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* 黒き契約 第1夜 *

「リリアナ……大事なお役目ですからね? しっかりと、務めてくるのよ? 国王陛下や王妃様をはじめ、お生まれになったばかりの王太子様に決して粗相の無いように」
 リリ、とそれまで使っていた愛称をやめ、リリアナ、と呼んだ母は娘の将来を祈るようにその肩を優しく抱いた。
「リリアナ、お前ならきちんと務めきれると信じているぞ。休みをもらったらなるべく帰ってきなさい」
 父も強ばった面持ちでリリアナを見つめる。
 その心境は、まだ幼いこの娘に、王太子付き女官という大役が務めきれるのかどうか、不安でたまらない、といったところだ。
 しかし、当の本人であるリリアナはそんな両親にニコリと笑ってみせる。
「はい、お父様、お母様。わたくし、誠心誠意、立派に努めて参ります。このアルジェイル家の名に恥じぬよう」
 リリアナはドレスの裾を優雅に摘み、見送りに出てくれた父と母に深々と一礼をした。
 その瞳は、明るい未来に胸を躍らせ、光り輝いていた。
 六年前――初めて王宮に上がる日……
 あの頃のリリアナは明るい未来しか見えていなかった。
 若干十二歳という史上希に見る若さで女官登用試験に合格し、王太子専属の女官に大抜擢されたリリアナ。
 将来を約束されていた彼女は溢れんばかりの希望と夢に満ちていた。
 そんなリリアナはいつでも甘美な想像に胸を膨らませていた。
 年頃になれば王宮に勤める素敵な殿方と出会い、恋をして……そして結婚をする。結婚をしたら、子供を産み育て、素敵な家庭を持つ。
 それはあくまでリリアナの勝手な想像にしか過ぎなかったが、そう違わぬ未来であるはずだった。
 
 そう……あの日、あの時、あの瞬間までは…………


*−・−*−・−*−・−*−・−*



「あら、雪が降ってきたわ。今日は寒いと思ったのよね」
 日もすっかり落ちた夕刻、王太子付き女官、リリアナ=アルジェイルは窓から上空を見上げた。
 白くふわっとしたものが次から次へと降り落ちてくる。
「本当ですね。積もらないと良いですけれど……」
 同じく女官を務めるセレン=マーゴットがリリアナの隣から外を覗く。
 セレンはリリアナよりも二つ下で、今年から女官として王宮に上がった。リリアナを実の姉のように慕っており、プライベートでも一緒に出かけるほど仲の良い女官仲間である。
 二人が一緒に雪を眺めていたその時、バタンという音と共に王太子が部屋へと飛び込んできた。
「リリ。上がったぞ」
 今まで湯浴みをしていた彼はまだ髪も乾ききらない状態で、リリアナの元まで駆け寄ってきた。
 王太子、クランツ=レ=ミア=サルヴェンナ――
 サルヴェンナ王国第一王子、御年六歳になるリリアナの主人である。
「殿下、まだ御髪が十分に乾いておりませぬ」
 クランツのすぐ後を湯浴み係の女官が慌てた様子で追ってくる。
「もういいと言ったろう。あとはリリにやってもらう。たのむぞ、リリ」
 クランツは追ってきた女官からタオルを受け取るとリリアナに渡した。
 リリアナはそっと目配せをして湯浴み係の女官に下がるよう指示した。
「殿下は本当にリリアナさんがお好きですのね」
「うん。わたしが生まれた時からずっといっしょにいるからな」
 セレンの言葉にクランツは嬉しそうに微笑んだ。
 中流貴族アルジェイル家の一人娘として、その身分と才を買われてリリアナが王宮に上がったのが今から六年前、クランツが生まれた時のことだ。
 当時はまだ笑うことさえできなかった赤ちゃんが、今ではここまで大きくなった。
 クランツは物心着く前からリリアナに良く懐いていた。彼女と一緒に王宮へ上がった王太子付きの女官は他にも数名いたが、リリアナだけには特別良く懐いた。
 クランツのそれは主従関係を越え、まるで姉と慕うかのようであり、彼女が傍にいないだけで情緒が不安定になるほどだった。
 それ故、リリアナは王太子お気に入りの女官、として城内でも有名だった。
「何を見ているのだ?」
 クランツは二人の女官が覗く窓を自らも伸び上がって見る。
「お、雪か」
「はい。今しがた降り始めたようですよ」
 リリアナはクランツの髪を優しく拭きながら答えた。
 銀色の柔らかい髪が絡まないように、ゆっくりと優しく手櫛で解く。
 そのまま三人ともしばらく雪を眺めていたが、クランツが徐に口を開いた。
「なぁリリ……」
「何でしょう?」
 リリアナはその手を止めて、クランツと視線をあわせるように腰を落とした。
「リリはやっぱり……ケッコンしてしまうのか? この雪がとけるくらいあたたかくなったら……あの男と、ケッコンしてしまうのか?」
 クランツはそう言うとリリアナから視線を逸らし、俯いてしまった。
「そうですね。春になったら一緒になると、ケルウェスと約束しました」
 リリアナは愛おしそうに婚約者の名を呼んだ。
 リリアナの婚約者、ケルウェス=フローシア――
 上流貴族フローシア家の嫡男である彼は大臣補佐官を勤める父を持ち、十五の年にその剣の腕を買われて王宮左近衛軍に入った。その後はメキメキと頭角を現し、現在は第一部隊副長官を務めているホープである。
 リリアナとは二年前から交際を続けており、今度の春には結婚することを約束していた。
「やっぱり嫌だ……。リリは結婚なんかしなくていい!! わたしのキサキになればよいではないか」
 突然声を荒げたクランツに、リリアナはただ困った顔をする。
「殿下はリリアナさんがご結婚されるの嫌ですか?」
 そう尋ねたのはセレンだった。
「そうだ、反対だ!! リリはわたしのキサキになるんだ。本気だぞ? それに……フローシアはダメだ。わたしはあいつのことが……好きではない」
 クランツの言葉に、リリアナは少し寂しそうな顔をした。
 クランツは比較的人懐こい子であった。
 しかし、どうしたわけかケルウェスだけには懐かなかったのだ。
 まぁそれも、彼が子供の扱いを心得ない成人男子であるから、懐かないのも無理はないのかもしれないとリリアナは思っていたが、それは少し悲しいことでもあった。
「殿下、フローシア副長官は今一番の出世頭で、それに優しい人ですよ。きっとリリアナさんをお幸せにしてくださいます」
「…………」
 クランツはむぅっと押し黙ってしまった。意見を聞き入れられない時の彼の困った癖だ。
 リリアナはそんなクランツに優しく微笑みかけた。
「殿下は……わたくしが幸せになるのを祝福してはくださらないのですか?」
「シュクフク?」
 言葉の意味が少し難しかったのか、クランツはその部分だけ繰り返す。
「わたくしの幸せを祝ってはいただけませんか?」
 リリアナはそれを察してすぐに言い換える。
「なにを言う!! リリはぜったいしあわせにならないとダメなんだ。リリがしあわせになるのは、わたしからのメイレイだ!」
「でしたら……この結婚も祝ってくださいませ」
「かんがえておく……」
 クランツはそう言ってぷいっと横を向いてしまった。
 リリアナとセレンは顔を見合わせて、「困ったわね」とお互いに仕草をしてみせた。

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* 黒き契約 第1夜 *