Karte No.1-1

 あんな世界……
 今までもこれからも、わたしには全然関係ないと思っていた。
 むしろ、本当に存在するのか疑問にさえ思ったことだってある。
 あくまでドラマや小説の中での絵空事で、本当はそんなの無いんでしょう?って。
 それでも、ニュースで見たり聞いたりするから、まぁそんな世界もどこかにはあるんだな、くらいに思っていた。

 あの日、あの晩、あの場所で……あんな事に巻き込まれて、あの男に出会うまでは。





坂下香夜(さかした かや) 二十九歳 女性
東京都○○区×××123-5-803 自宅電話 03-○○○○-△△△△ 携帯電話 090-××××-□□□□
最終学歴:帝都大学医学部保健学科看護学専攻
取得免許、資格:正看護師国家資格、保健師国家資格、普通自動車第一種運転免許
職歴:看護職として帝都大学医学部附属病院(外科系)に約七年間勤務

 香夜は履歴書への記入を終え、テーブルの上に置いてあったコーヒーに口を付けた。
「冷た……」
 履歴書を書くよりずいぶん前に入れてあったコーヒーはすっかり冷めていた。
 事の始まりはひと月ほど前。
 ゴールデンウィークも終わり、世間が五月病の波に呑まれ始めた頃、香夜は訳あって仕事を辞めた。
 だから今は就職活動中である。
 といっても、香夜のそれはスーツをビシッと着こなして説明会に行くような堅苦しいものとはほど遠い。朝ゆっくりと起きて朝食とも昼食とも分からない軽食を摂り、インターネットの求職情報を気の向くまま、時間の許すまま見続けるだけのものである。
 その就職活動も、ここ一週間ほどしか行っていない。
 退職してしばらくの間、香夜は脱力感と開放感で毎日毎日好き勝手をして過ごしていた。素敵なカフェでゆっくりランチを楽しんだり、デパート巡りをして好き放題に買い物をしてみたり、買いためておいた本を朝も夜も関係なく読みあさったり……。近場だが、旅行に行ったりもした。
 香夜はこの数週間で、仕事をしていた時にはかなわなかった望みを一気に叶えた、といっても過言ではなかった。
 しかしいくら退職金が入ったとはいえ、一生遊んで暮らせるわけもなく、香夜はこれからの生活のため仕方なく就職活動を開始したのである。
 探したのはやはり看護師の職。香夜はこの際心機一転別の職業に就いてみようかとも思ったが、手っ取り早くお金を稼ぐにはどう考えても免許を使う方が効率が良かった。
 インターネットで検索しても看護師の求職ならば溢れんばかりに出てきた。
 こんな時ばかりは、看護師の免許を取得しておいて良かったと心底思う。
 香夜は元々看護師になる気はなかった。しかし大学進学当時、三つ上の兄に『何か資格を』と言われ、たまたま思いついた看護の道に進んでしまったのだ。
 言うなれば、そのままなし崩しにここまでの人生を歩んできてしまった様なものである。
 そんな中、香夜が探し出したのは他よりも群を抜いて割のいい仕事だった。
『勤務は八時から一時(状況により延長有り、要相談)、賃金は時給換算五千円~(就業時間、能力次第で変動)、外科系に勤務経験のある方優遇します!! ※一度お電話ください』
 それは、あるクリニックのホームページの隅っこに小さく掲載されていた。
 午前中に五時間仕事をするだけで二万五千円――香夜はそれに飛びついた。
 そんな美味しい話、今までに見たこともなかった。しかもそのクリニックは、入院施設のない外来専門の小さな診療所だった。
 これまでの経験で大病院での仕事にうんざりしていた香夜は、元々小さな病院に絞って職場を探していた。
 入院病床の限られた小さな病院で夜勤専門――それが理想だったが、小さな病院は大概給料もそれなりで香夜は少し決め倦ねていた。
 その中で見つけ出したのがこの超がつくほど待遇のいい病院である。ただ一つ、条件から外れるとすれば夜勤では無いことだが、それを差し引いても待遇の良さが輝く。
 高額時給に多少危険な感じもしたが、人が足りずに時給を上げて募るのはよくある話だ。そのため、香夜は話だけでも聞いてみる価値はあると判断し、すぐさまそこに書いてある電話番号に連絡を取った。
 対応したのは院長と名乗る人物で、年齢と職歴を少し伝えるとその反応は結構良好。院長は履歴書と免許のコピーを持って一度面接に来て欲しいと香夜に言った。
 そして、約束したのが今日の夜八時。
 香夜は書き上げた履歴書を折りたたみ、事前に用意してあった免許のコピーと共に封筒に入れてそのまま鞄のポケットに差しこんた。
「そろそろ支度でもしようかな……」
 香夜は時計の針がもうすぐ六時半を指そうとしているのを確認して、残りのコーヒーを流し込むように飲んだ。


 ◆◆◆


 香夜は白のフリル付きシャツブラウスにチャコールグレーのスカートスーツを身につけ、鎖骨ほどまであるストレートの髪を少し内巻きになるようにブローした。ヒールはあまり高すぎない五センチ程度のものを選んで履いたため、元々一六五センチある香夜の身長は一七〇センチ程度にまで増長される。
 出かける前、姿見の前に立った香夜は自分がまるで就職活動をする大学生の様だと思った。いや、まぁ就職活動に間違いはないのだが。
 マンションの玄関を出ると、湿度の高い空気が頬を撫でた。昼過ぎまで降っていた雨はもう止んでいるはずだが、香夜は一度玄関の中に戻ってシューズボックスの上に置いてあった折りたたみ傘を鞄に入れた。今日明日にでも梅雨入りしてもおかしくない時期を考えれば、懸命な選択だ。
 香夜は自宅の最寄り駅から地下鉄を乗り継ぐと、教えられた通りの住所を探しながら街の雑踏をかき分けて歩いていた。目的地のクリニックは随分と込み入ったところにあるようで、なかなかたどり着くことができなかった。
 目的地周辺をぐるぐると歩き回り、ようやくそれらしき場所に到達した時は時計が既に八時五分前を差していた。
『あおやま太陽クリニック』
 香夜は表看板にそう表示されているのを確認して、クリニックのあるビルへと入った。
 クリニックは七階建てのビルの二階から五階部分に入っており、一階は調剤薬局が入っているようだった。最近できたばかりなのか、今風の作りで清潔感に溢れていた。
 二階の受付へ、と院長から予め言われていたのでそこへ向かうと、病院臭さをあまり感じさせない場所だった。
(結構イイところじゃない)
 香夜は待合室をぐるりと見回した。時間が八時なので当たり前だが、そこに待つ患者はいない。
 同様に、受付にも全く人気がなかった。さっきまで人がいて今ちょっと席を外している、という風でもない。
 そこに設置されているパソコンは既にディスプレイがブラックアウトしており、キーボードが立て掛けられている。電源が落とされた後、という感じだ。それは、受付事務担当者は既に退社済みだと告げている。
 香夜は受付カウンターにあった診察時間の案内に何気なく目を通した。
『月曜~水曜・金曜・土曜 8:30-12:30 14:30-18:30(ただし土曜は16:00) 木曜 8:30-13:00 午後休診   ※往診は随時受け付けます』
 まぁ、見たところでなんの不思議もない世間一般の個人病院である。
 香夜は時計が既に八時を越えていることを確認してその奥に向かって声を掛けた。
「こんばんはー。すみませーん」
 呼びかけた後、数拍待ってみるが返事は聞こえない。というか、このクリニックには人が本当にいるのかというくらいしーんと静まりかえっている。
「すみませーん。面接に来た坂下ですー」
 香夜は再び呼びかけた。
 その時だった。
 バンッ
 大きな音がしたので、香夜は受付の側面から奥へと続く廊下に視線を送った。
 すると、それはどうやらドアが開いた音だったようで、そこから白衣を纏った男性が忙しなく出てきたところだった。


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