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* 黒き契約 第6夜 *

 深夜、リリアナは小さな包みを抱えてクランツの枕元にいた。
 本来なら仕事を終えてリリアナ自身も床についている時間であるが今夜は違う。
 一度クランツの御前から下がったリリアナは、色々と準備を済ませて時間を見計らって再びここへやってきた。
 王太子の部屋は衛兵二人が常に寝ずの番をしており、普通ならば誰もその中へ入ることは叶わない。しかし、クランツお気に入りのリリアナであれば、適当な理由で簡単に入れてもらえた。
「殿下……」
 リリアナはクランツを起こさないようそっと頭を撫でた。
 ぐっすりと眠っているようで、ピクリとも動かない。
「お世話に……なりました」
 消え入るような声で言いながら、リリアナはその場で畏まり深々と頭を下げた。
 そう……リリアナは今夜復讐を決行することにしたのだ。
 もっと準備を重ねて入念に計画を練る方が良いのかもしれない。しかし、リリアナは今この時の憎しみをケルウェスにぶつけてやりたかった。
 リリアナは包みを持つ手に力を込める。この包みには、短剣が入っている。王宮に上がる際、母が護身用にと誂えてくれたものだ。
 同時に、リリアナはクランツの寝顔をその視界に入れた。
 決心はした。
 殺人も、殺人未遂もこの国では死罪に値する重罪だ。万が一にも死罪を免れたとしても重く苦しい罰が待っている。
 だからリリアナは決めていた。
 ケルウェスに一太刀浴びせた後は自らの喉元を同じ剣で突こうと。
 復讐さえすめばもう生きる意味はない。まさに決死の覚悟だった。
 そこまでの覚悟は決めたものの、リリアナは最後に一目、クランツの顔を見ておきたかったのだ。
 言葉を覚え始めた頃から『リリ』と愛称を呼んでくれ、常に慕ってくれた幼い主人の顔を。
 いつでも笑っていて、元気よく走り回っていて、幼いながらも自分を気遣ってくれて……そんなクランツはリリアナの誇りであり、元気の源であった。
 そして、あの日自分の代わりにケルウェスに復讐すると言ってくれたクランツ……
 あの時は窘めたが、本音を言えばリリアナは嬉しかった。もちろんクランツは本気であったが、例えそれが子供の戯れ言でも、彼女にとっては十分だった。
(これで、お別れですね、殿下……最後は笑顔が見たかった)
「さようなら、殿下……どうぞご立派な王になってください」
 リリアナは静かに枕元を離れた。
 その時、「リリ……」と零れるように呼んだクランツの寝言を、リリアナが聞くことは無かった。


*−・−*−・−*−・−*−・−*



 リリアナは見張りの衛兵を避けて王城を出た。
 勤めが長い彼女にとっては何処に衛兵が配置されていて何時に交代か、そんなことはよく分かっている。
 リリアナは衛兵の隙をみて、ケルウェスのいる隊舎までやってきた。
 ふと目をやると、隊舎の傍にある噴水が視界に入る。水面に月光が反射してキラキラと輝いている。
 そのまま上空を見上げれば、その月が見えた。今夜の月は霞掛かったようで、その輪郭はぼんやりとしている。
(まるで……泣いているみたいね)
 リリアナは瞬きもせず月を見ていた。
 そして、その月を綺麗だと思う。
 晴れ渡った晩の丸い満月に比べれば今夜の月に『綺麗』という表現は正しくないのかもしれないが、リリアナにとっては今日がこの月で良かった。
(泣いているような、悲しそうな月……わたしにはお似合いの悲哀の月ね)
 リリアナは今まで布でくるんであった短剣を取り出し、ギュッと握りしめた。
 次の瞬間、
「おい、お前。そこで何をしている?」
 突然の声にリリアナはビクリとした。
 月に見とれている内に物陰から数歩出てしまった彼女の姿を巡回中の衛兵が見つけたのだ。
 リリアナは咄嗟に短剣を背に隠す。
「お前、女官か? 今、その背に何を隠した?」
「…………」
 リリアナは何も答えない。いや、答えられない。
 予想外の出来事に、焦りが一気に増殖する。
 こんなところで出鼻を挫かれては話にならない……
(何とか……何とか切り抜けなければ……)
 思うのに、体が言うことをきかない。
 そうこうするうちに衛兵はどんどんリリアナに近づいてくる。
「おい、所属と名前を言ってみろ」
 衛兵がリリアナにあと数歩まで近づく。
 もう駄目だ……リリアナがそう思った時だった。
「所属は左近衛軍第一部隊、名はロイフェルド=クラヴィアーナ」
 そんな低くゆったりとした声が聞こえた瞬間、リリアナは背後から凄い力で引かれ、そのまま声の主のマントの中へと抱き入れられた。
「こ、これはクラヴィアーナ殿」
 衛兵は突如として現れた人物に目を見張った。
「悪いな、こいつは俺の女だ。今晩、この噴水で会う約束がしてあった。手を煩わせて悪かったな」
「そうでしたか。それは失礼致しました」
 衛兵は深々と頭を下げる。
「もう仕事に戻れ。それから、このことは内密に頼む」
 ロイフェルドの言葉に衛兵は「はい」と短く返事をすると、その場を去っていった。
 やがて、足音が聞こえなくなった頃、
「行きましたよ、リリアナ殿」
 低く落ち着いた声がリリアナの耳に届いた。
 まだ激しく騒ぎ立てる心臓を懸命に抑えながらリリアナが視線を上げれば、そこには淡い月明かりに照らし出される、ロイフェルドの青い瞳があった。
「クラヴィアーナさん……どうして……」
 リリアナはそれだけをやっとの思いで紡いだ。
「ああでもしなければ、貴女は今頃彼に連行されていましたよ。このような時間にこのような場所で一体……」
「あ、ありがとうございました……」
 リリアナはロイフェルドの言葉を遮って、今までいた彼のマントの内から飛び出した。
 衛兵がいなくなった今、リリアナにとってはこのロイフェルドが次なる邪魔者となったのだ。
「クラヴィアーナさん、わたくし所用がありますので、これで失礼致します」
 リリアナはそう言って踵を返す。
 が、
 ロイフェルドにその右腕を強く引かれ、リリアナは足を止めた。
 同時に、カシャンという無機質な音がして、何かが地面に落ちる。
 それはリリアナが自身の袖の内に隠した短剣……
「物騒ですね。このような物を持って所用ですか?」
 ロイフェルドはリリアナの腕を掴んだまま別の手で短剣を拾い上げる。
「返してください……」
「上級女官の貴女に、これを使うような所用はないでしょう」
 左手を必死に伸ばすリリアナにロイフェルドは届かないよう短剣を引き離す。
「必要なのです。どうしても……わたくしには必要なのです」
 リリアナはつま先立ちになって伸び上がる。
 その時だった。
「復讐のため……ですか?」
 ロイフェルドの口から紡ぎ出された言葉に、リリアナはその動きを止めた。

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* 黒き契約 第6夜 *