それから五分も経たずに深知留は部屋へと戻ってきた。彼女なりに気を遣って必要最低限で話を終わりにしたのだ。
 結局、蒼の用事はこうだった。
 明日一日、由利亜を外で連れ回して欲しい、と。
 明日、クリスマス当日は由利亜の誕生日。蒼は前々からそれのために準備をしていたようだが、どう頑張ってもそれが間に合わないのだという。彼が何をプレゼントするのかは知らないが、とにかく由利亜が家にいてはまずいとのことで、一生のお願いとばかりに深知留に電話をしてきたわけだ。
 それもそのはず、ついさっき大学内で会った時、明日は環が朝から出張でいないと深知留が漏らしていたので、蒼はこれ幸いと頼み込んできたらしい。
 深知留は特に断る理由もなかったのでそれを受けることにした。どちらかと言えば、用事が出来てラッキーくらいに思って。
 だって明日は環もいないし、いつもなら遊んでくれる鈴もいない。夜遅くに帰ってくる環を待つまで、時間潰しに大学にでも行こうかと思っていたくらいだから。
「ごめんなさい、お待たせしました」
 深知留はそう言って環の元へ戻った。彼はソファーに深く腰掛けてシャンパングラスを傾けている。
「もういいの?」
「はい。済みました」
 深知留は答えながら環の隣に腰を下ろすとお皿に残ったケーキを口に入れる。せっかく鈴の作ってくれたケーキだ。残してしまうのはもったいない。
 そうして、深知留は空になったお皿とフォークをさっさと一つに重ねると、
「じゃあ、環さんもう寝ましょ? わたしも明日朝早くから出かけることになったので」
 さらりとそう告げた。
「え? 出かける?」
 環は深知留の言葉にすかさず問いかける。
「はい。今の電話で用事ができたんです。でも、出かけるって言っても環さんより早くに帰ってますよ」
「もしかして……それ、華宮さんと?」
「まさか。違いますよ」
 一瞬神妙な顔をした環に、アハハと深知留は笑い飛ばす。
「じゃあ誰と?」
「蒼の婚約者です。環さんも知ってるでしょう? 華宮の孫娘の。彼女ともちょっと仲良しなんです」
 深知留は淡々と答えながら、残ったケーキを冷蔵庫に入れるため箱にしまっていく。
 その時だった。
「ねえ深知留……実は俺、明日仕事休みになったんだ。出張も行かない」
「……え?」
 やや控えめに言った環の言葉に、深知留はその手を止める。
「それ、今なら断れない?」
 環は意地悪だと思いながら、深知留の頬をそろりと撫で
「クリスマス、君と一緒にいたくて休みをとったんだ」
 押しの一言を伝える。
 そう言えば、深知留が応えてくれる……そんなあてにならない自信が環の中にはあったから。
 案の定、
「うーん……」
 深知留はすぐに難しい顔をした。正直なところ一瞬、蒼に断ろうかとも思ったから。
 環との初めてのクリスマス――深知留だって一緒に過ごしたくないわけはない。
 けれど……
「ごめんなさい……環さん。わたしやっぱり……一度、約束しちゃったから……」
 深知留はそう言って項垂れた。
 彼女にすれば苦渋の選択だった。
 環が休みだというのを電話の前に知っていれば断ることも出来たが、切羽詰まった様子で縋ってきた幼馴染みを無碍にすることはできない。それも一度受けたものを断るなど、責任感の強い深知留には無理なことだ。
 そんな風にすっかり俯いてしまった深知留を見ていた環は、段々と良心の呵責を感じ始めていた。
 彼女を困らせているのは自分のつまらない我が侭――それを十分に理解していたから。
 深知留には深知留の生活や事情がある。それら全てを自分の思うように動かせるわけではないし、そうしようと思ったら大間違い……そんなこと全部理解しているのに、それでも、この時の環はエゴを深知留に押しつけたかった。それが大人げないことだということもよく分かっていたし、深知留がこんな風に困るのも分かっていた。それでも言わずにいられなかったのだ。
 どうしても、今この瞬間――恋人として幼馴染みには負けたくなくて。
 深知留自身に問うてみれば、そもそも二人は別物で同じ土俵にも乗っていないのかもしれないが、この時の環には妙な対抗心があった。
 しかし、環も一応は大人だ。深知留には理解のある優しい人で通っている。さらに、今はまだ彼も理性を十分に持ち合わせていた。
 だから、
「わかったよ。先に言わなかった俺が悪い。明日は深知留の帰りを待ってるよ」
 環はそう言って、もう一度深知留の頬を撫でてやる。ここが引き際だと弁えて。
 すると、深知留は「なるべく早く帰りますから」と微笑んでくれた。
 この時、環は思っていた。
 今もしも、自分に理性という安全装置が作動していなかったら……
『幼馴染みと恋人と、どっちが大事?』
 そんな衝動に駆られた小娘のようなことを言ってしまったかもしれない、と。








「何を……してるんですか?」
 翌朝、政宗は常務取締役室の入り口で一瞬その目を疑った。
「おはよう。何って……仕事だ。してたら悪いか?」
 そう答えたのはもちろん環。見間違うはずもない環本人。
 今朝一番で部下から「常務のお部屋……開いてるんですけど」という報告が入り、何事だと見に来たら本人がいたというわけである。
 が、その本人は今日ここにいるはずがない。
「散々、駄々を捏ねて今日休むって言ったの、どこの誰でしたか?」
 そう。この数日前、環は何が何でも今日は休むといって聞かなかった。
 大事な出張があるから駄目だというのに、「クリスマスは休む」とどこかの小学生並みの我が侭を言ったのだ。
 その理由を環が政宗に言うことはなかったが、大方深知留と一緒にいたいとか、デートしたいとかそんなしょうもない事だろうと予測はついた。
 だから政宗は駄目だと言った。
 ついこの間、海外出張先からとんぼ返りされた時だって後始末が大変だったというのに、二度も我が侭が聞けるかと。
 それ故に、到底終わらない量の仕事を押しつけて政宗は言ってやった。「これが終わったら考えます」と。
 するとあれよあれよと言う間に環はそれらをやってのけたのだ。そりゃもう流石の政宗も驚いた。だって、別に環は徹夜なんてしてない。時間内で効率よく仕事をこなし、定時になれば電光石火の如く帰っていくのだ。
 もちろん、仕事の出来も決して雑ではない。与えられた物は全て及第点を優に越えて仕上げられていた。
 結局政宗は環の要求を呑まざるを得なくなり、彼に本日の休暇を許可した訳だ。本当は「考えると言ったから考えましたがやっぱり駄目です」と言ってやろうかと思ったが、それでは枯れて死んでしまいそうな勢いだったから仕方なく。
 そうまでして休みを取ったはずなのに……
「随分な言われ様だな。別に、ただ気が変わったから出てきただけだ」
 環は書類を両手に持ちながら、何食わぬ顔で答えた。
 しかし、それでピンと来た政宗は、
「振られたんですね。深知留さんに」
 そう言ってやった。
 もちろん、「振られたんですか?」とは聞いてやらない。こうして仕事をしているということは、振られたに決まっているから。だから断定系だ。
 と言っても、深刻な意味での“振られた”ではもちろん無い。だとしたら、こんなに元気ではないし、そもそも仕事には出てこず引きこもるに決まってるから。
 きっと、せっかく仕事を休んでデートに誘ったのに、深知留は深知留で既に用事を入れていて、しかも彼女は一度交わした約束をいくら恋人のためとはいえども断れるタイプではないので、敢えなく環が玉砕したというところだろう。
 だが、
「別に、そういう訳じゃない。彼女も忙しいから夜に約束を変えただけだ」
 環も認めなかった。
 だから、政宗は重ねて言ってやる。
「つまり、昼間は振られたんですね。せっかく頑張って休みを取ったのに……。世の中、そう上手くはいかないものですよ、環様」
「お前……俺に喧嘩売ってるのか?」
 すっかり図星を指された環は不機嫌そうに書類から顔をもたげる。
「いいえ、そんなつもりはございませんよ。では、出勤されたのですから働いていただきますかね」
 政宗は「仕事を用意してきます」と言って、役員室を出て行った。