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* 重き代償 第2夜 *
驚きを隠せないリリアナに構わず、男性は続ける。
「一応、侍医の診察を、と申し上げたのですが、殿下が拒否をされましたものでそのままお連れいたしました」
「いい。べつになんともないんだ! れんしゅう中、ちょっとつまずいて転んだだけで、みんながしんぱいしすぎなんだ。今だって一人でもどるといったのに、クラヴィアーナがどうしても、ときかなくてな。わたしはこれでもりっぱな男だぞ?」
クランツは付き添ってきた男性、ロイフェルドに言いながら、その袖口で汚れた頬をこすった。
「殿下、とりあえず湯浴みを。少し遅くなりますが昼食はそれからにいたしましょう。セレン……殿下を浴場へ」
リリアナはクラヴィアーナから視線を外すことができず、そのまま早口で必要と思われることを紡いだ。まさか今このタイミングでロイフェルドが自分の目の前に現れるなど、リリアナは思ってもみなかったのだ。
セレンは「承知いたしました」と返事をすると、クランツを連れて足早にその場を後にする。
「大丈夫とは思いますが、一度侍医の診察をお薦めします。外傷はないようですが、もしもの事があっては困りますので」
クランツとセレンがいなくなった後も、ロイフェルドは態度を変えることなく儀礼的に話した。
「お手数をおかけ致しました。……わざわざありがとうございます」
リリアナもそれに相応しいよう答えを返すと、女官服の裾を左右で摘んで儀礼的に一礼をする。
そして、自らも浴場へ向かおうとしたその時だった。
「きゃ……」
リリアナの腕がクッと引かれ、彼女は体勢を崩してロイフェルドの胸へと崩れこむ。
何をなさるのです? と、リリアナはロイフェルドを見上げて目で訴える。するとロイフェルドはリリアナの耳元にスッと顔を近づけた。
「――――」
「え?」
囁かれたその言葉を、リリアナは思わず聞き直してしまった。
それは、先ほどまでの儀礼的な語調ではなく、あの晩交わしたのと同じものだった。
「二度は言わない。来るも来ないもお前の勝手だ。今ならまだ引き返せる」
ロイフェルドはそう付け加えると、リリアナを少し乱雑に突き離した。
「……それでは、失礼致します」
ロイフェルドは右胸に手を当てその頭を軽く下げると、何事もなかったこのようにその場を去っていった。
『今夜、日付の変わる頃、北の大神殿で待っている』
リリアナはロイフェルドの言葉を脳裏で反芻しながら彼の背を見送った。
*−・−*−・−*−・−*−・−*
「こうして、姫は王子といつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし……さぁ、殿下、もう遅いですからお休みになってください」
リリアナは今までクランツに読み聞かせていた絵本を閉じた。
「いやだ……もう一冊、もう一冊読んでくれたら寝る。だから……」
「いけません。あまり夜更かしされては明日の朝、起きられませんよ?」
「だいじょうぶだ。きちんと起きる、だからおねがいだリリ」
自分の女官服を掴むクランツに、リリアナは少し困った顔をした。
リリアナは今から一刻ほど前にここに呼ばれた。今夜クランツを寝かしつける係は別の女官の役割だったが、むずかるクランツに手を焼いたその女官がリリアナに助けを求めたのだ。
やってきたリリアナにクランツは眠りにつくまで本を読み聞かせて欲しいと言った。一冊読み終えると次を強請り、それを繰り返してリリアナは既に三冊も読み聞かせた。
いつもは一冊が読み終わらないうちに眠り込むクランツなのだが、今夜はどうしたわけか駄目だった。しかし、眠くないわけではないらしい。クランツのその手は温かく、既に目も眠そうにとろんとしている。
それにもかかわらず、彼は一向に寝ようとはしないのだ。
「殿下、明日お勉強の合間にまた続きを読んで差し上げます。ね? ですから今夜はもうお休みください」
リリアナはクランツの髪を優しく撫でた。
「本当か? リリは明日もかならずよんでくれるか?」
「ええ、お約束します」
「明日だけでなく、その次も、そのまた次も……よんでくれるか?」
「はい」
「ぜったいに、ぜったいにだぞ? いなくなったりしたら……ダメなんだからな?」
クランツはリリアナの女官服を掴む手にわずかに力を込めた。
「殿下……? どうかされましたか? リリは殿下のおそばにいますよ」
リリアナはクランツの手に自分の手をそっと添えた。
「夢を……みたんだ」
「夢を?」
「そうだ。何日か前、リリがとつぜんいなくなる夢をみたんだ……。りっぱな王になれと言って、さよならと言っていなくなってしまうんだ。わたしがどんなに追ってもリリには追いつかなくて……さいごは遠いところへ行ってしまうんだ」
クランツはその時の夢を思い出したのか、酷く暗い表情で俯いてしまった。
リリアナはすぐに気づいた。
ケルウェスに復讐を誓った晩、夢うつつの中でクランツはリリアナの言葉を聞いていたのだ。まさかそれが現実であるとは思わず、クランツは夢だと理解をしたのだろう。
しかし、あまりに現実味のあったそれは彼を怯えさせ、不安にさせたようだった。
「ただの夢ですよ、殿下。ほらリリはここにいますでしょう?」
リリアナはクランツを安心させるように笑って見せた。
「だから……お休みください。殿下が眠るまで、ここにおりますから」
「わかった……。だったら今日は寝る。でも、ぜったい…ぜったいそばに……いるんだ、ぞ…………」
クランツはその言葉を言い終えるか終えないうちに瞳を閉じてしまった。
そしてクランツの単調な寝息をしばらく聞いた後、リリアナは部屋の時計を見た。
時刻は十一時を半分ほど過ぎていた。
*−・−*−・−*−・−*−・−*
リリアナは北の大神殿と呼ばれるところにいた。正確にはその門前に。
この大神殿は王城の建つ敷地の最北端に位置し、何かの式典がある時のみ開放される特別な場所である。
そのため、司教や司祭たちを初めとし、修道士、修道女たちは毎朝晩礼拝を行うが、それ以外の者は滅多に近寄らない。その彼らも夜間は官舎へ戻り、ここは人気が一切なくなる。
大判のストールを頭からすっぽりと被ったリリアナは大神殿を見上げ、そして、物思いに耽っていた。
何もなければ、次の春の結婚式はこの大神殿で行われるはずだった。
ここは王族を初めとし、一部の有力貴族たちにのみそのような権利が与えられている場所で、リリアナもフローシア家の名前でここで式を挙げることを認められていた。
真っ白なドレスに身を包み、神の御前で互いに愛を誓い合い……どれほど夢見たことだろうか。
しかし、それはもはや過去のこと。全て白紙に戻されたことなのだ。
リリアナは思いを払拭するよう溜息をひとつ吐いて、大神殿への入り口となる重厚な扉に手を掛けた。
* 重き代償 第2夜 *