ガチャリ………
藤乃の言うように、渡された鍵を使うとそのドアは開いた。
由利亜はゆっくりと恐る恐る扉を引く。
次の瞬間だった。
(――――!!)
由利亜は思わず息を呑んだ。
(これ……わたしの……)
淡いスタンドライトでライトアップされた部屋には、由利亜が今朝まで使っていた調度品が全て設置されていた。それはまるで初めからそこにあったかのように部屋にうまく馴染んでいる。
部屋の中央に置かれたソファにはあの青色のリボンを首に巻いた熊がちょこんと座っていた。
由利亜は驚きつつも好奇心に駆られてそのまま歩みを進め、部屋の最奥までやってきた。
そこにはドアが一枚あった。
『両端が旦那様と奥様のお部屋で、中央がベッドルームだったのですよ。構造的には、それぞれのお部屋からベッドルームへの通用口があるんです』
まだこの屋敷で暮らし初めて間もない頃、藤乃が教えてくれたことを由利亜はふと思い出した。
そして、先ほどと同じようにノブに手をかけてゆっくりと開く。
開かれたそこは案の定、広いベッドルームだった。
そこにはキングサイズの天蓋付きベッドが中央に配置されており、その他、豪奢な作りの鏡台とそれと対の椅子が置かれていた。
部屋の明かりはベッドサイドにある手元灯が付けられているだけで、それが放つ蜂蜜色の光が部屋や調度品を上品に照らし出している。
淡い光の中、目をこらしてみると窓辺には小さなテーブルが置いてあり、そこには両手で抱えきれないほどの花が飾られていた。
その花に興味を持った由利亜は今度はそのテーブルまで足を進める。
そして由利亜がその花の一つにわずかに触れた時だった。
「お帰り、由利亜」
知っているぬくもりが由利亜の背中を優しく包み込んだ。
「良かった。帰ってきてくれて」
「蒼さん……これは?」
由利亜はただいまを言うより先に蒼に説明を求めた。
「お誕生日おめでとう、由利亜。遅くなったけど、この部屋は俺から由利亜へのプレゼントだ」
蒼は由利亜の耳元でそっと囁いた。
「このお部屋を?」
「そう。驚いた? 本当はもっと早く準備してやりたかったけど、今日まで俺の予定が開かなくて……それで、深知留に頼んで由利亜を連れ出してもらったんだ。屋敷にいるとバレるからな。それもつまらないだろう?」
由利亜は徐に後ろを振り返った。
「もしかして、蒼さんの朝から大事な用事って……これのことですか?」
するとそこにはいくらか体裁の悪そうな顔をした蒼がいた。
「もしかしなくても、大事な用事、だろう? 年に一回しかないお前の誕生日だぞ?」
「だって朝は仕事に行ったんじゃ……」
「行ったよ。由利亜が出かけたのを見計らって戻ってきたんだ」
「じゃあもしかして、もしかすると……これ蒼さんが全部一人でセッティングしたんですか?」
「それは無理。流石に大物は業者を頼んだけど、デザインは全部俺が専門家と相談してやった。由利亜の好みに合うように仕上げたかったからな。……結局、ついさっきまでかかったけど」
蒼はそう言って少し照れくさそうに微笑んだ。
そんな蒼は何だか可愛くさえあった。
「でも……由利亜へのプレゼント、って言ったけど、本当は俺のためでもあるんだ」
蒼は突然、その表情をとても真剣なものへと切り替えた。
「蒼さんのため?」
由利亜は蒼の意味することが分からずに、その首を軽くかしげた。
「そうだよ。俺のため。……仕事が忙しい分、家に居る時はできるだけ由利亜と一緒にいたいんだ。ワガママだってのは分かってるけど……できることならお前とあまり離れたくない。一緒に、いてくれるか?」
蒼はその真剣な眼差しで由利亜を見つめた。
そして彼女の答えを静かに待つ。
すると、由利亜は答える代わりに飛びつくように蒼に抱きついた。
「由…利亜?」
蒼は驚きながら由利亜を抱き留める。
気づけば由利亜の小さな肩がわずかに震えていた。
「由利亜……泣いてるのか?」
「…………」
蒼は由利亜の肩をそっと撫でてやったが、小刻みな震えは止まらない。
「……泣くなよ。俺はお前に泣かれるとどうして良いか分からない。……どうした? 突然。……まさか、一緒に居たくないなんて、そんなこと言うなよ?」
全く的はずれな心配をする蒼に対し、由利亜は彼の胸の中でふるふると首を振った。
「……そんなこと、言うわけ無いじゃないですか。わたし、嬉しいんです……すっごく。怖いほど、嬉しいの。ありがとう……ありがとう蒼さん……」
もっと他に感謝を伝える言葉があるならば、由利亜はそれを知りたかった。この時の由利亜はそのくらい全身で嬉しさを感じていた。
「わたしも……ずっと蒼さんの傍にいたい」
誕生日というこの日を、一緒に過ごせればそれでいい……そう思っていた由利亜にとって、部屋を贈ってくれたことはもちろん、蒼が傍にいたいと言ってくれたことが今は何よりのプレゼントだったのだ。
(蒼さんは……毎年わたしの欲しいものを贈ってくれるんですね)
由利亜は蒼に抱きつく腕にギュッと力を入れた。
「じゃあ顔を上げて、由利亜。もう一つプレゼントがあるから」
蒼は一度由利亜の体を自分から離すと、すっかり涙で濡れてしまった彼女の頬を優しく拭った。
そして、ポケットからネックレスを一本取り出して見せた。
それにはターコイズでできた青い百合のチャームが付いていた。
「十二月の誕生石はターコイズだろう?ターコイズは不思議な石で、人から貰うと幸せになれるんだって。由利亜が今よりもっと幸せであるように……」
蒼はそう言って由利亜の首にそのネックレスを飾り付けた。
「十八歳の誕生日おめでとう、由利亜」
蒼の優しげで柔らかい笑顔が由利亜の視界を占める。
「もう、十分幸せですよぉ……」
感情のコントロールが利かなくなっているのか、由利亜はまたポロポロと涙をこぼした。
「泣くなって言ったろう?」
蒼は困った顔をしてくしゃりと由利亜の頭を撫でた。
「だって……」
由利亜はそれ以上は言葉にならずに再び蒼の胸で涙を流した。
蒼の体温は相変わらず心地よくて、由利亜はとても安心した。
「あのね、蒼さん……」
由利亜がポツリと言葉を漏らしたのはひとしきり泣いてからのことだった。
「わたし……半分嘘吐きました……」
「嘘?」
「あのハートのネックレス……贈ってくれたのは京です。基さんと一緒に選んだだけで、本当は京からのプレゼントなんです」
由利亜がゆっくりと話し始めたのを、蒼は静かに聞いていた。
「あの時、蒼さんがわたしの誕生日忘れてるのかと思ったら寂しくて……ワザと意地悪しちゃいました。……ごめんなさい」
自分の言動に後悔をし、俯き加減に謝罪の言葉を述べる由利亜の背を、蒼は「わかったよ」とでも言うように優しく叩いた。
そして由利亜の額に蒼の唇がわずかに触れた。
「蒼……さん?」
由利亜はゆっくりと蒼の顔を見上げた。
「もういい。言葉の足りなかった俺が悪いから。……まんまと引っかかって嫉妬したよ。それよりも、俺がお前の誕生日を忘れるわけがないだろう? 何を忘れてもそれは絶対忘れない」
そう言った蒼は由利亜の首に飾られた百合のチャームに視線を向けた。
「由利亜……この百合に俺が込めた意味、何だか分かるか?」
「百合の花言葉はちょっと……」
由利亜は困ったように言葉を濁した。
「花言葉じゃない。アオイユリ……だよ。俺と由利亜がずっと一緒にいられるように、な」
「…………」
アオイユリ……
アオイとユリア……二人がいつまでも一緒にいられるように、願いを込めて……
二人の間にしばらくの沈黙が続いた。
由利亜は何も言わずに百合のチャームを握りしめていた。
やがて、居たたまれなくなった蒼はフイッとその背を向けてしまった。
「そんな意外って顔、することないだろう。どうせ、乙女趣味とか言って笑う……」
「蒼さん……大好き」
由利亜は蒼の言葉を遮った。そして、その背中にしっかりと抱きついた。
蒼がそれにゆっくりと振り返る。
そこには蒼が好きな由利亜の輝く笑顔があった。
「わたし蒼さんを好きになって良かった。蒼さんがわたしの旦那様で良かった。……大好きですよ、蒼さん」
由利亜はもはや言葉では足りずに、そのまま背伸びをして蒼の唇にキスをした。
瞬時に顔を綻ばせた蒼はそれにお返しをするように由利亜の唇に優しくキスを落とす。
繰り返されるキスは次第に深くなる。
単なる啄みのキスから、貪るようなキスへ……
「……ン…ふ……ぁ……」
キスの合間に由利亜の扇情的な声が漏れる。
キスだけでは足りないとでも言うかのように、いつの間にか二人の手が重なり合い、求め合うように絡み合う。
由利亜は蒼を離さないよう、その手をギュッと握りしめた。蒼も返事をするように由利亜の手を愛おしそうに握りしめる。
それからお互い飽きるほどに何度もキスを重ね、やがて由利亜の体はベッドへと沈んだ。
蒼はしばらく何をするでもなくそのまま由利亜を抱きしめていた。
由利亜は由利亜で、予測される次の事態にその身を固くして待っていた。
この状態から予測されること――いくら鈍い由利亜でもそのくらいは分かった。
怖くない訳じゃない。
でもこの人なら、蒼ならいいと由利亜は思っていた。
婚姻届にサインをしてから早半年、別々の部屋を使っていたせいもあるが蒼はこれまで由利亜に手を出そうとはしなかった。そりゃ、一応夫婦なワケだし今日のような大人なキスくらいは何度も交わした。それでも、それ以上の関係はまだだった。
それも今日で終わり…………
由利亜は覚悟を決めて、蒼の背中に回した手に力を込めた。
はずだったが、
それから数分後……
自分を抱きしめたまま気持ちよさそうに寝息を立てる蒼に由利亜は気づく。
蒼はすっかり寝てしまったらしかった。
「蒼さん……?」
由利亜は何度か呼びかけたが、彼が起きる気配は無い。深い深い眠りに落ちているようだ。
それも無理はなかった。
今日のこの日を一日丸々開けるために数週間単位で睡眠時間を削って仕事をこなしてきた蒼。そして今日は朝から引っ越し業者よろしくの肉体労働……彼の体力は限界だった。
抱きしめる由利亜の体温が心地よくて、柔らかくて、それを少しの間堪能しようとした蒼は薬でも盛られたかのように安心して眠りに落ちてしまったのだ。
「蒼さん……お疲れ様ですね」
蒼の寝顔を見ながら呟いた。
あれから、由利亜は蒼の腕を静かにすり抜けて、眠ってしまった彼にブランケットを掛けてやった。
今はベッドサイドに腰掛けて蒼の寝顔を観察中である。
今ならどんな悪戯をしても起きないのではないかと思うくらい蒼はよく眠っていた。現に、由利亜は蒼の手をずっと握っていたが少しも起きる気配はない。
そんな由利亜のもう片方の手にはテーブルの花瓶に飾ってあった花が一輪持たれている。
「今年は胡蝶蘭じゃなくてストックですか」
由利亜は手に持ったストックを愛おしそうに見つめた。
「確か胡蝶蘭は『あなたを愛しています』でしたよね?」
答えはないと分かっていたが、由利亜は蒼に尋ねた。
つい最近、由利亜はその花言葉を知った。
毎年毎年贈られてきた胡蝶蘭の花……もしかしたら何か意味があったのかもしれないと思い立った由利亜はそれをこっそり調べたのだ。
花言葉は『幸せが飛んでくる』そして『あなたを愛しています』。
由利亜はすぐに後者に目が行った。
そうしてしまうのは少し自信過剰な気もしたが、それでも蒼は後者の意味で自分に胡蝶蘭を贈ってくれたのだと由利亜は信じていた。
そして少しだけ、今年は何の花を贈ってくれるのだろうと楽しみにしていたのだ。
また同じように胡蝶蘭か、それとも別の花なのか……
「ストックの花言葉は何でしょう? ……起きたら教えてくださいね。蒼の傍に、由利亜はずーっといますから」
由利亜は握った手にそっと力を込めて蒼に微笑みかけた。
その時、蒼がわずかに笑った気がしたが、彼は未だ気持ちの良い夢の世界である。
◆◆◆
ストックの花言葉は『永遠の恋』。
それが伝えられるのは翌朝のこと。
言わずもがな、酷く自己嫌悪に陥った蒼の口からそれは伝えられる。
そんな蒼に由利亜は笑いながら言った。
「ひと晩寝ちゃったくらいでなんですか。これから嫌だって言われてもずっと一緒ですよ。毎晩ね」
蒼にとってそれは両手を上げて喜ぶほどに嬉しい誘い文句であったが、鈍い由利亜にその気がないことはもちろん言うまでもない。
−おわり−