Karte No.1-4

 香夜は自分の右手に走った衝撃を握りしめて殺した。
 胸ぐらを捕まれたままの松平は、眼鏡がずれたまま、呆気にとられた顔をしていた。その左頬はわずかに赤らんでいる。
 香夜はそんなことには構わずに言葉を続ける。
「あなた、今自分が何したか分かってるんですか? えぇ? あなたが殴ったり蹴ったりしたのは紛れもない怪我人なんですよ?」
「…………」
 松平は何も答えない。その代わりに言葉を発したのは咲村だった。
「姉ちゃん、やめろ! いいんだ、俺が悪いんだ。今なら間に合う、兄貴に謝ってくれ」
「何言ってるんですか。謝るのはこの男でしょう!!」
 慌てて止めに入ろうとした咲村を香夜は逆に叱りとばした。
「せっかく手当てした傷なのに……。また殴るってどういう了見ですか? 傷があってただでさえ痛いっていうのに更に痛めつけるなんて、あなた馬鹿じゃないんですか!? ……大昔に、習ったでしょう? 病人と怪我人には優しくしなさいって」
 松平は眼鏡を元の位置に戻すと、無表情のまま香夜の顔を見ていた。
 一方、咲村はその眉根に皺を寄せて心配そうに状況を見守っていた。
 そして、松平はゆっくりとその口を開いた。
「おい……お前、俺が誰だか分かって言ってるのか?」
 しかし、その時の香夜は既に自分でも自分を止めることができなくなっていた。
「脅しのつもりですか? ……今更なんだって言うんですか。あなたが堅気の人間じゃないことくらい分かってます。尋常じゃ無い刺創やら刺青やら何やら散々見せつけられて、これであなたが堅気ですって言ったらそっちの方が驚きですよ。わたしはね、あなたがその世界でどのくらい偉いのかなんて知りません。でも、部下が怪我をしたら非を責めるより先に心配するのが上司の務めでしょう!!」
 香夜は今日一番に声を張り上げた。もう爽快感さえ感じるくらいに。
 すると、
「この女、ふざけやがって……」
 香夜の最後の一押しでついに逆上した松平は、自分の胸ぐらを掴む香夜の手を払いのけ、自らの拳を高らかに振り上げた。
(ヤバ、殴られる……)
 香夜はこれから起こりうる状況を瞬時に判断して目を閉じた。そして、予測されうる衝撃に対して痛いほどに歯を食いしばった。
 その時だった。
「やめろ、松平」
 どこからともなく聞こえた声はなんとも聞き心地のいい音程だった。
 突然の声に、松平は今にも振り下ろそうとしていた拳をピタリと止める。
 それは咲村の声とは違った。怒鳴っているわけでも無いのに、秘めた迫力を持つ不思議な声だった。
「松平、お前は堅気の女に手をあげる気か?」
 声の主は続けて言った。
 香夜は瞼を薄く開いた目で、声の主を捜し、やがて部屋の入り口に立っている一人の男性の姿を捉えた。そして、徐々に瞼を持ち上げた。
(――――)
 香夜は一瞬息を呑んだ。
 視界に捉えた男性はただ『美人』の一言に尽きたからだ。
 黒いスーツをびしっと着こなしている彼は、その美しい顔とモデルのような長身痩躯を併せるとまるで夜の街にいるホストのようだった。それもその辺にウヨウヨいる普通のホストではなく、どこかのお店でナンバーワンを張っていそうなホストである。
 また、その身に纏う余裕から、男性は香夜よりも年上な印象を与えていたが、見方によっては随分と童顔に見えたりもした。
 このクリニックの院長といい、今日は美人をよく見る日だと香夜はどうでもいいことを思う。
「社長……」
 松平は呟くように男をそう呼んだ。
 突如として現れた男性に、松平は確かに『社長』という呼称を使った。
 しかし、香夜はそれが世間一般で使われているモノとは何か違うような印象を受けた。
 そして、松平は『社長』と呼んだ男性に対して明らかに怯えている様子だった。
(あぁ、ホストじゃないのか……)
 香夜は今現在殴られる寸前だという自らの立場をすっかり忘れ、やってきた男性に半分見とれていた。
 彼はそんな香夜の視線に気づいたのか、ニコリと笑いかけた。
(…………)
 色気がダダ漏れ状態のソレに、香夜は正直一瞬だけドキリとしてしまった。
 しかし、ソレをかき消すように香夜はすぐにブンブンと首を振る。
(……わたしはこんな男に見とれてる場合じゃない!!)
 自分に言い聞かせながら冷静さを取り戻した香夜は、未だ胸ぐらを掴む松平の手を振り払い、今度は臆することなくその男性の前に詰め寄った。
「失礼ですけど、彼らの上司の方ですね?」
「ん……まぁそんなところかな」
 怒りを静かに再燃させつつある香夜に男は穏やかに答えた。
「だったら一言、言わせていただきます。コレ、全部責任持って片づけてください。あなたの部下が散らかしたんです。部下の落とし前は上司が付ける……よく存じ上げませんが、それがあなた達の世界の決まりじゃないんですか?」
 香夜は散らばる医療器具たちをビシィッと指差した。
 その後、沈黙が辺りを支配した。
 やがてその静けさに耳が慣れてきた頃、男性は突然香夜の目の前でお腹を抱えて笑い出した。
「ふふ……ふはははは……」
 一体何がおかしいのか香夜は皆目見当も付かなかった。
「何がおかしいんですか!」
 香夜は噛みつくように言った。
 しかし、男性は笑うことをやめない。
「あなた……」
 香夜が再び文句を言おうとした時だった。
「あはははは」
 男性とは別の脳天気そうな笑い声が辺りに響き渡った。
「あはは。……片づけろってさ、(はる)ちゃん。そうしてくれるとありがたいなぁ」
「院長……」
 脳天気そうな笑い声の主――本日一人目の美人を香夜は呼んだ。
「坂下香夜ちゃん、上出来だよ。君の技術もその度胸も」
 紺色のスクラブの上に白衣を羽織った碧山は、ニコニコと笑いながら香夜の元に歩み寄った。
 香夜と同様、処置後で汗まみれの碧山であったが、爽やかな笑顔を見せるその姿は綺麗でさえあり、浮かぶ汗がキラキラと輝いて見えそうな勢いだった。
「じゃあ、明日から……」
 香夜の目の前まで来た碧山が言いかけた時だった。
「このお話、なかったことにしてください」
 香夜はその顔に碧山に負けないくらいの笑みを作り上げ、彼の言葉を見事に遮った。
「院長、残念ながらわたしにはここでの仕事は向いていません。それに今、わたしあの松平さんを叩いてしまったんです。こんな暴力看護師、困りますよね? そういうことで、このお話はなかったことに。ちなみに、今日の一連の出来事は職務上の守秘義務がありますので、他言はしませんからご安心を。それでは、これで失礼します」
 香夜は必要と思われることを早口でまとめると、一度ぺこりと頭を下げた。
 院長が出てきた今、香夜のすべき事はただ一つ、ここから一刻も早く帰ることだった。
(こんなところ、これ以上長居をしてもろくな事がない……)
 香夜がその結論を出すのには一秒も掛からなかった。
 そして、香夜は思い立ったように松平の元へと戻った。
 再び舞い戻って来た彼女に松平は少しばかり構える。
「あなたがやったこと、わたしはやっぱり許せません。でも、あなたを叩いたのは悪かったと思っています。暴力をふるうなって言って暴力に訴えるのは矛盾してるし、何の解決にもなりませんね。……ごめんなさい」
 香夜は松平に素直に謝った。
 だいぶ冷静さを取り戻した香夜は自分のしたことを少し反省していた。いくら頭に来たとは言えやりすぎたと思った。
 香夜は手元にあった絆創膏を一枚取ると、その封を切って松平の右手の甲にペタッと貼った。
「あなただってあれだけ殴ったら痛かったでしょう? 血が出ています。でも、彼は……咲村さんはもっと痛かったんですよ。良く覚えておいてください」
 香夜は絆創膏の上から松平の手をポンポンと叩き、そのまま踵を返した。
 松平は一言も発することができず、ただ唖然として香夜を見ていることしかできなかった。
 しかし、それは彼に限ったことではなかった。その場にいた皆が皆、それぞれに香夜の行動に見入っていた。
「あ、その手、あとできちんと処置してくださいね? それからわたしの叩いた頬も、冷やしておいてください。咲村さんはもう一度、増えた傷と併せて院長に手当てしてもらってくださいね」
 香夜は途中一度だけ振り返ると、そのまま鞄と着替えを手に持って去っていった。


Karte No.1-4