Karte No.1-2
現れたのは、香夜の兄よりも少し年上か同じくらいの男性だった。彼は、今現在ヒールの増長で一七〇センチある香夜が自分よりも高いな、と思うほどの長身痩躯であり、その顔はとても端整な作りをしていた。
(あー、この人って女性受けがいいだろうな……)
香夜は突然現れた男性を見ながら、関係のないことを考えていた。
「君、坂下香夜さんだよね?」
男性は香夜に言った。
「……え? あ、はい」
「履歴書は持ってきた?」
「はい……」
突然矢継ぎ早に質問を始めた男性に、香夜は引きずられるように返事をし、持ってきた履歴書を手渡した。
男性はすぐにそれを開いて目を通した。
ここまでの状況から、彼が何かに焦っているというのを香夜は感じ取った。
「坂下さん、電話でも外科系勤務って言ってたよね? それってもしかして救急外来とか手術場の経験?」
「……半年ほど救急部で仕事してましたけど。あと手術場は六年半くらい」
「本当に!? あーもうバッチリ!!」
男性は香夜の返事を聞くなり、感極まったと言う感じで大きくガッツポーズをした。
一方、香夜は状況を飲み込むことができず、唖然としていた。
しかし、彼はそんな香夜などお構いなしだ。
「坂下さん。今から一緒に来てもらえる? あ、ちなみにボク、ここの院長の碧山です」
院長、碧山はそう言うなり、香夜の返事を聞くこともなく彼女の手を引いて歩き始めた。
「ちょ、ちょっと……院長先生!?」
香夜はなんとか事の説明を求めようとしたが、碧山はまるで聞こえていないという風に香夜の手を引いたまま歩き出した。
◆◆◆
「なんですか、これ……」
香夜は目の前の光景に夢でも見ている気分だった。というか、夢であって欲しかった。
しかし、どう考えても香夜は目を見開いて地に足を付けている。
あれから碧山は、香夜の腕を掴むように引いてクリニックの廊下を越え、非常階段を下りて一階の通用口から一端外に出た。それから別の入口を使って再度ビルに入り直し、地下一階へと下り、そこのある一室、この場へと香夜を案内したのだ。
先ほどと違ってここはいかにも病院、という感じのする場所だった。
鼻を突く消毒のにおいに香夜はむせそうになる。それは看護師の香夜にとって嗅ぎ慣れたものではあったが、しばらくのブランクのせいでやたらと鼻腔を刺激された。おまけに今は何とも言えない血生臭さも加わっている。
「何って、患者さん。外傷のね」
碧山はニコニコと笑って答える。
しかし、彼の笑顔とは反対に香夜の顔は確実に引きつっていた。
だって……香夜の視力がおかしくなければ、今彼女が目にしている外傷患者は普通のレベルじゃなかったから。
部屋の中央には腹部に刺し傷があると思われる男が一人と、肩口からあり得ない程出血している男が一人ストレッチャーに寝かされていた。そして、壁際には顔が変形するほど殴られた跡のある男が一人、その壁により掛かるように立っていた。
壁際の男を除いたとしても前者二人はこんな小さな病院で手に負えるレベルじゃない。相当に傷が痛むのか地に這うようなうめき声を上げていた。
香夜は地獄絵図を見ているとしか思えなかった。
(一体……何なのよ。これは…………)
大病院の救急部に勤務していた彼女でさえ、こんな凄まじい状況はあまり見たことがない。
「この人たち……すぐに大きい病院に搬送しないと…………」
「できたら送っているさ。……さぁ、坂下さん手伝って。さっさと片づけるよ」
碧山は不敵な笑みを浮かべながら白衣を脱ぎ捨て、腹部に傷のある男が乗ったストレッチャーに手を掛けた。
「ちょ……ちょっと、院長先生! わたし、困ります」
「必要な物はその左の部屋に揃ってる。五分で着替えて。処置は隣の部屋でするからね。すぐ始めるよ!!」
香夜はあまりの展開の早さにその場につっ立ったまま動けなかった。
そして、状況を理解できなくても、自分では手に負えないという本能的判断が香夜の頭を支配していた。
「わたし、今日はお話をうかがいに来ただけで、こんなつもりじゃ……」
香夜は拒否をしようとしたが、碧山の凍てつくような視線がそれを止めさせた。
「じゃあどういうつもり? この男……殺すつもり?」
碧山のその目は見方によっては穏やかに笑っているようにも見えたが、氷の微笑と言うにふさわしいほどの目力が潜んでいた。
(この人……本気だ)
そう感じ取った香夜は、最早自分には選択権がないことを知り、指示された部屋へと駆け込んだ。
玉のように噴き出した汗を拭いながら、香夜は男二人の処置を終えて最初に通された部屋へと戻った。着ていた臙脂色のスクラブは、所々汗染みが出来ていて色濃くなっている。
碧山は、残りの処置を自分でするから、香夜には外で待っている男性の処置をして欲しいと言付けたのだ。
「大丈夫そうか?」
出てきた香夜を見て、男性が壁際から駆け寄ってきた。
「腹部に傷があった方は麻酔が覚めれば平気だと思いますよ。肩に傷があった方もそれ程酷くはないようです。あの先生、腕がいいですよ。少なくともわたしが今まで見てきた中では」
香夜の返答に男性が「そうか」と言いながら安堵のため息を漏らした。
よくよく見れば、彼はかなり体格のいい男でプロレスラ―のような大きさだった。それも、ただだらしなく太っているわけではなく、筋骨隆々という感じだ。年の頃は碧山と同じくらいで三十代半ばほどであろうか。
そんな彼が安堵のため息を漏らす姿を見て、香夜はフッと笑みをこぼした。
しかし、実際のところは香夜自身も心の中で安堵のため息を吐いていた。
当初、香夜は処置に入ったはいいものの、あれだけの手術をたった二人でこなすなど到底無理だと思っていた。
ところが、碧山の手際の良さといったらなかった。
次から次へと出される指示に香夜は遅れをとらないよう付いていくのが精一杯だった。
大学病院に勤めていた当時、香夜は何人もの医師の手術に入った。しかし、今日の碧山ほどに手術をこなせる医師は数えるほどしか見たことがない。
「はい、ここに座ってください。顔の傷、手当しますよ」
香夜は必要と思われる道具を乗せたカートを自分の手元に引き寄せ、新しいラテックスのグローブ装着する。そして、男性に処置のしやすい少し低めの椅子に座るよう促した。
「俺はいい。唾でも付けときゃ治る」
男性は、遠慮する、とでも言うように掌を横に振った。
「猫じゃないんですから、駄目です。ばい菌が入ったらどうするんです? いいから座ってください」
香夜は先ほどよりも少しきつめの声で言い、自分の前の椅子を指差した。
男性は仕方ない、という風にそのまま椅子に座り、自らの傷だらけの顔を大人しく差し出した。
香夜はそれを手際よく処置をしていった。
湿らせた綿球で男性の顔を綺麗にしていくと傷自体はそれほど酷い物ではなかった。ただ打撲痕があるために酷く見えるだけで、外傷と呼べる物は擦過傷と少しの切り傷だけだった。
ひとしきりの処置を終え男性のこめかみに最後のガーゼを当て終えた時、香夜は彼の着ているワイシャツの右肩部分に血痕が付いていることに気づいた。よく見ればシャツのその部分は鋭利な刃物で切り裂かれたようだった。
「腕も怪我してるんですか? 一緒に手当しますね」
香夜がそう言って男性のシャツを脱がせようと手を掛けた時だった。
「やめろ」
男性は香夜の手を掴んで抑止した。
「やめません。放置して化膿したら大変ですよ」
香夜は彼の制止を振り切ってシャツのボタンをはずした。
次の瞬間、
(――――)
香夜の目には色鮮やかな彫り物が飛び込んできた。