第2話

 それからどれ程経った頃だろうか、辺りがすっかり暗くなった頃、部屋のドアがドンと音を立てたかと思えば「おい、ねーちゃん! いねーの?」と弟が部屋の外から声を掛けた。
 しばらくは無視を決め込んでいたが、あまりにも呼び続けるものだから琴莉はベッドから起きあがることもせず「何?」と不機嫌そうに返事をする。
「ねーちゃん、夕飯何する? 母さん、金置いてったけど何か取る?」
 問われた言葉に、今夜は両親がいないことを琴莉は思い出した。父の有休が取れたとかで夫婦で温泉に行ったのだ。
 ふとベッドサイドの時計を見れば確かに夕飯の時間だが、今の琴莉は食事なんてどうでも良かったしそもそもお腹も空いていない。
「……わたしいらないから、好きにして。それと、調子悪いから起こさないで」
 琴莉は必要と思われることを告げるとバサリと布団を目深に被った。
 それからすぐに「わかったー」という返事とともに弟が階段を下りて行く音が聞こえた。
 こういうのが子どもっぽい行為だと……琴莉は分かっていた。それでも、今この時はどうしようもなかった。


 ◆◆◆


 そのまま、琴莉は少し寝てしまった様だった。
 次に気づいた時にはベッドサイドの時計が夜の九時を過ぎていた。
 寝て起きても琴莉の気分が晴れるわけではなく、余計に重くなった気さえした。
 百歩譲って――本当は嫌だけれど――瑛斗に恋人がいることを納得したとしよう。だが、今後のことを考えれば琴莉の気持ちは沈み込むばかりだ。
 失恋をしてしまったこの先、琴莉はどんな顔で瑛斗に会って良いか分からなかった。というより、平静を装える自信がないのだ。
 仲の良いお隣さんというのはこういう時に不都合極まりない。普通は避ければ済む話も、きっとそうもいかないから。
 本来なら今回の件は琴莉が勝手に見て勝手に失恋しただけなのだから、普通に今まで通り何もなかった様に過ごせば良い。しかし、琴莉にはそうする自信がなかった。元々嘘が苦手な琴莉が顔に出さずにいられるわけがない。
 だったら、この際「お兄ちゃんが彼女といるとこ見ちゃった。お幸せにね」とでも言って軽く流せばいいのだろうが、普通に過ごすのも無理なのに、そんな器用な芸当は到底無理だと琴莉は思った。
(しばらくは、お兄ちゃんと会わないようにしよう……。ていうか、むしろ消えちゃいたいくらい……)
 琴莉は一つ大きな溜息を吐いた。
 その時だった。
 コンコン……
 部屋のドアが少し控えめにノックされた。
 弟には先ほど起こすなと言ったはずなので、琴莉は無視をする。
 しかし、
 コンコン……
 再びノック音が聞こえた。
「うるさい! 起こさないでって言ったでしょう?」
 琴莉は起きあがり、少し強い口調で言ってしまう。それが八つ当たりだと自分でも分かるほどに。
 すると、
「なんだ……琴莉、起きてたのか」
 返ってきたのは予想外の声。
 琴莉がマズイと思う間もなく、部屋のドアは当たり前のように開かれる。
 入ってきたのはそう、琴莉が今一番会いたくない人物――瑛斗だった。
 何でこのタイミングで……と琴莉は泣きたい様な気分でベッドの上で膝を抱えて座り、頭から布団にくるまっていた。例え無理矢理にでも、今は瑛斗には会いたくなくて。
 誠に残念ながら、近しいお隣さんというのはこういう突然の訪問もありうるのだ。だから、避けようがない。
 それも、いつもであれば喜び勇んで迎えるだろうが、今日この時に限っては琴莉にとって拷問以外の何物でもなかった。
 そんな琴莉の事情も露知らず、瑛斗はベッドサイドの灯りを付けてベッドに腰掛ける。
「……どうしたの? お兄ちゃん、何の……用?」
 こうなれば一刻も早くここから立ち去って欲しいと、琴莉は背を向けたまま用件を尋ねる。
「ん? ちょっとな。それより、お前調子悪いんだろう? 夕飯も食べてないって、さっき聞いた」
「少し……頭が痛いだけ」
「風邪でも引いたか? 熱は? お前、昔から風邪引くとすぐ扁桃腺が腫れるだろう? 大丈夫か?」
「…………」
 いつもは嬉しい瑛斗の心配も、今日の琴莉には苦痛でしかなかった。
 聞けば聞くだけ、瑛斗の優しい心配が妹に対するものにしか思えなくなる。どうせあの女の人に対してならもっと別の心配をするのだろうと、考えなくていいことまで考えてしまう。
「琴莉、ちょっと顔見せてみろ」
 返答のない琴莉に不安になったのか、瑛斗はスッポリとくるまった布団をめくろうとする。しかし、琴莉はそれはならないと布団をきつく掴む。
 今自分がろくな顔をしていないのは分かり切っていた。泣きながら寝たし、口紅も乱暴に拭ったままだし……何より、瑛斗にあの綺麗な彼女と自分を比較されるのが琴莉には耐えられなかった。
 しかし、所詮男の力に敵うわけもなく布団は無惨にも剥ぎ取られる。
 だから琴莉が咄嗟に手で顔を覆おうとすれば、その手も封じられた。
「お前……泣くほど酷いのか?」
 覗き込む瑛斗に琴莉はその顔を背ける。
「病院行くか? 夜間救急なら今から行けば……」
「大丈夫……何でもない」
「これが何でもないって顔じゃないだろう? そんな涙目で、熱があるんじゃないのか?」
 琴莉の気持ちなど差し置いて、瑛斗はその額に手を当てる。
 瑛斗の温かいそれを琴莉は昔から知っている。いつもは安心するそれも、今日ばかりは嫌でたまらなかった。あの綺麗な女性に触れた手だと思うと尚更に。
 だから、
「何でもないって言ってるじゃない!」
 琴莉はその手を振り払ってしまった。
「…………」
 一瞬、驚いた様な瑛斗の表情が琴莉の視界に入る。
 これも明らかに八つ当たりだと思うが、後の祭り。
「……用事は?」
 琴莉は瑛斗からあからさまに視線を外して呟く様に尋ねる。
「お兄ちゃん……何か用事があって来たんでしょう? 何?」
「あ、あぁ……ちょっと琴莉に話があったんだけど、別に今日無理にってわけじゃないんだ」
 瑛斗の答えに、琴莉の眉根が自然に寄ってしまう。
 彼の言う“話”が琴莉には言われなくとも分かった様な気がした。
(きっと、あの女の人のこと……だ)
 こんな時は変に勘が働くものだ。
「お前が調子悪いなら、またあとでにするよ。大事な話だし、な」
 瑛斗はそう言って琴莉の頭を優しく撫でた。
 その時、琴莉の中では何かが限界を迎えた気がした。
 よく漫画や小説で、糸がプツリと切れた、と表現するようなそれを琴莉は今まさに感じていたのだ。


No.2