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* 彼女の悩み 1 *

「……き……ざき……野崎さん」
 霞掛かる優しい声が聞こえて、今まで夢の世界を揺蕩っていた野崎のざき芽子めいこは覚醒へと誘われる。
(朝……? まだ起きたくない……もう少し…………)
 芽子は覚醒を拒否する。
 が、
「起きろ、野崎さん」
 誰かはそれを許してはくれないようだ。
 芽子が眠い目をゆっくり開くと、目の前には彼女を覚醒へと導いた“誰か”がいた。
 スッと通った鼻筋に、整った顔立ち、男のくせに嫌味なほど長い睫毛のその“誰か”……
城田しろたさん……おはようございます」
 芽子はその“誰か”、城田しろた七海ななみに挨拶をする。
「おはよう。よく眠れたか?」
 城田はクシャクシャになった芽子の髪を手櫛で梳いてくれる。
「御陰様で。もうちょっと寝ていたいくらいです……」
 芽子はゴロンと俯せになり、枕に顔を擦りつけた。そうこうするうちに、また心地よい睡魔が芽子を誘う。
 でも、
「駄目だ。これ以上は会社に遅れる」
 城田はポンポンと芽子の背を優しく叩いて、再び覚醒を余儀なくされる。
 時刻は朝の六時半。ここはとあるマンションの一室で、カーテンの隙間から朝日が射しこむ寝室。芽子と城田、二人はベッドの中にいて互いにパジャマを着て寄り添っている。
 どこにでもあるような恋人達の朝の風景。
 しかし、普通のそれとはちょっと違う。
 なぜなら――
 芽子と城田は恋人ではないから。
 もちろん夫婦でもない。
 二人の関係、それは――抱き枕とそれを抱いて寝る人、そんな関係だ。


★*★*★*★*★*★*★*★



 事の始まりは数ヶ月前。
 芽子は不眠に悩んでいた。寝付きが悪く、寝たとしても眠りが浅い。目覚ましは一応掛けて寝るが、それが鳴るより前に目は覚める。そんなことが毎日続いていた。
 原因は何か……考えたが不明だった。
 インターネットで不眠について検索してみればストレスや生活習慣の乱れがヒットした。
 しかし、芽子に思い当たる節は無い。
 ストレスに関して言えば、日々小さないざこざはあれどもそれは生活していく上で仕方のない事と割り切れるレベル。それ以外に別に取り立てて不安に思うことも無い。
 そして生活習慣に関しては、決して理想的とは言えないが仕事も夜勤などがあるわけではないので普通に朝起きて夜寝る生活だ。
 なのに、一度不眠に陥った芽子はなぜか眠れなかった。
 あまりに寝不足に陥った時は薬を使おうか病院に掛かろうか悩んだこともあったほど。しかしそれは少し抵抗があって踏み切れず終い。
 だって睡眠薬というのに怖いイメージがあったし、不眠という症状が果たして何科に行っていいのかもよく分からなかった。
 そして、一番の理由は――芽子はある要件が揃えば自分が寝られることを知っていたから。
 その要件、それは誰かが一緒に寝てくれればいいということ。
 それに気づいたのは、不眠になった後、機会があって実家に帰った時だった。
 芽子は普段、遠く離れたところで一人暮らしをして会社へ勤めている。休みが取れた時にふと思い立って実家に帰ると、母がたまには良いじゃない、と一緒に寝ようと提案したのだ。
 その晩、布団を並べて母と寝ると芽子は面白いほど深く眠れた。翌朝、「いい加減に起きなさい」と母に起こされるまでぐっすりと。それは久しぶりの感覚だった。
 たまたまだろうと思って翌晩は一人で眠ると、やはり眠れなかった。
 それからしばらくまた不眠気味の生活が続き、芽子はある時友達の家へ泊まりに行った。その晩、芽子は実家で母と寝た時のように熟睡したのだ。その友達には「あんた、身動き一つしないで寝てるから、一瞬死んでるのかと思った」と言われるくらいに。
 それで、芽子は『誰かが傍にいれば眠れる』ということに気づいたのだ。
 しかし、気づいたところで一人暮らしの芽子にはどうすることもできない。実家は頻繁に帰れる距離ではないし、友達の家を渡り歩くのも来て貰うのも限りがある。
 もう一つおまけに芽子は彼氏もいない。大学を出て仕事を始めてから、早三年……悲しいことに日々仕事で追われていたらそんな相手は見当たらなかった。
 仕方なしに打開策として、給料日を目掛けて少しいい抱き枕を買ってみた。宣伝文句によればセレブ御用達の素材で作ったとかいうお高い一品。
 しかし、それでは眠れないことがひと晩で分かった。結果、ベッドの上にやたらかさばるものが増えただけ。
 そんなこんなで不眠に悩み続けて随分憔悴した頃――今から丁度一ヶ月前、芽子は会社の飲み会でそれを同僚に話した。酒の勢いも手伝って、冗談半分に「わたしの抱き枕になってよぅ……」と同期の女友達、小見山こみやまさきに泣き付いたのだ。
 結局、咲には「彼氏でも作ればいいでしょ? 紹介しようか?」と言われて相手にされず終い。やはり解決策は見つからないのか、と芽子は諦めざるを得なかった。
 その飲み会の帰り道のこと。
 芽子は方向が一緒だという先輩、城田七海と一緒に歩いていた。
 城田は芽子の四つ上の先輩で、入社した時からよく面倒を見てくれる。無表情のことが多く、どちらかといえば近寄りがたいイメージの城田だが、仕事の教え方は丁寧で無駄が無く、多少物言いがキツイ時もあるが芯は優しかった。芽子もそんな城田にはよく懐き、先輩と後輩というよりかは兄と妹的な関係である。
「野崎さん、いつから眠れないんだ?」
 城田がふと芽子に尋ねた。どうやら、飲み会での話を聞いていたらしい。
「あ、城田さん聞いてたんですか? もう二、三ヶ月かなぁ……まったく眠れないわけじゃないんですけど、熟眠感がないって言うんですか? 参っちゃいますよ」
「薬は? 飲んでるのか? 病院は?」
 芽子はそれにかぶりを振る。
「いい加減行こうかな、とは思うんですけどね……。でもわたし、何でか人が傍にいれば眠れるんで、躊躇ってるんですよ。薬とかお医者さんに頼るほど酷くはないんだろうな、って」
「それで、さっき抱き枕、って?」
「はい。咲ちゃんなら一緒に寝てくれるかと思ったんですけど、すっぱり振られちゃいました。だって、咲ちゃん彼氏持ちですからねぇ。そりゃわたしと一緒に寝るなら彼氏と寝ますよね」
 芽子はアハハ、と笑い飛ばした。いや、正確には飛ばそうとした。
 だが、
「抱き枕、してやろうか?」
 城田のその言葉に、芽子は一瞬にして止まった。

* 彼女の悩み 1 *

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