第3話

「いいよ、別に今でも」
 琴莉はゆっくりとそう言葉を紡いだ。
「それに、わたし……知ってるよ?」
 それは後先考えずに放った言葉。
 ただ、瑛斗の口からその“大事な話”を聞きたくなくて……それならいっそ、今自分で言ってしまった方が楽な気がして琴莉は切り出したのだ。
「今日さ……見ちゃったんだ。お兄ちゃんのこと」
「え?」
「綺麗な女の人だったね……」
 その一言で、瑛斗は琴莉が何を見たのかを理解する。
「あ、お前、見てたのか。だったら……」
「大人っぽい人だったね。長い髪の毛は綺麗だったし、唇もツヤツヤしてた。それにみんなが振り返るような美人さん」
「だよな。あの人、昔から綺麗なんだよな。相当モテたし」
 琴莉は最大限の冷静さを装って言ったけれど、瑛斗が笑顔で返した言葉に心がツキリと痛む。
「胸も大きいしね。抱きつかれて気持ちよかった?」
「馬鹿言えよ。そりゃ、まぁ……確かに大きいけどな。彼女、昔から普通よりちょっとスキンシップが多いだけで、たぶん抱きつくとかそういうつもりは…………」
「お兄ちゃん、大きいの好きなんだ。鼻の下伸びてたしね」
 瑛斗の言葉が終わらないうちに、琴莉は嫌味を重ねる。
 一体何を言っているんだと、冷静な自身がブレーキを掛けようとするけれど、琴莉にはもはや自分で自分が止められない。
「お兄ちゃんも男だもん、大きい方が好きだよね」
「まぁ大きいに越したことは無いが、あれは子どもがいるから今は特別だぞ? て言っても、あの人は元々……」
 その時瑛斗はそのまま言葉を続けていたけれど、琴莉には後ろ半分が聞こえていなかった。
 ――子どもがいるから
 その一言が琴莉の耳に異常に残る。
(お兄ちゃん……今、何て言った?)
「子どもって……」
 思うのとほぼ同時に琴莉はそう言葉を紡いでいた。
「あぁ、彼女子どもがいるんだよ。あんな綺麗なのに一児の母だ」
 瑛斗の返答を聞いた瞬間、琴莉は何だか頭を鉄骨で殴られた様な酷い衝撃を受ける。
 どうやら話は恋人どころでは済まなかった様だ。子どもまで既にいたとは、琴莉も流石に予測できなかった。
「…………」
「琴莉?」
 すっかり俯いてしまった琴莉を瑛斗は心配そうに見つめる。
 きっと体調が悪化したとかそういう心配をしているのだろうが、そうではない。琴莉はもはや絶望の淵にいた。
 あの女性が恋人というだけなら、これから先もしかしたら……と一縷の望みがあったけれど、子どもがいるともなればもはやそれも望めない。
「もう……もういいよ……」
 琴莉は呟く様に言う。
「どうした? 何がいいんだ?」
 瑛斗が尋ねた次の瞬間、
「もういいって言ってるの! 大事な話って彼女のことでしょ? あの人と結婚しますって報告? 別にそんなのわたしにわざわざ話してくれなくたっていいよ!」
 琴莉は突然声を張り上げた。
 この時この瞬間、琴莉はもう何もかもが嫌で、自分でも半分何をやっているか分からなかった。心は嵐でも来た様に酷く荒んでいて、何だかもう訳も分からず暴走している様なそんな気分で……
「ちょっと待て、お前突然何言って……」
「お兄ちゃんもなかなかやるね。結婚する前にもう子どもがいます、なんてさ。だったらさっさと結婚しなよ。式はいつ? ていうか、一体今まで何やってたの? 赤ちゃんあの人が一人で育ててたわけ?」
「琴莉、ちょっと落ち着けよ」
「何よ、わたしは落ち着いてるわよ。冷静です! ずっと好きだったお兄ちゃんには恋人がいて、それどころか子どもまでいて、そんなんじゃ勝負にもならずに惨敗じゃない。大失恋よ。それが分かるくらいは冷静だもん!!」
 琴莉は一息にそれだけ言い切ると、目にいっぱい溜まった涙を隠す様にその場に突っ伏した。
 本当はうわーんと声を上げて泣きたいくらいだったけれど、最後の最後に残った理性で琴莉はそれを我慢する。
 もう見苦しいったらなかった。おまけに惨めで情けない。勢いに任せて言わなくて良い様なことまでたくさん言ってしまった。
 琴莉はさめざめと泣きながら、もう頼むから今すぐ独りにしてくれと思う。
 だが、瑛斗はそんな簡単に部屋を出て行ったりはしなかった。
 それから少しの間をおいて、
「琴莉……」
 落ち着いた瑛斗の声が掛けられた。
「お前、今なんて言った?」
「…………」
 琴莉は答えなかった。というか、一瞬理解に苦しんだ。
 その後、僅かな期待が琴莉の心を掠める。あまりに早口で瑛斗はもしかして言葉が聞き取れなかったのかもしれない……と。それならそれで好都合だ。
 が、
「俺のこと……好きって言ったよな? 惨敗に大失恋とも言ったよな?」
 そんなものはあくまでも期待でしかなかったとすぐに思い知らされる。
「………………言った」
 琴莉は仕方なく渋々答えた。
 言ってしまったことはもはや取り返しが付かない。まさか言ってないとも気のせいだとも言えずに正直に答える。
 ただ改めて人から言われてみると、とんでもないことを口走ったものだと思う。いくら勢いとはいえ告白してしまったのだ。破れた思いなど秘めておけば良かったものを、勝手に自分で口に出して……赤っ恥も良いところ。自分の馬鹿さ加減に琴莉はウンザリする。
「……だから何? だったら何? 今更何なのよ……。もう……傷口を抉る様なことしないで。お兄ちゃん、話が終わったなら出ていって」
 それは言葉が終わるとほぼ同時、琴莉は突然の外力により無理矢理引き起こされた。そして涙でぐちゃぐちゃになった顔を瑛斗の手でしっかりと挟まれる。
 その時の瑛斗は、少し困った色を見せていたが笑顔で琴莉を見つめていた。
 そのまま何が何だか分からないうちに「そんなに泣くなよ」と優しい声が掛けられたかと思えば、瑛斗の柔らかい唇が琴莉の涙を拭った。
「話、まだ終わってないから、悪いけど出ていかない」
 一体何が起こっているのかと琴莉が状況を理解できずにいれば、やがて瑛斗の唇は琴莉のそれに静かに重ねられた。
 それは、一瞬の出来事だった――……
「ちょ……お兄ちゃ…………」
 あまりにも衝撃的な出来事であったが、琴莉は理性をフル回転させて瑛斗をドンと突き放す。
「これから結婚する人が何やってるの!? 別にわたしはこんな同情なんてして欲しくない」
「俺、そんな男か?」
「は? お兄ちゃん何言って……」
「俺は同情で女にキスする様な男かって聞いてるの」
 いつの間にか笑顔を消した瑛斗からは怒気を感じたが、琴莉は怒りたいのはこっちの方だと思う。
「じゃあ、なんでキスするのよ!? 同情じゃなかったらわたしのこと揶揄ってるの? それとも、お兄ちゃんらしく妹を慰めようとでも言うの? キス……初めてだったのに……お兄ちゃんの馬鹿ぁ! 信じられない!!」
 琴莉はそこまで言って再び涙を溢れさせる。
 もう琴莉の心の中は荒れるを通り越してぐちゃぐちゃだった。そして、感情のコントロールもとっくに制御不能で泣かずにはいられなかった。
 とその時、
「馬鹿はどっちだ、この大馬鹿!!」
 低い罵声が辺りに響き渡った。


No.3