Karte No.1-5
「紘さん。あの女、新しく雇うの?」
香夜が帰って数時間後、社長と呼ばれた男、黒衣遥夏と院長、碧山紘務はクリニックの五階にある院長室にいた。部屋の大きな照明は付けておらず、暗めのダウンライトが淡い光で部屋全体を映し出している。
「いいよねぇ。欲しいよねぇ。俺の指示に平気で付いてこられるんだよ。正直、あそこまで使えるとは思わなかった」
紘務は接客用のテーブルを挟んで向かいのソファーに座る遥夏に、答えにはならない自身の感想を述べる。
「しかも俺らの素性を知っても動じるわけでもない。珍しい女だ。それにあの女……俺らに怯えるどころか説教しやがった」
遥夏は紘務の言葉を続けるように言い、先ほどの出来事を思い出してククッと笑いを漏らした。
「遥ちゃん、“あの女”じゃなくて坂下香夜。香夜ちゃん、だよ。……すごいよね。俺だって初めて見たよ、お前たちに対して怒鳴り飛ばす子。いくら知らないとはいえ、あれだけの面子を前にして母親のように叱るんだもん。……そうそう遥ちゃん、良いウイスキーもらったんだけど飲む?」
遥夏はコクリと頷き、紘務はそれを見届けて席を立った。
そんな紘務の背中を見ながら、遥夏は上着のポケットから煙草を出し、それを一本くわえて火を付ける。
遥夏が物憂げな表情で息を吐くと、暗闇を白煙が漂う。
「でも香夜ちゃん、このお話はなかったことにしてください、って言ってたしなぁ。やっぱり初日から刺激が強すぎた? それでも、逃げ出さずに仕事をこなしてくれただけ凄いと思うけど」
紘務はグラスに氷とウイスキーを入れたものを遥夏に手渡した。
「紘さん、あの女……いや、香夜チャン。ここで雇ってよ」
「なに? 遥ちゃんてば、香夜ちゃんのこと気に入ったの? お前が女に興味示すなんて珍しい。……でも、手を出したら駄目だよ。あの子、堅気だからね。遥ちゃんのそばにいる子たちとは訳が違う」
遥夏は何も答えず、グラスの中の琥珀を飲みながらフッと不敵な笑みを漏らした。
「うーん、諦め難いな。俺、香夜ちゃん欲しいな。どうやって口説き落とそうかぁ……」
紘務はソファーにどかりと座り天井を見上げた。
何か良い案を考え出そうとするが、すぐには出てこない。
短い沈黙が辺りを包み込む。
「だったら紘さん。コレ、使えない?」
沈黙を破ったのは遥夏だった。
遥夏はスーツの内ポケットから徐に取り出したある物を自分の顔の前に出した。
「遥ちゃん……それどうしたの!?」
視線を動かしてそのある物を視界に入れた紘務は、そのまま飛び起きるようにテーブルの上に身を乗り出した。
「あの子のスマートフォン。さっき帰り際にでも落としたんだろ? 落ちてたの拾っておいた」
「お前もなかなかやるねぇ」
紘務はそう言って嬉しそうに香夜のスマートフォンに手を伸ばそうとした。
「おっと、紘さん。ただでは渡せないね」
遥夏は紘務の手が届く寸前で、それを自分の元に引き寄せた。
「何ソレ? ……つまり交換条件ってこと?」
紘務は不服そうに尋ねた。
「そういうこと。コレが欲しいなら、今日の分、少し負けてよ」
遥夏がそう言った瞬間、紘務は乗り出した身を元のようにどかりとソファーに戻し、話にならないという風に鼻で笑った。
「馬っ鹿、お前あれだけの患者運び込んでおいてよくそんなことが言えるね。今日こそ、俺は死亡診断書を書かなきゃならないかと思ったのに」
「じゃ、あげない。これ俺が使うわ」
遥夏は少しも動じることなく香夜のスマートフォンを元のように自分のポケットにしまおうとした。
「……わかった。わかったよ、遥。負けてやる。ただし、今夜彼女が働いた分はお前が持てよ。少なくとも、今日は彼女がいなかったら死人が出ていた。それは間違いない」
「交渉成立。さすが紘さん」
遥夏は手に持っていたスマートフォンを紘務に投げた。
香夜は寝返りも打たずに死んだように眠っていた。
クリニックから自宅マンションにたどり着いた香夜は泥のように重い自分の体を引きずって、リビングのソファーの上にその身を投げた。そのまま彼女が夢の国へと行くのに、十秒とかからなかったのは言うまでもない。
香夜が寝付いて一体どのくらいの時が過ぎたのだろうか。遮光カーテンの隙間からは光が漏れ入ってきている。
『ピロロロロ ピロロロロ……』
それは突然香夜の眠りを妨げようとした。
強烈なシグナルを発し続けるそれは香夜を徐々に覚醒へと導く。
『ピロロロロ ピロロロロ……』
(……目覚まし……時計?)
夢現で考えついた香夜は、目を閉じたまま辺りを手当たり次第にまさぐった。
しかし、それらしきものには行き当たらない。
『ピロロロロ ピロロロロ……』
単調な音は続く。
(うるさい……。何の音?)
(……スマホ? ……いや、あれはこんな音じゃない。じゃあ一体…………)
(電話だ!!)
香夜は思い付くなり飛び起きて、けたたましく鳴り続ける固定電話の受話器を手に取った。
「はい、坂下です」
『あ、香夜ちゃん? おはよう。起こしちゃった? ごめんね。でも、もうお昼近いよ』
受話器の向こうから聞こえてくる能天気な声。
「…………」
香夜はその聞き覚えのある脳天気な声に対し、返答の代わりに思わずため息が漏れた。そして、このまま返事をせずに受話器を置こうかと考えた。
『もしもーし、香夜ちゃーん。……あ、電話切らないでね。大切な話があるから』
紘務の最後の言葉に、香夜は受話器を耳から離そうとした自分の手を止めた。
香夜は昼下がりに昨日と同じ道を歩いていた。ただし、今日はスーツをびしっと着こなしてはいない。七分袖の白のカットソーに淡いグリーンのカーディガン、黒のパンツ、茶色のローヒールパンプスという比較的ラフな支度である。
今から数時間前、受話器を置こうとした香夜に紘務は言った。
『何か今困っていることない?』
「別に……」
『香夜ちゃん、昨日クリニックで大事なモノ落としたの気づいてる?』
「…………」
『その様子だと、気づいてなかったみたいだね。君のスマートフォンを預かってるんだ』
「…………」
『でね、香夜ちゃん……もちろんスマートフォン取りに来るよね?』
紘務は絶対に香夜がスマートフォンを取りに来るという自信に漲っていた。
だから、香夜は言ってやった。
「行きません。すぐに解約しますから差し上げます。お好きに処分してください」
登録された膨大な量のアドレス帳とこれまでのメッセージのやりとり、写真等のデータ類、その他諸々を失うのは香夜にとって相当の痛手であったが、それでも必要最低限はバックアップしてあった。
それを思えば、再びあの場所に行くくらいならスマートフォンを諦めた方が良い、と香夜は瞬時に判断したのだ。
どう考えてもあそこは危険だと、香夜は夕べの一件で確信したのだ。
しかし、紘務も引かなかった。
『そう。所有権、放棄するの。だったらアドレス帳とか見ても良いよね? ……へぇ、この人香夜ちゃんとよくメールしてるね、どんな関係の人かなぁ』
紘務は香夜のスマートフォンを操作しながら電話をしている様だった。
「待って……なんで!?」
香夜は思わず驚愕の声を上げる。
「なんで中身が見られるのか……ロック解除できたのか、驚いた?」
「…………」
図星だった。
香夜はスマートフォンにきちんとロックを掛けておいた。もちろん、誕生日といった簡単に想像できるものは使用していない。だからこそ、紘務に物自体を渡したからといって何の役にも立たないと思った。単なるガラクタでしかないと思ったのに……
「どうやって解除したか知りたい?」
「結構です。プライバシーの侵害です!」
香夜は少し声を荒げた。あれだけアウトローなことをやっているクリニックだ。どうせろくな手段を使っていないことくらい容易に想像できる。
『だってさっき、差し上げます、って言ったじゃない。自分のもの、俺がどうしようが勝手でしょう? 例えばここに登録してある看護師仲間を探して、うちで働きませんか? って誘うのも俺の勝手だよね。突然電話したら怪しいから、香夜ちゃんに紹介してもらいましたって言おうかな』
「…………」
ふふっと笑う紘務に香夜はもはや返す言葉もなかった。そして、自分が言った台詞を心から後悔した。
香夜は仕方なしに、
「……取りに、行きます。先生は今日、何時ならご都合がよろしいですか?」
そう言った。言わざるを得なかった。