※文字サイズ変更ボタン; 

* 黒き契約 第3夜 *

 真っ白なウエディングドレスに身を包んだリリアナ。隣を見れば式典用の隊服を身につけた新郎が手を差し伸べてくれている。日差しの具合か、見上げた顔は逆光になっていてよく見えないが、ケルウェスに違いないとリリアナは思う。
 周りを見渡せば多くの人が声「おめでとう」「綺麗だよ」と声をかけてくれた。
 その中には母親もいた。ハンカチで目元を押さえながらも、娘の晴れ姿をその目に焼き付けようとしている。父はそんな母の肩を優しく抱く。
『お母様……』
 リリアナがそう呼びかければ、
『リリ、幸せになるのよ』
 まだ王宮に勤める前に使っていた懐かし愛称で、母は優しく呼んでくれた。
(あぁ……今日は結婚式だったわね。わたし、幸せな花嫁になるのが夢だった…………)
 気が付くと場面は変わっている。
 リリアナは庭先の椅子に腰掛けて刺繍針を忙しなく動かしている。
 傍ではそれを真剣に覗き込む男の子がいて「何ができるの?」と尋ねる。
 リリアナは大きく膨らんだお腹を優しくさすりながら「この子の産着に刺繍を付けているのよ」と答えると、男の子は「早く産まれるといいね」とニコリと笑った。
 少し離れたところでは、こちらに背を向けたケルウェスと思われる人物が真剣に剣の手入れをしている。
(そうか……もうすぐ二人目の子が生まれるのね。幸せな家庭、築けたんだ…………)


*−・−*−・−*−・−*−・−*



「ん……」
 朝日のまぶしさに、リリアナはゆっくりと目を開く。
 気が付けば、心地の良い鳥のさえずりが聞こえる。
「夢……か…………」
 言葉と共に、リリアナはやたらと頭が痛いことに気づく。
 何でだろうと考えれば、泣きながら寝たからだと思い出す。
 ではなぜ泣いたのかと思えば、止まっていた涙が再び溢れ出した。
(夕べ……わたしは…………)
 歪んだ視界で当たりを見回すと、昨日割れたまま片づけることさえできなかったティーカップの残骸がリリアナの目に容赦なく入ってくる。
 ケルウェスと二人、お揃いで使うはずだったティーカップ。
 そのケルウェスは…………
「何もかも全部……夢なら良いのに…………」
 リリアナは夜着の裾で止まりそうもない涙を拭った。
「仕事……殿下の所へ行かなきゃ…………」


 ◆◆◆


「おそいぞ。もう食べきってしまうではないか」
 リリアナが「おはようございます」とクランツの元へ行くと、食後のフルーツを美味しそうに頬張る彼が迎え入れた。
「めずらしいな、リリがこのようにおくれてくるなど。体ちょうでもわるいのか? なんだか、目が赤くないか?」
「夕べ……少し夜更かしをしてしまって……申し訳ございません」
 リリアナは腫れ上がった目を隠すように俯いた。
 確かに今朝は少し遅めの起床であったが、十分間に合うだけの余裕はあった。
 しかし、腫れ上がった目を何とか隠そうと試行錯誤している内に時間ばかりが過ぎていき、結局遅刻する形となってしまったのだ。
 下を向けば血液が下がり、未だ腫れの引かない部分に鈍い痛みが走る。
 その痛みで、リリアナの脳裏に夕べの出来事が引きずり出される。
(ダメ……ここで泣いてはいけない……)
 リリアナがそう自分に言い聞かせた時だった。
「じゃあリリ、今日はわたしがねむるまでそばにいてくれるな? チコクしたバツだからな」
「バツ、ですか?」
 突然罰を与えると言い出した主人に、リリアナは涙を引かせて頭を上げた。
「そうだ。外国語のハカセはわたしがジュギョウにチコクするとバツだといってしゅくだいをたくさん出すんだ。だから、チコクしたリリにはわたしがバツを出そう」
 クランツは得意げにリリアナに話して聞かせる。
「わかりました。殿下の仰せの通りに、その罰を受けましょう」
(仕事中は……余計なことを考えてはいけない……)
 リリアナはクランツに微笑みかけながら、記憶を払拭するように自分に言い聞かせた。
「ところで、殿下。今日は朝からその外国語のお勉強ではなかったですか? 早く行かないと、またどっさり宿題が出ますよ?」
「おぉ! そうだった。じゃあな、リリ。昼にはもどるからまっていろよ」
 クランツはそう言うと、勉強道具を別の女官から受け取って慌てて部屋を出て行った。
 リリアナはそんな彼を微笑ましく見送る。
「ねぇ、リリアナさん」
 クランツの背中が見えなくなった頃、突然話しかけたのは隣に立っていたセレンだった。
「どうしたの、セレン。何かあった?」
「いえ。何かあったのはリリアナさんではないですか?」
 セレンの言葉にリリアナの心臓がトクンと一つ大きくなる。
「あら何で?」
 リリアナはできるだけ冷静さを装って答えた。
「だって、それ夜更かしじゃなくて、絶対泣いた目ですもの。……違います?」
「…………」
「もしかして、フローシア副長官と何かありました? マリッジブルーとか起こす時期ですものねぇ〜」
 事情を知るよしもないセレンは答えないリリアナを構うように言った。
「良いなぁ。わたしもその幸せ、分けて欲し……」
「違うわよ」
 セレンがさらに重ねようとした言葉をリリアナは静かな声で遮った。その表情はいつの間にか強ばったものになっていた。
(マリッジブルーなんて……もう……わたしは…………)
「リリ……アナさん?」
 セレンはリリアナのその様子に何か悪いことでも言ったかと不安な面持ちを見せる。
「……え? あぁ、マリッジブルーなんかじゃないわよ。昨日ちょっと新しく本を読み始めたらね、それが笑いあり涙ありで……だから、寝不足と泣いたのと両方よ」
 リリアナは即席に無理矢理作り上げた微笑みでセレンを誤魔化した。

 しかし、このリリアナの努力もすぐに脆く崩れ去ることとなった。


 ◆◆◆


「ねぇ、聞いた?」
「あ、アレでしょう? リリアナさんと、フローシア副長官の話!!」
「そうそう。別れたって? 何でも、フローシア副長官が別の女性と婚約したらしいじゃない」
「惨めよねぇ〜。結婚式の日取りまで決まってて捨てられるなんて」
「あぁなりたくはないわ。幸せの絶頂から急降下……悲劇ね」
「で、新しい相手、誰だか知ってる? あのリオシュタイン総督閣下の一人娘ですって!」
「そりゃフローシア副長官でなくても乗り換えるわ。もう将来を約束されたようなものね」
 人の口には戸が立てられないとはよく言ったもので、そんな噂がどこからともなく流れ始めたのだ。
 いつのご時世も、人はスキャンダルを好む。それも他人のスキャンダルを。
 そしてそれは、例えその人物を大して知らなかったとしても……
「王太子付き女官の子、何て言ったっけ? ほら、あの金髪で殿下が一番気に入ってる子! 左近衛軍の婚約者を捨てて新しい男作ったんでしょう? やるわよねぇ〜」
「違うわよ! それ逆でしょ? 女の方が捨てられたのよ。男が他の女に乗り換えたって噂」
「まぁそんなのどっちでも良いじゃない。話のネタよネタ!」
 そんな噂はやがて、クランツやセレンの耳にも入った。
 幼いクランツでさえも、人がおもしろおかしく言い立てる噂でリリアナが結婚しなくなったという事実を知った。そして、ケルウェスに裏切られたのだということも。
 セレンもまた、事の次第を把握し、数日前に様子がおかしかったことの理由をようやく理解した。

↑ PAGE TOP


* 黒き契約 第3夜 *