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* 黒き契約 第2夜 *

 その日の夜、リリアナが一日の仕事を終えて一息吐いている頃、自室の扉が控えめにノックされた。
「リリアナ、少しいいか?」
 ノックのすぐ後に姿を見せたケルウェスに、迎え入れるリリアナの顔は自然と綻ぶ。
「ケルウェス、今日はもう仕事が終わったの?」
「あぁ……」
「そう。とりあえず入って? 何か飲む? 寒いから温かい物がいいかしら」
 リリアナは恋人を部屋へ招き入れようとしたが、どうしたわけかケルウェスは戸口から動かなかった。
「ケルウェス、早く入って。部屋が冷えてしまうわ」
 リリアナは特に気にもとめず、お茶を入れる用意をしながら戸口のケルウェスへ声をかけた。そういえば、先日城下町へ出た時に二人お揃いで買いそろえたティーカップがあったことを思い出す。
「リリアナ……」
「ん?」
 リリアナはケルウェスへは視線を向けずに返事をする。そして、戸棚から真新しいティーカップとソーサーを二組取り出した。
 次の瞬間だった。
「俺たち、別れよう」
 突然なだれ込んできた一言に、リリアナはピタリと動きを止めた。
「……え?」
 言葉の意味を、理解することができなかった。
 リリアナは二つのティーカップを手に持ったまま、油の切れた機械人形のようにゆっくりと首を動かし、その視線をケルウェスへと向けた。
 今、何かとても変な聞き間違えをした……そう自分に言い聞かせながら。
 しかし、
「別れよう、と言ったんだ」
 非情にも同じ言葉が最愛の恋人の口から繰り返された。
 それも、聞き間違えようのない程、はっきりと、確実に。
(何を……言って、いるの?)
 リリアナは思うけれどそれを言葉にできなかった。
「悪いけど、俺は君とは結婚できなくなった。全てを白紙に戻して欲しい。すまない、リリアナ」
 形ばかりとも言える仕草で頭を下げるケルウェスを、リリアナは瞬きも忘れて見つめていた。
「ごめんなさい。ケルウェス……意味が、分からないの」
 数拍の間をおいて、リリアナは震える声でそう伝えた。
『冗談だよ』
 そう言って笑ってくれることを心底願ったが、ケルウェスは下げた頭を上げない。
 リリアナはカシャンと耳障りな音がするほど乱暴にティーカップをテーブルの上へと置き、ケルウェスに詰め寄った。
「ねぇ……嘘でしょう?冗談だって言って、ケルウェス」
 リリアナはケルウェスの隊服を掴み、願いの分だけ力を込めた。
「もう日取りだって決めたのよ? お互いの両親にだって挨拶を済ませたじゃない。一体、何があったって言うのよ? 何か事情があるんでしょう!? それなら……」
「あぁ、あるよ」
 いつの間にか上げられたケルウェスの視線は、今までに見たことがないくらい酷く冷めたものだった。
 その視線に、リリアナの心はざわつく。
「事情があるから別れてくれと頼んでいるんだろう?」
 ケルウェスの声色は、いつもの穏やかなものとは異なり冷たく低いものだった。
「一体……一体どんな事情が……」
 予測できない怖さに、リリアナの声が上擦る。
 ケルウェスがゆっくりと口を開く。
「結婚したい人ができた。それが事情だよ」
 今度こそ、リリアナは何を言われているのか分からなかった。いや、分かりたくもなかった。
「どういう……こと?」
 やっとの思いで絞り出した声で、リリアナは尋ねた。
「軍の総督閣下、リオシュタイン様。リリアナも知ってるだろう? 彼の愛娘、アルツェリアお嬢様と結婚したいんだよ。お前じゃなくてな」
「リオシュタイン閣下の……お嬢……さま?」
 リリアナはもはやケルウェスの言葉を繰り返すだけが精一杯だった。
 カルエス=リオシュタイン――
 王国軍総督閣下を務める彼は軍人として頂点に君臨し、国政の中枢機関である元老院での発言権も相当大きいとされる人物である。
 国民ならば誰もが知るそのリオシュタイン閣下。彼の愛娘……アルツェリア=リオシュタイン。
 リリアナも彼女の名前だけは知っていた。
「この前宮廷で行われた舞踏会で俺のことを見初めてくれたらしくてな、是非婿に、と閣下が直々にお願いに来たんだ。受ければ将来は総督に、断れば下手すりゃ地方に左遷だ。そしたら……断れるわけが無いだろう?」
 既に瞬きさえできないほどに硬直してしまったリリアナを余所に、ケルウェスは得意顔で話し続ける。
「なぁ、リリアナ。分かってくれよ。お前、物わかりのいい女だろう?」
 ケルウェスは俯き加減のリリアナを覗き込んだ。
 その目は既に欲に眩んだ色をしている。
 そこにいるケルウェスは、リリアナの知っている彼ではなかった。
「い……や……よ……」
 リリアナは絞り出すように声を出した。
「嫌よ、嫌!! そんなの分かる事なんてできないわよ!! 結婚できないなんて……突然別れるなんて……そんな…………」
「しつこい女だな!!」
 縋るリリアナを、ケルウェスは忌々しそうに遮った。
 突然の怒鳴り声とも言えるものにリリアナはビクリと肩を震わせる。
「身を弁えろよ。しがない中流貴族の娘で、単なる女官で……それでも、お前は王太子殿下の一番のお気に入りだから目をかけてやっただけだ。王太子殿下のお気に入りと結婚しておけば出世に悪いことは無いからな。でも、それも総督閣下のお嬢さんに比べれば、足下にも及ばないものだよなぁ」
 ケルウェスはリリアナを嘲笑うかのように言葉を放つ。
 それは今まで愛でてきた恋人に向けるものとは思えなかった。
「ねぇケルウェス……考え直して、お願いよ。わたしを……奥さんにしてくれるって言ったじゃない。幸せな家庭を築こうって、言ってくれたでしょう?」
 いつの間にか溢れた涙に声を震わせるリリアナを、ケルウェスは冷め切った目で見下していた。
 ケルウェスは面倒臭そうにため息を吐く。
「あぁ、そんな冗談も言ったかもな」
 酷く冷徹な言葉が、リリアナの中で木霊する。
 彼女の心を砕くには、それは十分すぎるものだった。
「もう良いだろう? 大体、籍を動かす前で良かったと思え。お前はまだ真っ新なままだ。このご時世、出戻りなんて一族の恥さらしだもんなぁ。それだけでもありがたく思えよ。じゃあな……」
 ケルウェスは言葉を終えると共に、リリアナの肩を忌々しそうに押しやった。
「きゃ……」
 バランスを崩したリリアナはよろけて、テーブルにぶつかる。
 次の瞬間、
 カッッシャーン!!
 テーブルの上から転がった二つのティーカップが、大きな音を立てて割れた。
 それはリリアナの心のように、粉々になって床に飛び散った。
 リリアナはその場に崩れるように座り込み、開けられたままの扉からケルウェスの小さくなった背中を見つめていた。
「待って……ケルウェス……待ってよぉ……」
 声は出るが体は動かなかった。
 流れる涙がリリアナの頬をしとどにする。
 今のこの短い間に、リリアナは自分の身に何が起こったのか理解できなかった。

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* 黒き契約 第2夜 *