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* 黒き契約 第5夜 *

 翌日、リリアナはクランツを馬術の訓練場へと送った後、王城へと戻るためにその敷地内を歩いていた。
 クランツを迎えに出るまでの間、どの仕事を片づけてしまおうかと考えていると、前方から、見覚えのあるシルエットがやってくるのが見えた。
(ケルウェス……)
 思うより先にリリアナは近くの木にその身を隠す。
(別に、隠れること無いじゃない。顔向けできないような理由なんて……わたしにはないのに)
 惨めな気持ちがリリアナの中で広がる。
 ケルウェスは部下と一緒のようで、近づくに連れてその話し声が聞こえてきた。
「それにしても、副長官の世渡りのうまさには感激しますよ。凄いなぁ〜未来の総督閣下なんて。そう簡単になれるもんじゃないですよ?」
「はは。運が良かったんだよ。それもこれも、俺の普段の行いが良いから、神のご加護があったのかもな」
 ゴマをするように言う部下に、ケルウェスは満面の笑みを浮かべながら嬉しそうに答える。
「副長官、普段の行いって……それ冗談キツイですよ。今回のアルツェリアお嬢様との結婚のために、あのリリアナ殿を泣かせたんでしょう?」
「それは仕方ないだろう? アイツは元々俺の出世のための踏み台でしか無かったんだ。今回は形はどうあれしっかり踏み台にしてやったんだから、それでいいだろうが」
「……随分ですねぇ。そんなこと言ってると、そのうち刺されますよ?」
 部下はおどけたようにケルウェスの腹部をグサッと刺す真似をしてみせる。
 木の陰でその会話を聞いていたリリアナは、いつの間にか全身がワナワナと震えるのを感じていた。
(踏み台……ですって? ……なんて……なんて酷い言い方をするの?)
 拳を握りしめ、その震えを懸命に殺そうとするがそれではすまないほどに震えが来る。
 リリアナは一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。
 しかし、そんな事を知るよしもないケルウェスは部下に対して馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻で笑った。
 そして、
「刺せりゃあ大したもんだよ。まぁ、あの女にはまず無理だろうな。疑うことも計算も知らない、ただ優しさだけが取り柄の馬鹿な女さ。そんな女の頭に復讐なんて言葉はないだろうよ」
(…………)
 ケルウェスの口から放たれた言葉に、リリアナの中で何かが切れる音がした。
 同時に、震えは収束し、妙な冷静さが彼女を支配し始める。
「そうですね。リリアナ殿は本当にお嬢さんですものね。副長官がいらないなら、俺が口説いても良いですか?」
 あはは、と部下が笑いながら言ったその言葉を、リリアナは無表情で聞いていた。
 得も言われぬようなどす黒い感情が、心の奥底で芽生え始める。
 惨めだとか悔しいとか……もはやそんな言葉では処理しきれないような暗くおどろおどろしい感情。
 それがぐちゃぐちゃになってリリアナの中で一気に増殖する。
(あんな男……あんな男にわたしは…………)
 同時にリリアナは、未だ心の片隅でケルウェスに愛情を持ち続けていた自分に憤りを感じていた。
 嘲笑うケルウェスの顔がリリアナの脳裏を支配する。
『刺せりゃあ大したもんだよ』
 馬鹿にしきったケルウェスの言葉が何度も何度も繰り返される。
 続けて思い出されるのは、クランツの言葉……
『わたしがフローシアにフクシュウする』
(フクシュウ……そう……復讐。……あの男に復讐……ケルウェスに復讐を…………)
 リリアナはガリッと音がするほどに自らの唇を噛みしめた。
(苦しみの深淵に落ちてしまえばいい……。いいえ、望みとあらば……わたしが落としましょう……この手で、わたしが……)
 わずかに残っていたケルウェスへの愛情はもはや跡形もなく消え去っていた。
 代わりに芽生えたのは、憎しみ。
 今まで決して持つことのできなかった、強い憎しみ。
 リリアナの心が、堕ちた瞬間だった。


*−・−*−・−*−・−*−・−*



 リリアナは王城へと再び急いだ。
 復讐を誓った今、するべき事はたくさんある。
 考え事をしたままリリアナが建物の角を曲がったその時だった。
 ドンッ
 リリアナは出会い頭に誰かとぶつかった。
「……すみません」
「すまない……」
 慌てて顔を上げると、そこには一人の男性が立っている。
 黒髪に海のような深い青色の瞳を持つ彼……リリアナはその人物を知っていた。
「クラヴィアーナさん」
 リリアナは記憶の中で探り当てた名前を口にする。
 男の名はロイフェルド=クラヴィアーナ。記憶によればケルウェスより二つ程年上であり、彼と同じ左近衛軍第一部隊の配属であったはずだ。リリアナはケルウェスに会いに隊舎へ行った時、彼を何度か見かけたことがある。
「これは、リリアナ殿でしたか。お怪我は無いですか?」
 ロイフェルドは澱みのない深い青の瞳でリリアナをジッと見つめる。
「だ、大丈夫です。こちらこそ、すみませんでした。……わたくし、急ぎますのでこれで」
 リリアナは必要と思われることを言うと、女官服の左右の裾を摘んで軽く一礼をした。そして、そのまま足早に立ち去った。
 リリアナはロイフェルドの青い瞳が怖かった。
 自分が今抱えている野蛮で醜い考えを見透かされてしまうような、そんな気がしたのだ。
「おい! ロイド。そんなところに突っ立って何してんだよ?」
 去りゆくリリアナの背を見ていたロイフェルドに、一人の青年が声を掛けた。
 彼の名は、ジルギス=エイドック。ロイフェルドと同じ年で配属も同じである。
 ジルギスは美丈夫というより童顔で、その上人懐こい性格であるために男女ともに人気のある男だった。対するロイフェルドは常に無表情で愛想もなく、必要以外は口をきかない。
 そんな正反対とも言える二人であったが、ジルギスはなぜかロイフェルドを気に掛け、始めはそれを相手にしなかったロイフェルドも今ではジルギスだけは別格に受け入れていた。
「あれ? 確かあの子……王太子付き上級女官のリリアナちゃんじゃないか?」
 リリアナの背中を見たジルギスがすぐに言い当てた。
「遠目なのによく分かるな。今そこでぶつかったんだ」
「そりゃ分かるさ。あの白に近いような金髪。濃緑色の上級女官服に良く映えるんだよなぁ。あの髪色はリリアナちゃん以外いない」
 ジルギスは自信満々に言い切った。しかし、すぐにその表情に影を落とす。
「彼女……少しは元気になったのかな? 副長官も酷いコトするよな」
「…………」
 ロイフェルドとジルギスは既に点ほどになってしまったリリアナの背を見ていた。
 この2人もまた、リリアナとケルウェスの噂は既に耳にしていた。
「副長官も、馬鹿だよ。欲目に駆られてさ。人としてどうか、って話だろ?」
「ジル……言葉が過ぎるぞ」
「だってさ!! ロイドだってそう思うだろう?」
「……まぁな」
 ロイフェルドは何かを考えるよう数拍の間をおいて答えた。
「俺、リリアナちゃんのこと、慰めてあげようかな」
「お前、後宮女官のマリル殿はどうした。付き合い始めたって喜んでいただろうが」
 突拍子もないジルギスの提案に、ロイフェルドは冷静に尋ねた。
「……ロイド、恋の傷には触れてくれるな」
 ジルギス=エイドック……人気もあるが、なぜか一人の女性と長続きしない恋多き男である。

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* 黒き契約 第5夜 *