急なことで呼吸もままならず、深知留は思わずドンドンと環の胸を叩く。
 すると、彼は意外にも簡単に唇を外してくれた。
「環さん……どうしたんですか?」
 深知留が驚いたように問いかければ、環は項垂れるようにその額を深知留の肩口に押しつける。
 それからしばらくの沈黙が続き、
「ごめん……今、少し、余裕が無かった……」
 そんな小さな謝罪が環の唇から零れた。
「環さん?」
「君が、あまりに“蒼”って連呼するから、つい……俺にも意識を向けて欲しくて」
 えらく素直に白状した環に、深知留は思わず目を丸くする。
 そして、
「もしかして……それって、ヤキモチですか?」
 深知留が尋ねれば、環はさらに強く額を押しつけ返事をしない。
 だが、深知留はそれを了承と取る。
 彼女の中で思い返されるのは、昨日からどこか様子のおかしい環。深知留の予定をどこか気にしているような、無理を言って取りやめさせようとするような……いつもの余裕たっぷりな様子とは少し違う環。
 それが今全て“ヤキモチ”という一つの単語で納得が行く。
「蒼は、単なる幼馴染みですよ」
 事の次第を把握した深知留が環を落ち着かせるように言えば、
「……分かってる」
 すぐにそんな台詞が環から返ってきた。だがそれに続くのは、「でも……」という逆接の言葉。
「分かってるよ。華宮さんが君の兄弟みたいな存在だって事も、嫉妬の対象にするべき存在でないって事も……だけど、深知留が彼のことを何でも知っていて、嬉しそうに喋る姿が何だかとても羨ましかったんだ。それに、少しだけ……口惜しかった」
 相変わらず俯いたまま環の口から語られるのは彼の本音。
 深知留はそれに静かに耳を傾けている。
「勝負をする相手でないのも分かってる……なのに、彼には絶対勝てないような、そんな気がしたんだ。ごめん……本当に俺の勝手な嫉妬。見苦しいね」
 言い終えて、環は深い溜息を吐く。
 男の嫉妬は見苦しい――昔、どこかでそんなフレーズを目にしたことがある。
 確かにそうだと思う。女のそれは適量を弁えれば、可愛くもあり、魅力にもなる。しかし大の男がそれをしたところで、子供っぽさを助長するだけでなく、あまり見られたくないような弱さを晒け出すようなもの。
 そして環は今、さらなる後悔をしていた。
 自らが嫉妬をしてしまったのは紛れもない事実であり、だからこそ、それを素直に認めて深知留に懺悔をしたものの、これで深知留に引かれてしまったらどうしようという恐れ。
 それから少しだけ環は待ったが、案の定、流石の深知留も呆れてしまったのか何も言ってくれなかった。
 その事実に環はさらに深い溜息を吐きたくなる。
 が、その時、深知留は徐に環の背に手を回してポンポンと優しく叩いてくれた。
 続けて紡がれるのは、
「そんなこと、ないですよ」
 予想外な優しい言葉。
 深知留はその手を環の両肩へ移動し、それを優しく押して彼の顔を上げさせようとする。
 だが、
「ごめん……今、余裕のない情けない顔してるから勘弁して」
 環は振り切るように深く深知留の肩口に顔を押しつける。
 しかし深知留も譲らない。
「それなら余計見ちゃいます」
 深知留は一度悪戯っ子のように微笑むと、問答無用に環の頬を両手で挟んでグッとあげる。
 環はそれに抗うことが出来ず、深知留と視線が合ってしまう。
 それでも視線だけは逸らそうと思えば、
「好きですよ……」
 そんな言葉に、環の視線は深知留へ繋ぎ止められる。
「……深、知留?」
「好きです……環さんのそういう余裕のない顔」
 不思議そうな表情を見せる環に、深知留は優しく微笑みかける。
「いつも見せてくれる、余裕たっぷりな大人な表情も良いですけど、余裕のない顔も実は好きです。だって……」
 深知留はそこまで言うと環の耳元へ顔を寄せ、
「それが見られるの、わたしだけの特権でしょう? ……ううん、わたしだけの特権にしてください」
 まるで内緒話のように囁いた。
 恋人に強さで守られる事は確かに幸せを感じるし、嬉しいことでる。しかし、恋人が誰にも見せない弱さを見せてくれるからこそ、また、それを自分だけが癒してあげられるからこそ、さらに深い幸せを感じられるのだと深知留は思っていた。
 だからこそ、今のような情けない環を見ても、深知留は呆れるどころか喜びさえ感じていた。環をもっと深く知ることができた気がして。
 それから深知留は、環の額に自らのそれをコツンと当てる。否が応でも環の視線と深知留のそれが合う。
「それにね、わたしが弱い部分を見たいと思えるのも、それを癒してあげたいと思えるのも……この世で環さんだけですよ」
 そう言ってニコリと笑った深知留の顔は可愛くて、そして愛おしくて……その時、環はもはや感情を抑えることができずに勢いに任せて彼女を強く抱きしめた。
「キャッ……」
 そんな可愛らしい悲鳴が深知留の唇から漏れた時には、彼女の体は環にスッポリ包み込まれていた。
 深知留のたった一言――それで環は今この瞬間、何だかとても救われた気がした。自分の中にあった寂しさを深知留がすっかりと埋めてくれた気がして、今まで一体何に嫉妬をしていたのかも分からなくなる。
 勝ったとか負けたとか……そんな風に表現してはいけないし、それが間違ったことであるのは百も承知であるが、今この時は、環は恋人として幼馴染みに勝てたような、そんな気分だった。
「ありがとう、深知留」
 環は深知留の額に優しく口付ける。
 そして、先ほどとは逆に今度は深知留の耳元へ自らの顔を寄せると、
「ねぇ、深知留。俺も、君の余裕のない顔が見たいんだ。できれば、今すぐ」
 やはり深知留と同じように内緒話のように囁く。すると、それに比例するように、深知留の耳は赤く染まる。
 環が何を言わんとしているのか、もはや分からない深知留ではない。
 そんな深知留に環が、
「だって、それは俺だけの特権だろう?」
 そう言い添えてやれば、彼女は恥ずかしそうに頷いた。
 それからゆっくりと近づいた環の顔に深知留は静かにその目を閉じる。
 ちょうどその時、窓の外ではいつの間にか白い物が舞い始めていた。それはまるで、聖なる夜を天が祝福するかのように。
 
 Merry Christmas――汝に幸あれ


−おわり−
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