Karte No.1-6

 紘務は十三時半過ぎに病院に来いと指定した。
 香夜が出かける前にカレンダーを見ると、今日はちょうど木曜日で、記憶によればあのクリニックは午前診療で終わる日である。
 昨日より迷わずに目的地に着くと、クリニックからは腰の曲がった老女が出てくるところだった。
(……一般人も診察してるんだ)
 香夜はその老女を視界に入れながら思った。
 二階の受付兼待合室に入ると、そこは昨日とはうって変わって人がまばらにいた。
 先ほど出て行った老女と同じ年頃の女性、会社を抜け出してきたと思われるスーツ姿の男性、セーラー服を着ている女子学生……彼らもどう見ても一般人だ。
 最も、彼らが一般人でも実は実家の本職がそっち系です、という可能性は否定できないが。
 受付には事務服に身を包んだ女性が二人とナース服姿の女性が一人いた。
「坂下と申します。院長と約束をしているのですが」
 香夜は受付で紘務に教えられた通りに言った。
「あ、坂下香夜さんですね? 院長からうかがっております」
 事務員の一人がすぐに立ち上がり、香夜はそのまま五階の院長室へと通された。
 

 ◆◆◆


「しばらくお待ちください」
 香夜は事務員が立ち去ったのを確認して、出されたコーヒーに口を付けた。
 香ばしい風味が一気に口に広がる。
 考えてみれば香夜は今朝から、いや、夕べからほとんど何も口にしていなかった。冷蔵庫のミネラルウォーターとオレンジジュースを数口飲んだだけで、固形物は皆無だ。
 昨夜クリニックから帰ったのは、終電も終わった時間帯だった。それから何かを食べる気力なんて香夜には残ってなかった。今朝も今朝で紘務に電話で起こされたのは十一時頃、それから出かけるまで結構忙しかった。
 何より先にお風呂に入って汗まみれになった体を洗い流し、脱ぎ捨てた洋服を洗濯機に入れ、着替えて化粧をしたら時計は既に十二時半を回っていた。
 本当は軽めの昼食でも摂ってから出かけたかったが、そんな余裕は一切なかった。
 香夜は一緒に出された砂糖の封を切ってコーヒーに入れた。普段はブラックで飲むが、砂糖を入れた方が多少お腹の足しになると思ったのだ。ちょこっと添えてくれた美味しそうなクッキーもありがたくいただく。
 それからしばらく待っても紘務は姿を現さなかった。
 一度、事務員の女性がコーヒーのおかわりを持ってきてくれ、「もうしばらくお待ちください」と言われた。彼女はコーヒーの他、クッキーとチョコレートも補充してくれた。
 香夜は特に急くことも無く待っていた。待合室での状況を見ていたので、診察が長引いているのだろうと思っていたし、逆にコーヒーとお菓子を楽しむ時間をもらえてありがたいくらいだった。
 香夜は暇に身を任せて自分の座っているソファーを撫でてみた。
 黒色をしたそのソファーは本革でできているのかやたらと手触りがいい。
(高いんだろうな。輸入物かな?)
 香夜はどうでもいいことを考える。
 ふと周囲に視線を巡らせると、そもそもこの部屋はとても広いことに気づく。また、今香夜が座っているソファーをはじめとした調度品はどれも高級感に溢れていた。
 コーヒーが乗っている目の前のガラスのテーブルも、窓際に設置してある机と椅子も。それから、壁に沿ってびっしりと設置された本棚は木目調の高級感漂う造りで、医学書や洋書の類が隙間無く詰め込まれている。おまけに本棚と本棚の間にある棚にはたくさんの洋酒と上等なグラスが並べられている。
(伊達にアウトローな仕事してないわね……。随分な儲けになるんだろうな)
 香夜は部屋を見渡しながら妙に納得していた。





 ガチャリ、という音がして何の予兆もなしに院長室の扉が開かれたのはそれから数十分後のこと、時計が十四時半を指そうとしている時だった。
「院……」
 入ってくる人物を予測して呼びかけた香夜は、途中で止めた。
 香夜の視界には白衣を纏った紘務の他にもう一人、遥夏の姿が飛び込んできたのだ。
「ごめんね、お待たせ」
「昨日ぶりだね、香夜ちゃん」
 紘務に続けて言った遥夏に、香夜の記憶はフル回転を始める。
 嫌みなほど整った顔。それに長身痩躯を併せたホストのような男。
(……昨日、あの場にいた男だ)
 香夜の中で記憶と目の前の実物が一致した。
「ビックリした? ちょっと訳があって彼にも来てもらったんだ」
 紘務はそう言って香夜の向かい側に腰を下ろした。
 すると、遥夏は勧められてもないのにさっさと香夜の隣に座った。
 香夜は一瞬訝しそうな顔をする。
「香夜ちゃん、彼のこと……」
「俺のこと覚えてる?」
 言いかけた紘務を遥夏は遮った。
 顔はニコニコと笑っているが、あくまで営業用だというのが見て取れる。
「昨日……いらっしゃいましたよね?」
「俺、名前教えた?」
 確認する香夜に遥夏は質問を重ねた。
 香夜は再び記憶の糸をたどる。
 夕べ香夜があの場を去る直前に、紘務が彼を呼んだことだけは香夜の記憶に残っている。
 しかし、どう呼んだかと言われるとそこまで記憶はない。
(確か……ハ、なんとかちゃん、と言っていたような、いないような…………)
(あぁ! そうだ……)
「……ハナちゃん?」
 香夜は瞬間的に閃いた名前を声に出した。
 次の瞬間だった。
 『ブッ』という音と共に、大の男が二人、そのお腹を抱えてげらげらと笑い出した。
 香夜の頭に、昨日遥夏が笑っていた姿がフラッシュバックする。
 紘務も遥夏もしこたま笑った。
 どうやらハナちゃんではないらしい、と香夜は思う。
 しかし、こんなに笑われるのは気分の良いものではない。
「あなた……昨日から人のこと笑ってばかりいて失礼じゃないですか?」
 香夜は少し怒ったように言った。
「ごめんごめん。だって香夜ちゃん面白いから。俺ね、あなたでもハナちゃんでもなく遥ちゃん。黒衣遥夏。それと、俺、畏まられるの好きじゃないから敬語も使わなくていいから」
 遥夏は笑いすぎて浮かんできた涙を拭いながら自己紹介をした。
――ハルもハナも同じじゃない
 香夜は思わず言いそうになった言葉をグッとこらえた。
「で、香夜ちゃん……やっぱりここで働く気はない?」
「わたしは今日、忘れ物を取りに来ただけで面接に来たつもりはありません。それに、そのお話は昨日しっかりとお断りしたはずです」
 香夜は毅然とした態度で答えた。
 こういう時ははっきりとNoというに限る。どこかの日本人よろしく曖昧に返事をしていると変な風に丸め込まれるのがオチだ。……と言っても、香夜も正真正銘の日本人であるが。
「俺は香夜ちゃんに来て欲しいんだけどな。昨日の処置だって香夜ちゃんがいてくれたからできたようなものだし、あんなに手際の良い器械出しをする看護師さんは初めてだよ。さすが帝都(ていと)大の手術(オペ)場に入っていただけのことはあるね。それに遥ちゃんたちに臆さないその度胸も気に入ったし」
 紘務は次から次へと賞賛の言葉を述べたが、香夜の心が動かされることはなかった。特に最後の一言には。
「お受けできません」
 香夜は余分なことは一言も言わずに必要と思われる返事だけをした。
「報酬はそれなりに出すよ。ねぇ、遥?」
「それはもちろん」
 紘務の目配せで遥夏はジャケットの内ポケットから白い封筒を取り出して香夜の前に置いた。
「どうぞ?」
 遥夏に促されて香夜はその封筒に手を掛ける。
(――――)
 瞬間、香夜はあり得ない重みを手に感じた。
「……どういうこと、ですか?」
 封を開け、中を見た香夜は紘務と遥夏を交互に見た。
 そこには十や二十ではきかない量の一万円札が入っていた。
「足りない? だったらもう少し色を付けようか?」
「そうじゃなくて。こんなの、もらいすぎです」
 香夜はすぐに封を閉じてそのまま遥夏に突き返した。
「遠慮しないでもらっておきなよ、香夜ちゃん。君は昨日、基本給分の他にプラスアルファでそれだけの仕事はしているんだから」
 紘務はカラカラと笑った。そして続けて言葉を紡いだ。
「毎日それだけって訳にはいかないけど、それでも他とは比にならない様な額は出すつもりだよ。……それでも、働かない?」
「お金の問題じゃありません。わたしには無理です」
 確かに最初は香夜も割の良さに引かれてここに目星を付けた。しかし、香夜はその割の良さを端から信じていたわけではない。
 割のいい仕事にはそれなりの理由があるのがこの世の常だ。だから香夜だって多少の事くらいは覚悟していた。でも、まさかあんなアウトローまがいの仕事をさせられるとは思ってもいなかったのだ。
「じゃあさ、香夜ちゃん。俺と交渉しない?」
「しません。……とにかく、わたしのスマートフォンを返してください。そしたらわたしは失礼しますので」
「これを返せって?」
 紘務は徐に白衣のポケットから香夜のスマートフォンを取り出した。
 香夜はすぐにそれを目がけて身を乗り出す。
 しかし、紘務は昨日自分が遥夏にされたようにそのスマートフォンを香夜から離した。
「返して欲しい?」
「どういう意味ですか」
 挑発的な顔をする紘務を香夜は睨み付けた。


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