部屋には静かな音で穏やかな曲調のクラッシックが流れている。
テーブルの上には食べかけのケーキと飲みかけのシャンパングラス、そしてボトルクーラーに入ったシャンパンが置いてある。
その隣のソファにいるのは環。彼の膝の上には深知留。
そして、彼女の唇は既に環に捕らえられている。
「――ん、ふ……ぁ……」
聞こえるのは、キスの合間に漏れる深知留の甘く濡れた吐息。そして時折思いついたように奏でられるのは、空調で氷が溶ける度シャンパンボトルがクーラー内で寝返りを打つガシャリという音。
今日は、クリスマスイブ。
二人は仕事と学校の後、待ち合わせをしてレストランで食事を摂り、ゆっくりデートをしてから家路についた。
本当はホテルを取ってそこで一晩を――そんな素敵な夜が計画されていたが、明日の朝一番で環は出張へ出る事が決まっている。そのため、イベントの夜にしては早々に引き上げてきたというわけだ。
そんな二人を不憫に思ったのか、帰ってきた彼らを迎えてくれたのは鈴が焼いてくれた大きなクリスマスケーキ。
『素敵なクリスマスを過ごしてね』
そうメッセージカードを添えてくれたケーキの作り主は、最愛の旦那様と共に今夜の便でフランスへと飛んだ。雅の仕事込みで、年始まであちらで二人一緒に過ごすらしい。
だから今晩はこの広い屋敷に数名の使用人の他、環と深知留がいるだけ。たった二人、住人が減っただけなのに、何だか今日は静かな気がする。
「……ぅ…ん……」
環は舌を差し入れる角度を変え、深知留の喉元をそろりと撫でる。そこには雪の結晶のようなダイヤモンドが飾られたプチネックレスが光る。これはつい先ほど、環から深知留へ送られたクリスマスプレゼント。
環がその鎖を掬うように首を撫で、そのまま胸元へと手を運べばそれは深知留の手によって掴み取られた。
「嫌?」
薄目を開けて環が問えば、
「そうじゃなくて……」
深知留も同じようにゆっくりと目を開き、
「駄目、です」
優しく抑止する。
だが、もちろんそれを素直に受け入れるわけがない環は、捕まれた深知留の手を逆に絡めるように掴み取り、そのまま彼女の首筋に顔を埋める。
ところが、
「駄目…ですって、ば……」
どうしても拒否をしようとする深知留に環は不服そうにその顔を上げる。
そして「なんで?」と問えば、
「だって、明日早いでしょう? 環さん」
返ってきたのはそんな答え。
「あぁ、そのこと」
「だから、駄目です。起きられなかったら困るでしょう?」
「大丈夫だよ。心配いらない」
「何言ってるんですか。だって、環さん……」
深知留はそこまで言いかけて言葉を止めると、何だかとても気まずそうにその視線を環から逸らせた。
「だって俺が何?」
「その……あの……」
すかさず尋ねる環に、深知留はやはり口籠もる。
「ん? 何?」
相変わらず答えを求められる深知留はたまりかねて、環の頭を抱えこむようにして耳元にその唇を寄せた。
そして、
「一回じゃ終わらないから……です」
紡いだのは消え入るような小さな小さな声。
深知留が環に初めて抱かれてから丁度一週間――特に出張その他が無かったこともあり、環は二日と空けず……いや、ほぼ毎日のように深知留を求めた。それが一晩につき一度では決して済まないことを深知留はこの一週間で身を以て知ったのだ。
それは世間の平均よりも多いような気もしたが、正直言えば深知留はそうして環から求めてもらえることが嬉しかった。ようやく思いが通じ合ったという事実があるから尚更だし、深知留自身環と触れ合うのが好きだから。
しかし、そういった行為自体にまだ慣れないせいなのか、彼女はほぼ毎度眠るように気を失って最後はどうなったのか知らないまま翌朝目を覚ます。もちろん気持ちの上では大満足だ。が、その翌日の疲労感たらないというのも本音。
だから深知留は考えたのだ。
いくら環が自分よりもそういった行為に慣れてるといえども、それなりに疲労感はあるはずで、その状態で明日の出張に出かけるのは如何な物か、と。
「環さんだって……疲れるでしょ?」
そう言い添えた深知留はあまりの恥ずかしさに耳まで真っ赤に染めてプイッとそっぽを向いてしまう。
そこまで聞いてようやく深知留の言わんとしていることを察した環は、変なところに初心で心配性な恋人を愛おしく思った。
しかし、環にすれば深知留の心配する疲労感など疲労のうちにも入りはしない。むしろそれは心地の良い疲労感であり、爽快感さえ覚える。
それに明日は……
「大丈夫。明日は……」
そう環が言いかけた時、その場には不釣り合いな携帯電話の着信音が鳴り響いた。
鳴っているのはテーブルの上で充電器に繋がれた深知留の携帯電話。
「あ、わたしだ……」
深知留はそう呟くと環に抱かれたまま携帯電話に手を伸ばす。
「取るの?」
環はその手を意地悪く絡め取り、邪魔をしようとする。
すると、
「環さん離して……蒼からです」
深知留は携帯電話のディスプレイを見ずにそう断言した。
蒼――その名を聞いた瞬間、環の中では一瞬にしてモヤッとした感情が生じる。
そして、ディスプレイを見ずに断言したということは、深知留がその相手を特別な設定にしているのだということで、その事実に先ほど環の中で生じた感情はどんどんと膨らんでいく。
だが、深知留はそんな環の気持ちにも気付かずに、彼の腕をするりと抜けて携帯電話を充電器から外し、通話ボタンを押す。
「もしもし、どうしたの蒼?」
通話口で自然と零れ出る笑みを、環はじっと眺めていた。
電話の相手、蒼――華宮蒼。あの華宮グループの総帥。
彼が深知留の二十年来の幼馴染みであることを、環はつい先日深知留から聞かされた。そして彼が、あの日深知留のずれたコンタクトを見てくれた相手だということも。
話を聞くうちに、二人が随分と仲が良いこともうかがい知れた。それは、一歩間違えれば恋人と思えるほどに。
しかし、深知留は
『お兄ちゃんとか……弟みたいなもんですよ』
蒼の存在をそう表現した。
それに、蒼がこの夏に前総帥の孫娘と婚約した事は環も知っていたので、特に嫉妬の対象になるはずではなかった。
なかったが……
こんな風に仲良くしている場面を見せつけられると、モヤッとした感情――嫉妬心が妙に煽られる。それも、彼女がワザとしているならまだしも、無意識にしているからなおさら。
だから、環はすり抜けていった深知留を回収するようにその背を後ろから抱きしめた。
瞬間、
「――――!?」
驚きに深知留が息を呑む音が聞こえる。
それからすぐ、困ったような叱責するような顔で深知留が振り返った。未だ電話で応答をしながら。
だから環はそれで止めずに続けて深知留の首筋をペロリと舐める。
と、
「あ、蒼……ちょ、ちょっと待って!」
深知留は蒼に早口にそう伝えると、通話口を手で押さえる。
「環さん!! 何するんですか!」
「別に?」
環はシレッとした表情で答える。
「電話、もういいの?」
「よくないです。今、蒼ととても大事な話してるんです」
「そう」
「だから、環さん邪魔しないでください」
深知留はまるでイタズラをする子どもを叱るようにピシャリと言うと、そのまま携帯電話を片手に部屋を出て行った。
「“蒼”は大事で、“環さん”は邪魔ね……」
環は恨み言のように呟きながら、その背を見送る。その表情はまるで置いてけぼりにされた子どものようだった。