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* 黒き契約 第4夜 *

 当事者であるリリアナももちろん、人々の心ない噂を耳にしていた。
 それは行く場所行く場所でまるで拷問のように繰り広げられており、リリアナを知る人は皆、悲壮な表情でリリアナを見た。多くの人が可哀想に、と口では言ってくれたが、目ではそう言っていない者たちもいた。
 その針のむしろのような中でも、リリアナは決して俯かなかった。
 しかし、始めから俯かなかったわけではない。
 最初はそんな中傷から逃げることしか頭になかった。噂を耳にしては幾度となく枕を濡らした。
 あれだけ酷い事をされたのに、まだケルウェスを忘れきれない思いを胸に抱え、楽しかった頃の思い出を反芻しながら涙を流し続けた。
 それでも数日すると不思議なことに涙は流れなくなり、今までリリアナの気持ちの多くを占めていた寂しさや悲しみの代わりに、今度は別の思いが溢れ出してきたのだ。
(どうして悪いこともしていないのに……わたしが逃げなくてはいけないの?)
 と。
 それは、悔しさ、と呼ぶものだった。
 だから、リリアナは上を向くことにした。
 やましいことはない、と心が折れそうになるたび自分に言い聞かせて。
 やがて時間が経つに連れて、リリアナの中ではその悔しさが大きく成長していった。
 それでも、リリアナがケルウェスを憎むことはなかった。
 それは単にリリアナが優しい性格の持ち主だから、というだけではない。彼女の心の奥底にはケルウェスへの愛情とも言うべき感情がまだわずかに残っていたのだ。
 二年という歳月が培った記憶も愛情も、リリアナにとってはそう簡単に消し去ることのできるものではなかったから。
 言い換えれば、リリアナはケルウェスを『憎みたいのに憎めなかった』のだ。
 それから数日間、リリアナは暇を作らないほどに働き続けた。
 朝は日が昇る前から、夜は真夜中まで……そうでもしないと、リリアナは悔しさと未だに残る過去の愛情との狭間に飲み込まれてしまいそうだった。
 何も知らない多くの人々は、てきぱきと次々に仕事をこなしているリリアナを見て、もう割り切ったのだと思った。
 しかし、クランツやセレンなどごく一部の者は、そんなリリアナを心配そうに見守っていた。
『いつか、無理がたたって倒れてしまうのではないか』
 そんな不安を抱えながら。


*−・−*−・−*−・−*−・−*



「リリ……」
 今まで一緒に歩いていたクランツが突然その足を止めた。
 リリアナとクランツは二人で一緒に中庭を散歩している最中だった。
「どうかされましたか?」
 リリアナはすぐに足を止め、その場にしゃがみ込む。
 目線を合わせればクランツは暗い表情をしていた。
「どうかしたのは、わたしではない。リリではないのか……?」
「いえ、わたくしは別に……」
「ウソをつくな! まだ……つらいのであろう?」
 鋭く遮った後、付け加えられた言葉にリリアナはわずかに顔を歪める。
 どうやら、知らないと思っていたクランツでさえも、リリアナの身に起こった事を把握しているようだった。
 こんな幼い王太子にまで……と思うと、リリアナは酷く惨めな気分になる。
「殿下、わたくしには何のお話かよくわかりません」
「ウソはダメだと言ったろう! じゃあ……どうして、リリは笑わなくなった!? しごとはきちんとしているが、お前は笑わなくなったではないか。前みたいに、笑ってくれなくなったではないか!!」
 クランツは誤魔化そうとしたリリアナに声を張り上げる。
「わたしだって……わたしだって知っているんだぞ。リリに何があったのかくらい。わたしはリリの主人だ。そのくらい知っている。……だからダメだと言ったんだ。フローシアだけはダメだと。人の言うことを聞かないからだぞ」
「…………」
 リリアナは何も答えられずに、感情を露わにするクランツを見つめていた。
「リリは……これでいいのか!? くやしくはないのか!?」
 クランツはその小さな手でリリアナの肩を掴んで揺すった。  いつの間にかその双眸には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「……悔しい……ですよ」
 リリアナは数拍の間をおいて静かに言葉を紡いだ。しかし、すぐ後に「でも」と付け加える。
「仕方のないこと、なのです」
 ゆっくりと言葉を噛みしめるように言った。
――仕方のないこと
 ここ数日、その言葉の意味も分からなくなるほどにリリアナが自分自身に言い続けた言葉だ。
 どんなに忙しくしていても、ほんのわずかな合間に考え事をしてしまうことはあった。その度、リリアナは自らにそう言い聞かせ、悔しいけれどわずかな愛情のせいでケルウェスを憎みきれない複雑な気持ちを諫めてきたのだ。
「仕方がないなど……それですんでしまったらフコウヘイではないか!!」
 クランツが再び声を荒げた。
「リリばかりが苦しい思いをして、あの男は……アイツはさっさと別の者と……。リリがゆるしてもわたしはぜったいゆるさないんだ!」
「殿下」
 より声を張り上げたクランツを、リリアナは諫めるように呼びかけた。
 しかし、クランツは止まらない。
「おこっているのはわたしだけではない。セレンだって泣いておこっていた。外国語のハカセだって、レキシのハカセだって、みんなみんな、リリがかわいそうだっておこっているんだ」
 クランツの目から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
 子供心にも、悔しかったのだ。
 姉のように慕う、大好きな大好きなリリアナを傷つけられ、塵屑のように捨てられ……
 まるで自分の事のように、クランツは頭に来たのだ。
「もう……良いんですよ。殿下やセレンたちのその気持ちだけで、十分ですから」
 リリアナはクランツの涙をそっと拭ってやった。
「良くない! 少しも良くないんだ。だからわたしは……いや、わたしが……フローシアにフクシュウする!」
 クランツがそう言い切った瞬間、リリアナはまるで魔法にでも掛かったかのようにその動きを制御された。
 フクシュウ……
 リリアナを抑止したのはその音だった。
 復讐……
 今まで思いもしなかったその言葉が一瞬にしてリリアナの頭を駆けめぐる。
(復讐……)
 心の内で言ってみると、ドクンと心臓が一つ反応した。
(そう……復讐……ケルウェスに復讐……)
 しかし、リリアナの思考はそこで止まった。
 怯えた様子のクランツがその視界に入ったから。
 ハッと我に返ったリリアナは意図的にその表情に笑みを作り出す。
「……いけませんよ、殿下。次代の君主ともあろうお方が、そのように恐ろしいお言葉を口にされるのは望ましくありません」
(そう……恐ろしいこと。復讐なんてそんな恐ろしいこと……できるわけがない。わたしには、考えられないわ……)
 リリアナは自分に言い聞かせるようにクランツに言った。

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* 黒き契約 第4夜 *