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* 黒き契約 第7夜 *

 二人の間に、緊迫した短い沈黙が走る。
 何も答えようとはしないリリアナを見ながら、ロイフェルドは静かに喋り始めた。
「これで、フローシア副長官に一太刀浴びせようと? 夢の中の彼をひと突きにしようと?」
 そんな彼をリリアナはキッと睨み付けた。
「でしたら……そうでしたら何だと言うのです。例えそうだとしても、クラヴィアーナさんには関係のないことです」
 リリアナは再び伸び上がり、今度は短剣に手が掛かる。
 ロイフェルドは思いの外簡単に短剣から手を引いた。
「やめろ、と言っても聞き入れてはもらえませんか?」
「もう……決めた事ですから」
 リリアナは短剣を胸元で握りしめ、その視線を地面に落とした。
「……無理ですよ。貴女には」
 ロイフェルドは俯くリリアナに溜息混じりに言った。
「剣術の基本も知らない貴女では無理です。相手はその腕で副長官にまで上り詰めた男ですよ? 一太刀どころか、かすり傷さえ与えられないでしょう。それに、下手をすれば殺されますよ。正当防衛という真っ当な理由を付けてね」
 ロイフェルドの言い分は正しかった。
 反撃することさえ叶わないほどに。
 しかし、リリアナは……
「構いません」
 その目線をゆっくりと上げた。
 迷いのない目であったが、そこに光は無い。
「まさか、死ぬつもりですか……?」
 リリアナの目から何かを感じ取ったロイフェルドは、その表情をわずかに強ばらせる。
「生きる意味が、見い出せません……」
 リリアナは一瞬、泣いているような笑顔を見せた。
 そんな彼女の顔に、ロイフェルドは瞬きも忘れて見入ってしまう。
「あの人への憎しみで……わたくしの心はいっぱいなんです。醜い気持ちが溢れかえって、どうしようもなく苦しいのです。だから、もう……こうするよりないのです」
「…………」
 覚悟を決めた女の目を、ロイフェルドは何も言わずにただジッと見ていた。
「クラヴィアーナさん。もし少しでもわたくしに同情がいただけるなら、今わたくしには会わなかったことにしてください。それでは……」
 リリアナは自らの腕を引き寄せるようにロイフェルドの手を振り払った。
 そして、ロイフェルドの視線を背中に受けながら、リリアナは自らの命を代償とした復讐への道を歩み始めようとする。
 が、
「死ぬ覚悟があるなら、お前の全てを俺に売らないか?」
 突然聞こえた今までとは異質な言葉に、リリアナは踏み出した足を止めた。
 それには今までのような真摯さの欠片もない。
 驚きを隠せないままゆっくりと振り返れば、そこには先ほど同様、ロイフェルドしかいない。
 ロイフェルドはリリアナを見つめたまま続ける。
「お前の復讐に手を貸してやる。ただし、その代償はお前の体で払え」
 紡ぎ出された言葉に、リリアナは瞬時にその顔をしかめる。
 ロイフェルドのそれを理解できなかった。
 そんなリリアナに構わずにロイフェルドは歩み寄り、彼女の顎をクッと上げた。
「意味が分からないって顔、してるな。死ぬ気があるなら、お前自身を俺に売れと言ってるんだ。俺の欲する時に閨事の相手をしてくれれば、お前の復讐は俺が手伝ってやる。安いもんだと思わないか?」
「わたくしに……娼婦の真似事をしろ、と?」
 ロイフェルドの言わんとしていることを解釈したリリアナは震える声で尋ねた。
 この国には法律で定められた国営の娼館が各所に存在する。男はそこで娼婦を買う。自らの性欲を満たすために。
 そこで働く女たちは非常に身分が低く奴隷と同等の扱いだった。
 それもそのはず、この国では未婚女性の処女性は特に重視される風潮であり、結婚後にそうでないことが分かれば男性側は問答無用で離縁を申し渡せるのだ。現にリリアナとケルウェスもあくまで清い交際で、口づけを数回交わした程度の関係だった。
 だから、娼婦を好き好んで自らの生業とする者はいない。多くは平民階級以下の者たちがその日の生活に困り、自分や家族が生き抜くために最後の手段としてそこに身を落とすのだ。
 したがって、いくら中流とはいえ貴族階級で育ったリリアナにとっては、その生業を言葉として知ってはいたが、自らの身に降りかかる事としては一切考えたことはなかった。また、考える必要さえ無かった。
 それを、今目の前にいる男はリリアナに平然と提案したのだ。
「娼婦か……そんな言い方もあるだろうな。彼女たちは体を売る代わりに金を、お前は復讐の遂行を……得られる物の価値は引けをとらないと思うが?」
 リリアナはロイフェルドの青い瞳を見ながら考えていた。
 彼の言うことは確かに一理ある。
 リリアナが今ここでケルウェスを討つことは非常に難しい。それは言われずとも分かっていたことだ。
 しかし、ロイフェルドであれば確実に仕留められる可能性は高くなる。
 リリアナは以前ケルウェスが話していたことを思い出していた。
 部下の内、一人だけ自分と同等に使える男がいる、と彼は言っていた。
 その時に聞いた名は、ロイフェルド=クラヴィアーナ。今、リリアナの前にいるこの男だ。
(この人であれば、もしかしたら……)
 リリアナの中に期待という感情が生まれる。
 しかし、
『代償はお前の体で払え』
 ロイフェルドの提示した条件が、リリアナに重くのしかかる。
(体……この体を……)
 女は貞淑であること……幼い頃より教え込まれた道徳が、リリアナの最後の決断を邪魔する。
 深く悩む様子の彼女をロイフェルドは静観していた。
「別に無理強いはしない」
 ロイフェルドがそう言ったのはしばらくの沈黙を経たあとだった。
 彼はスッとリリアナから手を離す。
「死ぬ覚悟があるなら、その命を無駄にしない選択肢を俺は提示しただけだ。どちらを選択するもお前の勝手だからな」
「…………」
 リリアナは何も答えない。
 ロイフェルドはそれからしばらく間をおいたが、全く動く様子のないリリアナを確認すると小さく一つ溜息を吐く。
「……貴女の意向は分かりました。私は今、貴女を見なかったことにする……それでよろしかったですね」
 気づけばロイフェルドの口調は元のように戻っていた。
「それでは、健闘を祈ります」
 そう言うと、ロイフェルドはバサリとマントを翻してその場を立ち去ろうとした。
 次の瞬間、
「待って……」
 消え入りそうな小さな声と共に、ロイフェルドは背中に温かさを感じる。
 リリアナが彼に抱きついて引き留めたのだった。
 ロイフェルドがゆっくりと振り返ると、そこにはつい先ほどと同じような迷いのない瞳をしたリリアナが立っていた。
「分かりました。あなたの……申し出をお受け致します」
「良いのか?」
「構いません。この体、全てクラヴィアーナさんに差し上げます」
 リリアナは全てを覚悟したその目で、ジッとロイフェルドを見つめた。
「その代わり……必ず、あの男を討ってください。わたくしの復讐を、必ず成し遂げてください」
「その体、汚れたら後戻りはできないぞ?」
「承知の上です」
「だったら、商談成立だな」
 ロイフェルドはクスリと笑みを零すと、リリアナの冷え切った唇に口づけを落とした。

 この夜、月下の元、リリアナはロイフェルドと契約を交わした。悪魔のような黒き契約を。
 しかし、この時の彼女には、もはや恐れる物も失う物もなかった。
 復讐の遂行……そのためなら、悪魔に魂を売ることさえリリアナは厭わなかった。

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* 黒き契約 第7夜 *