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* 友人の援護 *

 三条初姫は、こぢんまりと商いをする居酒屋の引き戸をガラリと開いた。
 それと同時に聞こえるのは「いらっしゃいませー」という店員の元気な声。
 中に入って一歩、初姫はカウンター席の最奥でこちらを向いてひらひらと手を振る人物を見つける。その人物のもう一方の手には升酒が持たれている。
 その人物が初姫と呑む時は、いつも一杯目は中ジョッキの生ビールと決まっている。つまり、今日はもう数杯目ということだ。
 この人物との約束があったのに、終業時間三十分前に職員の人生相談を受けたのが間違いだった、と初姫は今更ながらに思う。
 あまりにも思い詰めた顔をしていたので、これは捨て置けないと聞き始めたら、まぁそれがどうでもいいような悩みだった。……まぁ、本人はそれで死ぬほど悩んでいる訳なので、どうでもよくはないのかもしれないが。
 それでもかなりがんばってここに来たわけだが、十八時半の待ち合わせからはもう三十分遅刻している。
 三十分程度なら、まだ二杯目くらいだろうか……
「お待たせ。遅くなって悪かったわね」
 初姫はその人物の隣に腰を下ろすと、カウンターの内側にいる大将に「こんばんは」と挨拶をする。大将はそれに「いつもご贔屓にありがとうございます」と会釈をしながら、熱々のおしぼりを渡してくれた。
 初姫はそんな大将に「生中一つ」と伝え、ようやく人心地。
「メールもらってたんで、好き勝手始めてましたし大丈夫です。人生相談は無事終わりました?」
「なんとかね。突然悪かったわね」
 遅刻をものともせずに升酒を煽る人物を、初姫はちらりと見やる。
「咲……それ何杯目?」
 初姫の待ち合わせの人物、小見山咲は升酒を飲み干すと、傍を通った店員に同じものをもう一杯注文する。
「まだ二杯目です。次で三杯目。料理全然頼んでないので、ひめさん好きなの頼んでください」
 咲の言葉が終わるのとほぼ同時に、大将が生中のジョッキとお通しを初姫に渡してくれる。そして“本日のおすすめ”と書かれた紙も一緒に付けてくれた。そして遅ればせながら咲のおかわりの升酒もやってくる。
 初姫は本日のおすすめから適当に見繕い、あとはいつもここに来たときは定番と決めている料理を大将に注文する。
 初姫も咲も、好き嫌いがないのでこういうときに都合がいい。大概何を頼んでもどちらも文句を言うことはない。
「じゃ、改めて……カンパーイ! お疲れ様でしたー」
 咲の掛け声で初姫のジョッキと咲の升がぶつかる。素材の都合上、音はしないが、ぶつかったのを合図にそれぞれがゴクリと喉を鳴らす。
「はぁー! ウマっ!」
 初姫は既に三分の一ほどジョッキを空け、上唇についた泡を左の中指で掬うとそれをぺろりと舐めとる。
 お行儀が悪いのは分かっているが、気心の知れた咲しかいないからこその甘えだ。
「姫さん、なんかエロ。男性と呑むとき、そんなのやったら駄目ですよ。落としに掛かるならいいけど」
「そういうの無いから。あなたもよーく知ってるように、無縁だから。彼氏持ちの自分と一緒にしない」
 すかさず入った咲のツッコミに、初姫は全否定で返す。
 こういうところも、咲とは無遠慮に話せるからいい。
 初姫と咲は、ひょんなことから仲良くなり定期的に食事やら呑みに行く仲である。同じ会社に勤めてはいるものの、咲は一般職員、初姫は専門職員なので、通常の同僚や先輩後輩とはちょっと違った付き合いだ。咲は初姫を「姫さん」と呼んで慕い、初姫も咲を可愛がっている。
「そういえば咲、親御さんは? お父さんはもう大丈夫なの?」
 初姫の問いに、咲は深い溜息を吐く。
「大丈夫ですよ、大丈夫! 大体ねぇ、そもそも伝言ゲーム間違えて大騒動になっちゃっただけですし。ぎっくり腰でよろけて転んで足首折れた、が、職場で突然倒れて病院に救急搬送された、になって、更に危篤ですっていう話にすり替わって……お母さんがテンパっちゃっただけです。わたしも兄たちも、仕事放り出して実家に帰ってドッと疲れが出ました」
「まぁ、良かったじゃない。そんな程度で済んで」
「そうですね。集まった家族が、予想外に有休消化できたって笑ってたくらいです」
「で、咲はその片手間にアレをわたしに押しつけた、と?」
 初姫は少し恨めしそうに言うと、再度ビールを飲み進めた。
 思い返すのは二週間前の週の後半、倒れて運ばれてきたところを初姫が相談に乗った野崎芽子のことだ。
「だって、あの件は本当はわたしがパパッと片付けちゃおうと思ったのに、そんなこんなの不測の事態で急遽実家に行かなきゃならなくて……。芽子本人に連絡取ったところでどうせウジウジ悩むのは目に見えてましたからね。だからといって、そのまま放置してても何も良いことないと思ったから、ここはもう相談業務のエキスパートである姫さんに頼むしかないかな、って」
「だからって、アレはないと思うけど?」
 初姫は更に恨めしそうに言う。
 忘れもしない咲からのメール。
 企画部企画課企画予算係 野崎芽子――そんな芽子の所属とフルネームが件名に書かれたメール。
 続く本文には、彼女に何とか接触して、思い人にその思いを告白させてほしいというミッションが、至極簡潔に書かれていた。
 最初はなんのことだと面食らった初姫だったが、どういうことだと咲に返事を出せば、理由は後で説明する、とにかく告白さえさせるだけでいいから背中を押してやってくれ、できれば今週中に! というようなことが書かれたメールが返ってきた。そして、芽子の現状が簡単にまとめられており、さらに咲自身は不測の事態でしばらく実家に帰っているという。
 何が何やらと思いつつ、珍しく切羽詰まった様子の咲に、さて、まずはどうやってマル対に接触しようかと考えていたら、なんとビックリ本人が医務室に運ばれてきたというわけだ。
「確かに相談業務はわたしの職務ですけど? あなたと違って彼氏の一人もいないわたしに、恋愛相談をさせようってのは無茶があるわよ。……ていうか、彼女が天然ちゃんだから良かったけど、あの時のわたしの怪しさったら無かったわよ」
 初姫は、あの時の自分を今思い出しても溜息しか出てこない。
 どこかの三流占い師よろしく「恋愛関係に悩んでいるのね?」とかなんとか声を掛けた自分……芽子が素直に応じてくれたからよかったものの、そうじゃなかったら怪しさ爆発、不信感満々だ。
 そして、同僚と思われる男性の乱入やら、芽子本人からのカミングアウトもあったので、咲にあらかじめもらっていた情報を足し上げてなんとか事なきを得たというところだが、あんなのはもう二度とごめんである。
「個人情報やら秘密の厳守とか、アドバイスしても自然な人とか……諸々考えたら上手くやってくれそうなの姫さんしかいなかったんですよ。確か、前に芽子も姫さんのことは知ってるようなこと言ってたから、適任だな、って。まぁいいじゃないですか、綺麗にまとまったみたいだし。姫さんのおかげですよ」
 ちょうどその時運ばれて来た料理の数々に、咲は「ほらほら、食べましょ。今日は奢りますから」と初姫に取り皿を渡した。
 初姫は何だか誤魔化された気がすると思いながらも、できたての料理に舌鼓を打った。
「でさ、今更だけど……野崎さんの相手って誰だったの?」
 初姫は思い出した様に咲に尋ねた。
 結局、初姫は芽子の相手を知らない。相談に乗ったときは、名前を言う必要は無いと伝えたので結局芽子本人からは聞かなかった。
 それに、先週、芽子が初姫を訪ねて医務室に来たらしいが、ちょうど社内巡回に出ていた初姫は会うことができなかった。ただ医務室に戻ってくると、机の上にはリボンの掛かったお菓子の箱と、“逆転満塁ホームランが打てました。ありがとうございました”という彼女からのメッセージが残されていた。
 それでまぁ、めでたしめでたしという結末は分かっていたのだが、相手が一体誰なのかは気になるところである。
「芽子、言わなかったんですか? まぁ、聞けば教えてくれると思いますけど。……彼女と同じ係の人ですよ、城田さん。城田七海……って、さすがに分からないですよね」
「城田……七海ねぇ……」
 初姫はビールジョッキを空にするように煽りながら、脳内のデータベースを探る。
 そして、ちょうどジョッキの底が見えた頃。
「あぁ! 分かった。あの人!」
 言葉と同時にドンとジョッキを置く。同時に大将から「次はどうします?」と聞かれたので、咲の手元を指さして「同じの、お願いします」と注文した。
「企画の城田君でしょ? 背の高い、無口なイケメン。分かる分かる」
「姫さん、知り合いですか?」
「いいや、名前と顔知ってるだけ」
 初姫は少しだけ咲に嘘を吐いた。
 知っているのは名前と顔ではない――顔と病名。
 と言っても、何ら深刻な病気ではない。彼は白衣性高血圧で、健診に引っかかったことがある。それで経過観察になっていたので覚えていただけだ。
 職員健診で何度計測しても高い値しか出ず、日々の血圧を記録するよう個別指導したことがある。結果、健診の時に高いだけで普段は正常値であることがわかり、碧山にも特に問題ないだろうと診断された経緯がある。
 健診で引っかかって精密検査になったり、要指導になった社員を、初姫は大体把握している。ただそれは職業病とも言うべきか、いつも病名と顔で覚えてしまうという悪いクセがある。
 一応それは個人情報なので、職務上の守秘義務として初姫は咲には告げなかった。
「彼が野崎さんとねぇ……。へぇ、そう」
 そう独り言ちながら初姫が考えるのは、医務室にやってきて芽子を困らせていたもう一人のイケメンのこと。
 彼の方は過去特に初姫の職務上、接触がなかったので名前も知らないし、顔もあの時に初めて見た。
「あれじゃあ、城田君と正反対だもんね。野崎さんには選ばれないわ」  
「え? 姫さんそれ何の話!?」
「別にー。なんでもない」
 ふと呟いた独り言に、にわかに食いついた咲を余所に姫は料理とお酒を楽しむ。
 それでもなお、興味津々に責めてくる咲に対し、初姫は、
「わたしには、守秘義務がありますから」
 とだけ答えた。
 咲はそれでも、狡いとか教えてとか縋っていたが、結局は初姫にはぐらかされた。
 そんな縁の下の力持ち二人の楽しい夜は静かに更けていく。 

−本当に END−


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