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* 重き代償 第3夜 *

 中は真っ暗だった。
 窓から射しこむ月明かりだけが唯一の光源であり、リリアナはそれを頼りに歩み進める。
 そこは司教たちが礼拝を行う場所であり、中央通路を軸に左右対称に前方から後方まで横掛けの椅子がずらりと並べられている。
 夕方の礼拝の余韻か、辺りは香を焚いた後の薫りがまだ漂っていた。
 リリアナはゆっくりとその通路を踏みしめ、最前列にまできてその足を止める。
 見上げた先にあるのは、月光神テアトラスの聖像である。
 両腕を胸の前でクロスさせ、その目はまるで窓の外にある遠くの月を見ているようにも思える。
 リリアナは聖像を見た時の習わしで、その場に跪いて祈りの体勢を取った。
 サルヴェンナの国家宗教はこのテアトラス教である。他の宗教を信仰することも一応黙認されているが、国民の多くはこのテアトラス教を信仰しており、リリアナもそれに違わず敬虔な教徒であった。修道士たちのようにここでの礼拝は行わないものの、朝晩欠かさずテアトラス神を象徴する月のモチーフが付いたロザリオを胸に祈りを捧げていた。
 しかし、それも今日、今この瞬間までのこと。
 今祈るのは将来の幸福でも何でもない。ただ、謝罪をするだけ。今まで恩恵を与え続けてくれた神を裏切り、教徒であることを辞する事への謝罪、それだけだ。
 そもそも、未婚女性の性交渉が罪として裁きを受けるのはこのテアトラス教の神の教えを元にしてのこと。それを破るという事はもはや教徒であることは許されないのだ。
 リリアナがその手に自然と力を込めた時だった。
「そんなに真剣に何を祈る?」
 突然聞こえた声に、リリアナはゆっくりと目線を上げる。気づけばそこにはロイフェルドの姿があった。
「クラヴィアーナさん……」
「復讐の成功でも祈ったか?」
 ロイフェルドはクッとその口角を上げた。
「いいえ。謝罪を」
 リリアナはゆっくりとかぶりを振る。
「謝罪?」
「はい、主の教えを裏切ることへの謝罪です。それに、復讐の成功など……祈ったところで、聞き入れてはもらえないでしょう。そのような醜いことを主は好みませんから」
 リリアナはその場に立ち上がり、自分よりも背の高いロイフェルドの瞳を見上げた。
「覚悟は決まった。そういう解釈で良いな?」
 リリアナは静かに頷いた。


*−・−*−・−*−・−*−・−*



「ここは?」
 リリアナはあれからロイフェルドにより大神殿の奥まで連れて行かれた。
 月明かりに照らされるそこは小さな部屋で、ベッドと椅子、そして祭壇が置かれていた。祭壇には神書と、小振りのテアトラス神の聖像が安置されているようである。
「祭典がある時、夜警をする近衛の者に与えられる部屋だ」
 ロイフェルドは抑揚のない声で答えながら、部屋のランプに明かりを灯した。
 明かりがつくとそのすぐ隣にある祭壇が照らされ、テアトラス神の姿が暗闇の中に浮かび上がる。
 不意にその聖像と目を合わせてしまったリリアナは、スッと不自然に視線を外した。いくらその心を決めたとはいえ、神の目を見ればそれが揺らいでしまいそうで怖かったのだ。
 ロイフェルドがそんなリリアナを見ていたことに彼女本人は気づかない。
「はじめに……俺からいくつか条件がある」
 ロイフェルドはその唇を静かに動かした。
「なんでしょう?」
「契約期間中、俺に逆らうことは許さない。身を任せた以上、お前の全ては俺の物だ。それから、何かと接することも多くなるだろうから恋人の振りをしろ。俺にとってもお前にとってもその方が色々と都合が良いはずだ。あと……こんなこと言うまでも無いだろうが、これはあくまで二人の間の秘密だ。まぁ誰かに漏らしたところで、損失はあっても利益はないだろうがな」
 ロイフェルドのそれに、リリアナは承諾を伝えるよう彼に視線を合わせたまま頷いた。
 二人の間に短い沈黙が走る。
「あの……」
「なんだ?」
「一つだけ聞いてもよろしいですか? なぜ……クラヴィアーナさんはわたくしに手を貸してくださるのです?」
 リリアナは怖ず怖ずと切り出した。
 突然そんなことを言い出した彼女を不思議に思ったのか、ロイフェルドはすぐには答えなかった。
 たっぷりと十数秒の間を空け、
「……別に深い意味はない。ただ女が欲しいからだ。娼婦を買うのは金がかかるから手近なところで済ませようと思った、それだけだ」
 ロイフェルドは特に感情も表さずに淡々と答えた。
 しかしそれは、リリアナを納得させるには足りなかった。
「確かに……わたくしを相手にするならお金はいりません。ですが……復讐に手を貸せば、少なからずあなたの身は危険に晒されますよ?」
 リリアナは今まで疑問に思っていた事を思い切ってぶつけてみた。
 この数日、リリアナは自分なりに冷静になって考えてみた。
 なぜロイフェルドが単なる顔見知り程度の自分に手を貸すなどと言ったのか。
 女が欲しい、というのは分かる。それにしても、リスクが高すぎるのではないかと思ったのだ。
 リリアナが今言ったように、この復讐に関われば恐らくロイフェルドの身は危険に晒される。相手が一般人ならともかく、あのケルウェスであることを考えればそれはまず間違いない。それも怪我程度で済むならともかく、はっきり言って命の保証だってない。
 そんなこと、彼と一緒に鍛錬を重ねているロイフェルドならば十分に分かるはずだ。そして、そんな危険を冒すくらいなら、多少高額なお金を払っても娼婦を買う方がよほど安全で安心なのではないかとリリアナは思ったのだ。
 答えないロイフェルドにリリアナは言葉を重ねる。
「やはり娼館に行かれた方が……」
「お前、もちろん処女だろう?」
 突然聞こえた声に、リリアナは思わず言葉を止めた。
 そして、すぐに羞恥でその顔を真っ赤に染める。
「娼館で処女を買えるのは限られた金持ちだけだ。普通の人間では到底買えない。それを思えば多少の危険は仕方がない……そうは思わないか?」
 リリアナはすっかり顔を俯けてしまい、返事をしない。
「無駄話はもう良いか?」
 ロイフェルドはリリアナの前に立ち、その顎をクッと持ち上げる。
 赤らむリリアナの顔が上げられる。しかし、その視線は羞恥で未だ下げられたままだ。
 それが妙に扇情的だとロイフェルドは思った。
「時間稼ぎをしたいならもっと興味深い話をするんだな……」
「別に……時間稼ぎなんてそんな……」
 声を上擦らせ、生じる震えを必死で殺そうとしているリリアナをロイフェルドはジッと見つめていた。
「怖いか?」
「こ、怖くなんて……ありません。復讐が成し遂げられるのであれば……怖いことなど何もありません」
 リリアナは今まで背けていた視線をゆっくりとロイフェルドに合わせる。
「大した度胸だ」
 ロイフェルドはクッと笑みを漏らす。
「抱くぞ?」
 それは尋ねているようにも聞こえたが、もはやリリアナに選択権は与えられない。
 ロイフェルドは突き放すようにリリアナをベッドの上へと押し倒した。
「……っ」
 声にはならない驚きがリリアナの唇からこぼれる。
 しかし、ロイフェルドはすぐにリリアナの上にのしかかるような事はしなかった。
「少し待ってろ」
 そう言うとロイフェルドはマントをバサリと外し、それを投げやるようにして祭壇をすっぽりと覆った。
 ただ無言で見ていたリリアナは、彼の行動に思わず目を丸くする。
「裏切るところを見られなければ、懺悔も謝罪もする必要はないだろう?」
「そんな……詭弁です」
 笑みさえ浮かべて言うロイフェルドにリリアナはすぐに反論する。しかし、口ではそう言いながら、彼女は内心、安堵の溜息をついていた。
 敬虔な教徒であるリリアナにとって、神の御前で裏切り行為を繰り広げることなど耐え難かったから。
「詭弁で結構、俺は信仰心てものを持ち合わせてないんでね」
 ロイフェルドがベッドに片膝を付くと、ギシッという音が辺りに響いた。
「それでも気になるなら、全て俺のせいにすればいい。お前の弱みにつけ込んだ、悪い男のせいにな。お前は悪いことなど何もしていない。そしたら神も救ってくれるだろうよ」
「そんなこと……」
「もういい。おしゃべりはお終いだ」
 ロイフェルドはリリアナの唇を自らのそれで塞いだ。

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