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* 重き代償 第1夜 *

 昼近く、リリアナはセレンと共に王太子が剣術の稽古から帰ってくるのを待っていた。今日は良く晴れ渡っており、三階ににあるこの王太子の部屋からは遠くまで良く見渡せる。
 リリアナは窓の外を見つめていた。そんな彼女の視界に入るのは剣を合わせる男たちの姿だ。
 彼らがいるのは王城の敷地内に設置された左近衛軍専用の簡易練習場である。左近衛軍に所属する者たちは普段、ここで剣術や馬術、弓術といった鍛錬に励んでいる。ケルウェスと恋人同士だった頃、リリアナはよく暇を見てはここから覗いていた。
 左近衛軍は全十隊からなり、練習場ではそれが入り交じっているのでなかなか目的の人物を見つけることは難しかった。しかし、ケルウェスはその副長官という地位から、平隊員とは異なる色味の隊服を着ていたので遠方からでも容易に見分けられた。
 そのため、リリアナは数多くいる男たちの中からケルウェスを見つけては、「今日も一日良いことがあるかもしれない」と期待に胸を膨らませたものだ。
 しかし、今彼女が見つけるのは彼ではない。多くの者と同じ隊服を身につけた、黒色の髪をした別の人物……
 先ほどから彼を捜しているが、やはりそう簡単に見つかるものでもない。第一、彼らの部隊が今練習場に出ているとは限らないのだ。
 リリアナは一つ溜息を吐いた。
 ロイフェルドと契約を交わしてから既に二日。
 あの晩、リリアナはすぐにでもロイフェルドの物になるつもりだった。その方が、決心も揺るがず何も分からないうちに終わっていいと思った。
 しかし、ロイフェルドは口づけを一つ落としただけでリリアナに手を出そうとはしなかった。
『また連絡をする』
 それだけ言い残し、彼は風のようにその姿を消した。
「……さん、……リアナさん…………リリアナさん!!」
「え?」
 すっかり見入っていたリリアナはセレンの呼びかけに気づかなかった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ちょっと考え事」
 振り返ると、セレンが心配そうな顔でリリアナを見つめている。
「やっぱり……殿下にお願いして、一度ご実家に戻られたらどうですか? それで一度ゆっくりお休みを取られた方が」
 セレンはリリアナの事情を知っていることを言葉に出さなかったが、リリアナの支えとなれるよう色々と気遣ってくれていた。
 今もまた、心ここにあらずのような表情で外を見つめていたリリアナを心配に思ったのだろう。
「こんなことで実家になんて戻れないわよ。どちらかというと、仕事をしている方が気も紛れるし。それに……」
 再び窓の外に視線を向けたリリアナは、その視界に飛び込んできた人物に言葉を止める。
 視線の先で動くのは……紛れもなくケルウェスだった。
 隊服だけでなく、その仕草や醸し出される雰囲気で自然と認識してしまう。
 習慣とは怖いものだとリリアナは思った。そして、ロイフェルドを見つけることは叶わないのに、皮肉なものだとも。
「それに……なんです? あ、もしかして、リリアナさんってば新しい恋が始まりそうなんですか? だから、ここから見てた、違います?」
「…………」
 途切れた言葉から突拍子もない話を始めたセレンを、リリアナは思わず目を丸くして見てしまった。
 明るいのが取り柄と言おうか、基本的に前向き思考のセレンであるが、よくそんなことを考えついたとある意味感心してしまう。
 その一方で、話が暗い方向へいかなくて済んだことにリリアナは少し感謝していた。
「そうそう。さっさと忘れて次に行く方が良いですよ!! 落ち込んでたってもったいない。リリアナさん、美人なんですからモテますよ〜」
 セレンはリリアナに構わずキャッキャと嬉しそうに話している。
「で、誰です?」
「さぁ、誰かしら。誰かいい人がいると良いのだけれど……」
 受け流したリリアナに、セレンは「えー」と不服そうな声を上げたが、すぐにリリアナの隣に立って彼女の視線の先を確認した。
「ねぇ、リリアナさん。彼だったらやめた方が良いですよ?」
 セレンはそう言って、ある人物を指差した。
 彼女がいうのは平隊員の隊服を身につけ、この国では比較的珍しい赤銅色の髪をした男だ。
「彼って?」
「エイドックさん。……ジルギス=エイドックって知りません? 年齢の割に結構可愛らしい顔している人で、愛想もいい人だから一度くらいはお話しされたことあるんじゃないですか?」
 リリアナはセレンの言葉に、さぁ、と首を傾げる。そのような名前は聞いたことも無かったし、会ったこともなかった。
 厳密に言えば、ロイフェルドのようにケルウェスに会いに行った時に見かけていたのかもしれないが、リリアナの記憶には留められていない。
「わたしは知らないわ。でも、それだけの方がどうして駄目なの?」
「わたしの同郷で、マリルさんて人が後宮に勤めてるんですけど、彼女が思ったよりつまらない人だった、ってぼやいてました。まぁでも……わたしなら左近衛軍より、右近衛軍ですね。最近、すっごい格好いい人が第五部隊に入ったって噂なんですよ〜」
 セレンは伸び上がるようにして、左近衛軍の練習場よりもさらに西の方を見た。その方向には、右近衛軍の簡易練習場が設置されているが、この位置からでは大木が邪魔をしてそれを見ることは叶わない。
「詳しいのね、セレンは」
「えぇ、まぁ。文官から武官まで情報収集は抜かりないですよ〜。素敵な旦那様募集中の身ですからね」
 きっかけはセレンの言葉だった。
「ねぇセレン……ロイフェルド=クラヴィアーナっていう武官、知ってる?」
 そんな言葉がリリアナの口をついて出た。
 それだけ詳しいセレンなら、彼のことを知っているかもしれないと思ったのだ。
 この二日、リリアナは自分なりにロイフェルドについて調べたが、大した情報は得られなかった。
 得られたものといえば、二十五歳という年齢、六年前に今の左近衛軍に入隊したこと、故郷は隣国マーライドとの国境の都市、スルナツカであること、そのくらいだった。
「……クラヴィアーナさん? うーん、聞いたこと無いですね。その方がどうかされたのですか?」
 セレンは少し考えたが分からない様子だ。
「ううん。知らないなら良いの。その……友達が、前にそんな名前を言っていたから、セレンなら知っているかと思っただけよ」
 リリアナは気にしないで、と付け加え、窓辺を離れた。
 やはりそう簡単には分からないか、とセレンには気づかれないように溜息を吐く。
 と、その時、バタンという音と共に部屋のドアが開き、クランツが入ってきた。
「リリ、セレン、今もどったぞ。またせたな」
「お帰りなさいませ、殿下」
 リリアナはセレンと共に深々と頭を下げて主人を迎え入れる。
 そのままゆっくりと顔を上げると、二人の視界には泥だらけの顔をしたクランツが立っていた。
「まぁ、殿下、一体どうされたのです?」
 リリアナよりも先にセレンが驚いて声を上げる。
「剣術の稽古中に、転ばれたのです」
 気づけば、部屋の入り口に一人の男性が控えていた。
(――――)
 彼を見た瞬間、リリアナは息を呑んだ。

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