈の代わりに答えたのは由利亜だ。
かおるは中学校の部活、まきたすくはそれぞれお友達のうちに行ってるわ。みんなそろそろ帰ってくるとは思うけれど」
 由利亜は息子達の動向を伝えながら、時計をちらりと見やった。
「そうだ、二人とも、お兄ちゃんたちが帰ってくる前にお風呂に入ってしまったら? 有羽はパパとお風呂に入るって待っていたんだものね?」
「うん。ゆうちゃん、パパとおふろはいるー」
 由利亜の言葉に有羽奈は嬉しそうに返事をする。








「有羽、目痛くないか? シャンプーが入らないように気をつけるんだよ」
 蒼は目の前にちょこんと座る有羽奈の髪を優しく洗いながら声を掛けた。
「だいじょうぶだよぉ〜。パパじょうずだもん」
 浴室に響く有羽奈の可愛らしい声に、蒼はついつい顔が緩んでしまう。
 どんなに過酷な出張に出ても、どんなに難しい商談があっても、娘と過ごすこの一時を考えれば耐えられると蒼は確信していた。
 蒼は由利亜との間に四人の子を儲けた。上三人の息子達もそれぞれに思い入れがあって大切に育てていたが、蒼は末娘の有羽奈を特別可愛がっていた。
 有羽奈は夫婦でどうしても女の子が欲しいと願って授かった子であり、兄たちと少し年の差がある。だから余計に可愛くて可愛くて、目に入れても痛くない、という表現がぴったりの可愛がりようであるのだ。
「ねぇ、パパ? とりーとめんともちゃんとしてね?」
 シャンプーの泡を落とした有羽奈は徐に振り返った。
「ゆうちゃんのかみ、きれいきれいにしてね?」
「分かったよ。でも、有羽の髪はトリートメントなんてしなくたって綺麗だよ」
 蒼は娘にデレデレになりながら彼女の髪を手櫛で梳いてやる。
「ママみたいにきれい?」
「あぁ。ママと同じくらい綺麗だよ」
 つぶらな瞳で見上げる有羽奈に蒼は優しく答える。
「じゃあ、ママよりもっともっときれいになるようにして」
 有羽奈はそう言うと由利亜が常日頃使っているトリートメントを蒼に渡した。
 蒼はそんな有羽奈に失笑してしまった。
 まだ幼稚園に通っているような幼子なのに、女は女なのだと思ったらおかしくてたまらなかったのだ。
「有羽はオシャレさんだね」
 蒼は何気なくそう言った。
 すると、有羽奈は再びくるりと蒼の方を振り返った。
 そして、
「だってねパパ、ゆうちゃんはきれいにならないとひーちゃんにきらわれちゃうもの」
 満面の笑みを浮かべて有羽奈は言った。
 さらに有羽奈は続ける。
「ひーちゃんね、かみのきれいなこがすきなんだって。だから、ゆうちゃんもきれいきれいにして、ひーちゃんのおよめさんにしてもらうんだ」
 そう言った有羽奈の顔にはどこか恥じらいのようなものも含まれていて……それはそう、まるで恋する少女の顔だった。
 それを目にするなり、蒼の表情が一気に強ばったのは言うまでもない。今までの筋肉が弛緩しきった顔など嘘のように。
「ゆ、有羽? ……ひーちゃんて誰だい?」
 蒼は嫌な予感満載の状況下で最低限の冷静さを保って有羽奈に尋ねた。
「え? パパ、がいこくいっててわすれちゃったの? ひーちゃんは、みちるおばちゃんちのひーちゃんでしょ?」
 有羽奈の言葉に蒼の中で次々とパズルが組み立てられていく。
 みちるおばちゃんちのひーちゃん――そのピースは一つしかなかった。
 深知留の長男、ひびきのことだ。
 もちろん蒼も彼のことは知っている。深知留の所とは家族ぐるみのつきあいで、彼が生まれた時から知っているくらいだ。しかし、普段から皆『ひびき』と呼んでいるために、すぐにそこへ思考回路が行かなかったのだ。
 そして、ようやく繋がった蒼の思考回路は、次段階へとルートを進めていく……
(だって響くんは……)
(冗談じゃないぞ……)
 蒼は到達した結論にその眉間に深い皺を寄せていた。
 有羽奈はそんな父親の心情などつゆ知らず、すっかり手の止まってしまった蒼に「ねぇ、パパはやくー」と急かした。








 バタン!!
 という乱雑な音と共に、蒼はリビングになだれ込んだ。よほど慌てたのか、それは前合わせが乱雑に閉じられたバスローブ一枚という格好である。
「由利亜!」
 大きな声に、由利亜は今まで読んでいた本を閉じた。その隣にはいつの間に帰ってきたのか次男の槇と祐の姿があった。
 そして、蒼の後ろからは、パンツ一枚で大判のバスタオルにすっぽりくるまった有羽奈がキャッキャと声を上げながらちょこちょこと付いて入ってきた。
「あらあら、有羽……まだ濡れてるじゃない。ちゃんと拭いて来なくちゃ駄目でしょう? 槇、有羽の体を拭いてあげてくれる? それから、祐はお風呂にいってらっしゃい」
 由利亜は兄弟二人にサクッと指示を出すと、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「あなたもまだ濡れてるじゃない。どうかしたの?」
 浴室での出来事など全く以て知る由もない由利亜は悠長にそう尋ねた。
「どうもこうもないだろう。深知留んとこの響くん、有羽とは仲が良いのか?」
「響くん? まぁ仲が良いって言うか、一緒にいる時は良く面倒見てくれるわよ。妹のあかりちゃんや弟のゆづるくんと一緒に嫌な顔一つしないで有羽のオママゴトにも付き合ってくれてるわ。良い子よね、響くん。だから、有羽は響くんのお嫁さんになるのが夢なんですって」
 そう言って、うふふ、と笑った由利亜に蒼の中で何かが切れた音がした。
「笑い事じゃないだろう!」
 あまりに大きな声に、傍にいた槇と有羽奈も驚いて蒼に視線を向ける。
「あなた、どうしたの? そんなに大きな声出して」
「冷静になれ、由利亜。響くんはうちの有羽より十歳も上なんだぞ。そんなのが認められるわけ……」
「やーねぇ、冷静になるのは蒼さんよ。有羽はまだ四つよ? 単なる子供の冗談よ。わたしだって、小学生の時は基さんのお嫁さんになりたいな、くらい思ってたもの」
 トドメは由利亜のその言葉だった。
『わたしだって、小学生の時は基さんのお嫁さんになりたいな、くらい思ってたもの』
 その部分だけが執拗に蒼の脳内でリピートされる。
 最終的には『基さんのお嫁さん』の部分だけが抽出されて蒼を責め立てる。
「槇、拭けた? ありがとうね。さぁ、有羽、早くパジャマ着ようね」
 由利亜はすっかり無言になってしまった蒼を残して、有羽奈を連れてリビングを出て行った。
「ねぇお父さん………お母さんはああ言ったけど、子供って、ある意味純粋で一直線だから、冗談が冗談じゃない時があるんだよね。ショシカンテツ、だっけ? そんな言葉、最近学校で習ったよ」
 二人の背中を見送りながらポツリと呟いたのは槇だった。
 小学五年生とは思えないような台詞であるが、誰に似たのかこの次男は昔から異常に冷めて落ち着いている節がある。
「でもねお父さん、たぶん今の時点では大丈夫だと思うよ」
「何が?」
「お父さんが有羽命、なら、芳兄ちゃんも極度のシスコンだからさ。お父さんの目が届かないところは芳にぃがカバーしてくれるよ。お父さんが出張中、やっぱり有羽が『ひーちゃんと結婚する』って言って芳にぃすっごい荒れたんだから」
 言われて、蒼は長兄芳を思い浮かべた。芳は九つ下の有羽を蒼に負けないほどに可愛がっている。それこそ、こちらも負けず劣らず目に入れても痛くないほどに。
「それに、大体から言って、今響にぃが四歳の子を相手にするとは思えないけど? これで相手にしてたら犯罪だよ」
「そうか……そうだよなぁ……」
 槇の冷静な理論展開に、蒼は安堵のため息を漏らした。
 が、
「でも……あんまり安心し過ぎちゃ駄目だよ。有羽が年頃になったら気をつけた方が良いと思う。例えば、有羽が十七の時、響にぃは二十七でしょう? 確か、お父さんは二十三の時十七のお母さんと結婚したんだよね? だから……今は無くても、その時の十歳差なら可能性は高いかもね。そうだ、深知留おばちゃんとこだって七つか八つ差だっけ? 響にぃも、有羽も年の差に抵抗無いだろうね〜」
「…………」
 ほっとしたのもつかの間、蒼の顔からは完全に血の気が失せていた。
 槇はそんな父親を視界の隅に入れながら「俺もお風呂行ってくるから」と言ってリビングを出て行った。
 それから数秒後、
「由利亜! 深知留に今すぐ電話しろ!!」
 という蒼の悲痛な叫び声が、華宮の屋敷に響き渡ったとか渡らないとか……。



−おわり−