第1話
それは世間がクリスマス色に染まりきり、イブまであと数日という日のこと。クリスマスソングがBGMに流れる街中での出来事だった。
「う、そ…………」
それを見た時、西條琴莉は無意識に両の拳を握りしめ、奥歯を噛みしめ、そして眉間には深い皺を刻んだ。
それは傍目から見れば相当に酷い表情だっただろう。
でも、そんなことも気づかないほど、どうでも良いほど琴莉は視界に入っているモノに心を奪われていた。
それは仲良さそうに寄り添う一組の男女。
そのうちの男の方を琴莉はよく知っていた。否、よく知っているどころの話ではない、彼は七歳上の琴莉の幼馴染み門倉瑛斗。そして、琴莉が昔から思いを寄せている相手。
瑛斗の隣にいるのは……綺麗な女性。長くウェーブの掛かった髪を揺らしながら瑛斗の腕にしがみつく女性。琴莉の知らない女性だった。
◆◆◆
琴莉はカーテンを全て閉め切った薄暗い部屋の中、無気力にベッドの上に転がっていた。
あれから……瑛斗たちを見てから、どうやって家に帰ってきたのか琴莉は覚えていない。気が付いたら玄関を開けて、気が付いたらこのベッドの上にいた。
本当なら今頃、琴莉は通っている大学で選択科目の講義を受けているはずだった。欠伸出そう、なんて思いながら教壇に立つ教授の話に耳を傾け、試験対策用にノートにシャーペンを走らせ……そんないつもと変わらな日を今日も送っているはずだった。
なのに教授の急な出張で休講になり、琴莉の予定は変更した。暇を持て余した琴莉はまだ家に帰るには早すぎるからといつもと違う駅で下車し、クリスマスの街中を少しウィンドウショッピングでもして帰ろうと思った。
その矢先に……先ほどの出来事だ。
最初、瑛斗だけを視界に捕らえた琴莉は休講に感謝さえして「お兄ちゃん!」と声を掛けて思わずそこから駆け出しそうになった。仕事の外出中なのだろうか、珍しいところで会うものだと思いながら。
しかしその隣に女性の姿を確認した瞬間、琴莉は踏み出そうとした足を止めた。いや、止めざるを得なかったし、それどころか琴莉は気づいた時には物陰にその身を隠していた。
なぜなら、彼女が愛おしそうに瑛斗の腕に絡みついたから。対する瑛斗も、それを優しげな微笑みで受け入れたから。
一瞬、何が起こったのか琴莉は理解できなかった。
いや……本当は今でも理解できない。むしろ、理解したくなかった。
自分だけのものだと思っていたお兄ちゃん――瑛斗に恋人がいたなんて…………
琴莉と瑛斗の家は隣同士。そして両親同士が仲が良かったので琴莉は生まれた時から瑛斗と一緒にいた。瑛斗には二つ違いの姉、有瑛がいて、琴莉はいつも彼らに遊んでもらっていた。お兄ちゃん、お姉ちゃん、と本当の兄姉の様に慕って。
それが恋心に変わるのには、大して時間がかからなかった。保育園に行っている時から琴莉の口癖は「将来の夢はお兄ちゃんのお嫁さん」だったし、小学校の高学年に差し掛かる頃にはもうお兄ちゃんが完全に恋愛対象だった。
当時高校生だった瑛斗はそこそこ女子から人気があった。だから、バレンタインデーの時など瑛斗がチョコレートを持ち帰ると『お兄ちゃんには、わたしだけがチョコあげたいのに』と思っていた。でも、今日ほど嫌だとは思わなかった。
高校生の時には、瑛斗の部屋で偶々可愛いクマのキーホルダーを見つけたことがあった。最初は有瑛のものかと思ったけれど、そうではなくて……その時も確かに琴莉の胸はチクリと痛んだが、やはり今日ほどではなかった。
では、なぜこんなにも今日は嫌な思いを抱いたのだろうか……琴莉はなんとなくだけれど、その理由を分かっていた。
そう、琴莉は今日初めて“実物”を見たからだ。
今まではチョコレートだったり、キーホルダーだったり……仄めかし程度でしかなかった“瑛斗の彼女”という存在。それを今日はしっかりとこの目で見てしまったのだ。それも、瑛斗に甘えそれを受け入れる彼自身も。
だけど、それを止める権利など琴莉には無い。
だって琴莉は瑛斗にとって単なる幼馴染みでしかないから。思いを寄せているのは琴莉の勝手な都合。
ただ、昔から「好き」と瑛斗に言っても拒否をされたことはなかったし、はっきり恋人がいると言われたわけでもなかったから琴莉は何か誤解をしていたのかもしれない。瑛斗は自分のモノなのだと。
でもそれが間違いだったと今日思い知らされた気分だった。
思い返してみれば、いくら自分が「好き」と瑛斗に言っても、彼は確かに拒否はしなかったが本気で相手にしていなかった様に思える。子どもの戯れ言としか思っていなかったのだろう。
琴莉がいくら思いを寄せても、瑛斗にとって琴莉は所詮妹という存在なのだ。それは昔から変わらない。
ベッドの上、薄暗い天上を見つめながら琴莉は再び先ほどの事を思い出す。
(美人さん……だったな)
それが琴莉の正直な感想。
容姿の整った瑛斗と並んでも少しも引けを取らなかった。所謂、大人の美男美女カップルというやつだ。
(それに比べてわたしは……)
顔も背も十人並み。歳はこれでももうすぐ二十歳だが、そうは見えないくらい童顔で子どもっぽい。瑛斗と並んでも妹にしか見えない。
そもそも、先ほどの彼女と自分を比べることさえ烏滸がましいのだと琴莉は思った。
不意に琴莉は自分の胸に手を置いた。少し力を入れればそれはふにっと形を変える。
(あの人……胸も大きかったな……)
対する琴莉のそれは普通より小さい程度の膨らみ。
何だか彼女を思い出せば出すほど自分の欠点ばかり気づいてしまい、琴莉は無性にやるせなくなった。
そのまましばらく意味もなくベッドの上でゴロゴロと寝返りを続けていた琴莉。無意識に唇を噛み締めると、ふと自分の唇がガサガサであることに気づいた。
琴莉は足下に置いたままの鞄を徐に引き寄せると、中から常用している薬用のリップクリームを取り出す。それを唇に乗せた時、琴莉は何かを思い立ってゆっくりと起きあがった。
向かう先はベッドの足下にある鏡台。そこの一番上の引き出しを開けると、琴莉は一本の口紅を取り出した。
それは以前お姉ちゃんから貰ったもの。有瑛が自分で買ったのと人に貰ったのと被っちゃったから、と貰ったのだ。合コンに行く時にでも使って、と。
とある有名ブランドのそれは、大人っぽいピンク色だった。貰ったその日に琴莉は一度だけそれを塗ってみた。結果は……惨敗という表現が相応しいものだった。
まるで七五三の化粧。琴莉は普段のメイクも必要最低限なので、何となく似合わないだろうという予測はしていた。それでもショックだった……。だから、もっと大人になってから使おう、そう決めて琴莉は口紅を引き出しの奥に閉まったのだ。
取り出した口紅のキャップを開け、琴莉はその芯を少しだけ出す。
それは記憶と同じ綺麗なピンク色。それに重ね合わせるのは、先ほどの彼女の唇――グロスでツヤツヤしていた。「瑛斗くん」と名を呼んだ唇は見とれるほど色っぽかった。
それに少しでも近づきたくて……琴莉は口紅をその唇に刷く。
だが、
琴莉はすぐにその手を止めた。
下唇に乗せられたピンク色――それがあまりにも不自然だったから。
以前は駄目でも今度は、という琴莉の期待も虚しくそれは似合わなかった。鏡に映る自分は滑稽で、記憶の中の彼女に近づくどころか遠ざかった。
琴莉はなんだか口惜しくてティッシュで唇を乱暴に拭う。そして、最初に立ち返ってリップクリームをその唇に塗った。
子どもっぽい自分には薬用のリップクリームが似合いだと自嘲めいた思いを抱きながら。
そして、琴莉はまた元の様にボスッと体をベッドに投げた。
(お兄ちゃんて……大人の女の人が好きだったんだね。口紅も似合わない子どもっぽいわたしなんてお呼びじゃない……)
思うのは卑屈なことばかり。
(こういうのも、一種の失恋って言うのかな……。世の中、クリスマス前なのに……わたしって間抜け)
心はみるみる荒んでいき、ひび割れて痛みまで感じそうだ。
(リップクリームみたいに……心にも塗れば治るモノがあればいいのに)
琴莉が唇を噛み締めながらゆっくりと瞼を閉じれば、いつの間にか溜まっていた涙がほろりと枕に零れ落ちた。