名前の理由
時刻は夜の十一時―――
香夜の本日の仕事もあと二時間ほどで終わる。
今日は比較的平和で、外来患者が一人来ただけだった。
香夜は特にすることもなく院長室で備品用のノートを片手に物品のチェックをしていた。
患者が来ない限り、香夜は紘務と共にその時間の大半をこの院長室で過ごす。今夜も例外ではなく、香夜の隣ではやはり仕事のない紘務が院長用の椅子に座り、子供のようにクルクルと回って遊んでいた。
やがてその物品チェックもすぐに終わってしまい、香夜はソファーに深く腰掛け直した。
普通の夜勤のように記録も病室見回りの必要もない今の時間、暇を身に持て余した香夜は徐に口を開いた。
「ねぇ、院長……」
「ん?」
紘務は回していた椅子を止め、香夜の方へ体を向けた。
「一度聞きたかったんですけど、」
香夜は紘務の顔をジッと見つめる。
その時だった。
「彼女はいないよ?」
紘務はニッコリと微笑んで香夜にそう答えたのだ。
「…………」
突然与えられた意味不明の返答に、香夜は一瞬我が耳を疑う。
「あの……何の話ですか? 碧山センセ………」
「俺に彼女がいるかどうか聞きたかったんでしょう?もぉ~、香夜ちゃんたら恥ずかしがり屋さんだなぁ。そんなことなら、照れないでいつでも聞いてよ。二十四時間ウェルカムだよ」
ウィンクさえぶちかましそうな爽やかさで言ってのけた紘務に、香夜は思わず、
――二十四時間ノーサンキューです
そう言ってしまいそうになったのを懸命に堪えて、その表情に笑みを作り上げる。
そして、
「先生、お話進めてもよろしいですか?」
完全に聞かなかったこととして処理しきった。
が、
「あれ、香夜ちゃん、またそんな照れ屋さんな態度見せちゃってぇ。何、それ? もしかして今流行のツンデレってやつ? オジサン、これでもそのくらいは知ってるよ?」
未だ諦める気もなく話を変な方向へと持って行こうとする紘務に、香夜は次なる手段として今まで座っていたソファーを立ち上がった。
「院長、わたし、今日は早退してもよろしいですか?」
その一言は笑顔のまま香夜の口から放たれたが、現状継続断固拒否の意思を伝えるものだった。
「あーはいはい。………俺が悪かったよ」
ようやく諦めたらしい紘務はそう言いながら立ち上がると、部屋の隅にあるコーヒーメーカーからサーバーを取り出し、保温されていた中身を自分のカップに注いだ。
「香夜ちゃんも飲む?」
香夜はそれに無言で頷く。
「それで? 香夜ちゃんの聞きたいことは?」
「大したことじゃないんです。ただ、どういう思いでこの病院の名前、付けたのかなと思ったんですよ」
「名前? 『あおやま太陽クリニック』のこと?」
紘務はコーヒーを注いだマグカップを香夜に渡しながら尋ねた。
「そうです。なんで『あおやまクリニック』じゃなくて、太陽、ってわざわざ入れたんですか?」
与えられた質問に紘務はすぐには答えず、コーヒーをゆっくりと一口飲んで間を開けた。
「香夜ちゃんは、何でだと思う?」
「そうですねぇ……太陽って、元気なイメージがあるから、どんな病気も治るように願いを込めて、ですか? もしくは、意味の問題じゃなくて、字画の関係とか?」
紘務はそんな香夜の答えにクスリと笑いを零すと、徐に窓辺に寄り下ろされたブラインドの隙間から夜の町を見渡した。
二人の間に沈黙が走る。
「太陽ってさぁ……」
そう紘務が言葉を発したのはそれからしばらくしてだった。
香夜は紘務の横顔をその視界に収める。
「どんな人間にも平等に降り注ぐでしょう? 権力のある者にも、無い者にも、金のある者にも、無い者にも……。そして、表の世界に生きる人間にも、裏の世界にしか生きられない人間にも、全員に平等でしょう? だからここも、そんな病院であったらいいな………ってね」
そう言った紘務の横顔は酷く真剣で、そしてどこか寂しさを含んでいるような印象を与えた。それは、いつもの掴み所のないふざけた態度がまるで嘘のような、そんな表情だった。
(この人……こんな顔もするんだ………)
次第に、香夜はそんな紘務を放っておけない気分になり、
「院、長……?」
気づいた時には唇から零れ落ちるようにそう呼んでいた。
が、次の瞬間、「ん?」と答えながら向けられた紘務の顔は、いつものような表情に戻っていた。
紘務は元のように院長用の椅子に腰を下ろす。
そして、
「ねぇ香夜ちゃん……今の、冗談だよ?」
紘務はあっけらかんとした様子でそう言い放った。
(………は?)
香夜は思わずその眉間に皺を寄せる。
紘務はそんなことにも構わず続けた。
「太陽って入れたのは、何となくそれでイメージ良く聞こえるかな、って思っただけ。お日様サンサンと輝いてる感じ? それに、まさかそんな名前のところが裏家業やってるなんて、誰も思わないでしょう? それだけの理由だよ。……ところでさ、香夜ちゃん。さっき、俺のこと一瞬格好いい、って思ったでしょう?」
「……………」
すっかりいつもの調子に戻った様子の紘務に、香夜は精一杯の努力でため息を噛み潰した。
(前言撤回。さっき見たのは、何かの間違いね……)
そう思いながら。
その時、院長室の電話がけたたましく鳴った。
「はい、あおやま太陽クリニック……なんだ、遥ちゃんか」
紘務は電話の相手、遥夏と二、三言交わすとすぐに電話を切った。
「香夜ちゃん、遥ちゃんが仕事引っさげてくるってさ。外傷患者軽傷二名……十五分で来るって。処置室の準備できるね?」
紘務はそう言って白衣のポケットから鍵束を出し、それを香夜に投げた。
「十分でやりますよ」
(今夜も結局、忙しなくなりそうね………)
香夜は投げられた鍵束をキャッチしながら、もう数分後には見るであろう男性の顔を思い浮かべて院長室を出た。