Karte No.1-3

 男性はワイシャツの下にタンクトップのアンダーシャツを着ていたため、彫り物の全景は見えなかったがピンポイントではないモノだった。
 しかし、香夜はそれ程までには驚かない。
「あんた……コレ見て平気なのか?」
 一瞬行動を止めただけで再び何事もなかったかのように創部の具合を見ながら手当を始めた香夜に、男性は不思議そうに声を掛けた。
「平気も何も、たぶんあるだろうと思いました。さっき処置した人たちも似たようなの持ってましたから。一人は二の腕までビッシリと、もう一人は至る所に幾何学模様みたいなのが」
 香夜は作業をしながら淡々と答えた。
 重傷の男たちの処置をしながら、香夜はこの男性が持つ刺青と似たような物を何度も視界に入れた。
 初めは何物かと目を見張ったが、あまりに見過ぎて今ではもう目が慣れてしまった。
 そして、碧山が言っていた台詞が香夜の中で一つの結論を生み出そうとしていた。
 初めに香夜が彼らを大きな病院へ運ぶように言った時、碧山は確かに言った。
『できたら送っているさ』
 と。
 それは言い換えれば、彼らをまっとうな病院へ送ることはできない、ということである。
 香夜も初めは大きな病院へ送れない様々な理由を考えた。しかし、処置中に彼らの刺青を見た瞬間にコレが原因のひとつだと確信した。
「でもあんた、堅気の女だろ? コレ見て良く平気な顔していられるな。普通は怖がるぜ」
 男性の問いかけに、香夜は一瞬その手を止めて彼の目を見た。しかし、すぐに視線を傷口に戻す。
「もちろん堅気ですよ。何か問題ですか? それとも怖がらせたいんですか? ……でも、わたしにとっては後で化膿した傷を持って来られる方がよっぽ恐ろしいですから」
「……あんた、プロだな」
 男性はその顔に笑みを浮かべた。
(こんなごつい体でも優しそうに笑うんだな……)
 香夜はかなり失礼なことを思いながら男性の太い腕に包帯を巻き、再びシャツを着せてやった。
 そして、使い終わった器具を片づけ、流し台でグローブを外した手を入念に洗いながら香夜は話し始めた。
「だいたいあなた達、何なんですか。生死に関わるような怪我をして、こんな裏路地の隠れ家みたいな病院に来て。院長も当たり前のようにあなた達を受け入れて処置してる。一体あなた達は……」
 その時だった。
 バタンという大きな音と共に、一人の男が部屋になだれ込んできた。
「ま、松平(まつだいら)さん!!」
 手当を受けた男性は、乱入してきた男性を見るなりその表情をこわばらせた。そして、すぐにその場に手をついて額を床に押しつけるように土下座をした。
「申し訳ございませんでしたぁっ!!」
 松平と呼ばれた男性は香夜が今しがた手当をした男性よりも若そうで、下手をすれば香夜と同じか少し上くらいの年の頃だった。
 しかし、さん付けで呼び頭を下げているところからして、松平は手当を受けた男性よりも地位が上なのだという様子が窺えた。
 香夜が自分の隣で土下座をしている男性に目をやると、彼の背中はわずかに震えているようだった。
 気がつくと、いつの間にか部屋の入り口にいた松平が香夜たちのすぐ横まで歩み寄っていた。
 近づいてみると、この松平という男性は小柄だった。しかし体格はさておき、身につけているのは白いシャツにダークブラウンのスーツで、シルバーフレームの眼鏡、そして左頬には眉間から伸びる古傷の痕があった。それはもうどこからどう見ても、その筋の人、という雰囲気を醸し出していた。
 香夜は悠長に松平の人間観察をしていたが、次の瞬間、
 ガッチャーン!!
 けたたましい音により、それは一気に遮断された。
 香夜の目の前でガーゼやら消毒液やらが積んであったカートがひっくり返る。と同時に、土下座をしていた男性の体が転がったのだ。
 続けて、ドガッという鈍い音をたてて転がった男性の体が壁に激突する。
 松平が土下座をしていた男性を蹴り飛ばしたのだ。
 香夜がその状況を認識して納得するのには、男性が蹴り飛ばされてから一拍以上の間が必要だった。
 さすがの香夜も驚いた。
 この病院に来てから、もうこれ以上はあり得ないような経験をしたと思っていたが、今目の前で起きている事は香夜にとって今日一番にあり得ない出来事だった。
咲村(さきむら)ぁ。テメェが付いていながらこのザマは何だ? あぁ?」
「すみません……ゲホッ…………すみません、兄貴」
 香夜が手当をした男性、咲村は蹴り飛ばされた衝撃に耐えながら懸命に松平に謝った。
牧野(まきの)が腹ぁ刺されたってなぁ。テメェあいつが刺されるところをただ見てたのかよ?」
 松平は咲村を暴行し続けた。
 咲村は痛みと衝撃に堪えながらも何とか土下座をしようと体勢を立て直そうとする。しかし、それを再び蹴り飛ばされては転がる。
 香夜は次第にこの状況を見ていられなくなっていた。
「ちょっと……やめてください」
 何とか声を出してみたが、物が倒れる音や松平が咲村に浴びせる罵声で香夜の声はかき消されてしまった。
 次は少し声を張り上げてみる。
「お願い……もう、いい加減にしてください!」
 しかし、結果は同じである。
 松平は端から香夜の声など聞き入れる気もないようだ。
 それでも、香夜はその後何度か松平の行動を制止するべく声を張り上げたが、結果は変わらなかった。
 咲村の大きな体はまるでおもちゃのように転がされる。彼の大きな体が転がるたびに台の上に乗っている様々な医療器具が音を立ててまき散らされる。
 香夜はやがて、この話を聞く気のない松平に怖さを通り越してイライラを募らせ始めていた。
 先ほどまでは出来事の展開の早さに追いつくのが精一杯であった香夜も、今彼女の内にはここに来てから今に至るまでの全ての怒りが沸々と湧き上がり始めていた。
 大体、面接に来ただけの自分がなぜ、この人たちの治療に強制参加させられる必要があったのだろうか。しかも『殺すつもりか』と脅迫までされて。
 まぁ百歩譲ってそこまでは良しとしよう。しかしそれが終わって任された傷の処置も終え、一刻も早くここから帰ろうと思っていた矢先に……この松平とかいう男性の乱入により香夜の帰宅は完全に阻止された。
 それも、香夜がせっかく手当てをした患者を殴る蹴るの暴行。あげくに清潔さが売りのガーゼやセッシなどその他諸々の医療器具を不潔な床にまき散らす悪行。
 大概のことは笑って許せる香夜も、今この瞬間だけは訳が違った。
(一体何なのよ!!)
 気が付けば香夜はその眉間に皺を深く刻んでいた。
 その時だった。
 松平に殴られた衝撃で咲村の顔に当ててあったガーゼが一枚ぽろりと落ちた。
 まるでスローモーション映像を見るかのようにそれを眺めていた香夜は、その瞬間、自分の中でプツリと何かが切れる音を聞いた気がした。
 それでも香夜は、最後に残っていたひとかけらの冷静さを以てして大きく一度息を吸う。
 そして、
 ガチャン!!
 香夜は処置用の椅子を勢いよく蹴り飛ばし、続けて低い声で怒鳴った。
「いい加減にしろって言ってンのが聞こえないの!? それともあなたのその耳はただの飾り物なんですか!?」
 ほぼ八つ当たりとも言える状態で、香夜は鋭い眼光で松平を睨み付けた。
 一瞬、辺りがしーんと静まりかえる。
 咲村も松平もそのまま行動を止めて香夜に焦点を合わせた。
 香夜は構わずに松平につかつかと歩み寄った。
 そして、その胸ぐらをガシリと掴む。
「おい……あんた、やめ……」
 咲村がそう言いかけたのとほぼ同時――
 パンッ!!
 乾いた音が辺りに響いた。


Karte No.1-3