Karte No.1-7

 紘務はまるで威嚇をするような香夜の態度に臆すること無く、スマートフォンを振って見せながらソファーに深く腰掛け直した。紘務の表情には相変わらず笑みが浮かべられており、先ほどからこの状況をおもしろがっている節さえある。
「うち今、本っっ当に人手がなくて困ってるんだよね。このままじゃクリニックやっていけないかもしれない。最近夜は特に患者さんも多いし。……ね? 香夜ちゃん、やっぱりここで働こう?」
「…………」
 香夜は答えずに瞬きもせず紘務を睨み続けていた。彼女の中では今、一つの結論が導き出されようとしていた。
 つまりこういう事だ。
 ――スマートフォンを返す代わりにここで働け
「それは脅しですか?」
「嫌だな、香夜ちゃん。そんな言い方、人聞きが悪いでしょ? 俺は強要はしてないよ。あくまでも、香夜ちゃんのために提案をしているだけ」
 紘務はその端整な顔に不敵な笑みを浮かべた。
 香夜は究極の選択を迫られていた。
(このまま脅しに屈してここで働くか、それともスマートフォンを諦めてそこに登録されている友達に迷惑を掛けるか……)
「ちなみに香夜ちゃん、一生働けなんて言わないから安心して。そうだね、差し当たり半年くらいかな? だから、そんなに難しく考えないで。ほらほら、眉間に皺を寄せてると美人が台無しだよ」
 そうさせているのはどこのどいつだ!! ……と、香夜は奥歯を噛みしめながらより一層眉間の皺を深くした。
 そんな香夜の隣では、遥夏がまるで子供が新しいおもちゃを見つけたかのような好奇心に満ちあふれた目をしていた。
「まぁ、手っ取り早く稼ぐには悪い話じゃないさ。金はあって困るモノじゃない」
 香夜はこの時、遥夏の言葉など耳には入っておらず、これ以上はもう無理だというくらいに思考回路を働かせていた。
 ホームページに掲載されていた就業時間は確か八時から一時の五時間。
 そして、先ほど目にした待合室。患者は至って普通の人たちばかりだった。
 もし仮に先日のようなアウトロー患者が来たとしても、その頻度が“たまに”であれば耐えられなくはない。
(とりあえず……半年。一生のうち、六ヶ月だけの辛抱だ……)
 香夜は心の中で唱えるように自分に言い聞かせた。
「分かりました。……半年、その期間だけここに来ます」
「やった!!」
 紘務は嬉しそうにガッツポーズをした。
 香夜はそれを見ながら思わずこぼれ出そうになるため息を必死で堪えた。


 ◆◆◆


 その後すぐ、紘務は口約束だけで簡単にスマートフォンを香夜に返した。
 香夜としては血判までいかないにしても、怪しげな契約書の一枚くらいは催促されるのかと思ったが、そういうことは一切なかった。
「では、明日からこちらに来る、ということで構いませんね?」
 香夜は受け取ったスマートフォンを鞄にしまいながら業務的な口調で紘務に確認した。
「うん。明日から待ってるよ」
「分かりました。明日の朝、八時前には来るようにしますので」
 言って香夜は鞄を肩に掛け、今まで座っていたソファから立ち上がった。
「ねぇ、香夜ちゃん……」
 呼び止めたのは紘務だった。
 香夜はその視界に紘務を収める。
「朝じゃなくて夜、ね?」
(…………?)
 一瞬、香夜は紘務の言葉の意味を理解できなかった。
 辺りにしばしの沈黙が走る。
 香夜は再びその思考回路を懸命に働かせていた。
 今日はもう、あまりにも使いすぎてショートするかもしれない、というくらいに。
 そして、その思考回路が働くに連れ、史上最大級に嫌な予感が今まさに彼女に襲いかかろうとしていた。
「あの……」
 香夜は絞り出すように言葉を出した。
 史上最大級に嫌な予感は、彼女の中で少しずつ予感ではなく現実となってきていた。
「あの、ひとつ確認したいんですけど……」
 香夜はできるだけ冷静な声で尋ねた。
「わたしの勤務時間って、午前の八時からお昼の一時ですよね?」
「だから香夜ちゃん、夜だってば。昼間のわけないでしょう。やだなぁ、もう」
 紘務は香夜の確認を即座に否定した。少しの間をおくこともなく否定した。何食わぬ顔で笑みさえ浮かべてさらりと否定した。
「求人募集にもきちんと夜間帯で書いたと思うよ。あれ……香夜ちゃんもしかして見逃した?」
(…………)
 香夜は体中でサァッと血の気が引く音が聞こえるような気分だった。
 ……心当たりが、無くもなかった。
 そんな時間帯、個人のクリニックでは昼間に決まっていると香夜は決めつけていたのだ。入院病床を抱えている病院ならまだしも、個人のクリニックがそんな時間に人を雇うはずがない、と。だから、敢えて午前とか午後の文字なんて見もしなかったし、ましてや注意深く探しもしなかった。
 それに……
「でも、夜の診療をやってるなんて診察時間の案内にはどこにも……」
 香夜はだいぶ引きつってしまった顔で紘務を見つめた。
 どんなに記憶を呼び起こしても、香夜は確かにそれだけは見た覚えがない。
「書くわけないでしょう? 夜間は内緒の診療行為だしね。だから求人も小さく小さく載せたんだよ。そのおかげで誰も連絡くれないから、もう求人やめようかと思ってたんだよねぇ。そんな時、香夜ちゃんが電話してくれたってわけ」
 紘務は悪びれもせず、むしろ嬉しそうでさえあった。
(……詐欺だ……)
 できることなら香夜はそう叫んでやりたかった。
 でも、叫んだところでどうせ聞き入れてはもらえないことを香夜は知っていた。
 これまでの経験で短期間ながらも香夜なりにこの碧山紘務という人間をある程度理解したつもりだ。それからしても、今ここで詐欺だと言ってもどこかの悪徳業者よろしく、巧いこと言いくるめられて納得させられるのがオチであることは間違いない。
 その顛末が分かっていて、立ち向かう余力などその時の香夜には無かった。
 今この瞬間、香夜は心底気を失ってしまいたいと思った。そして、目が覚めたら全て夢でした、という幸せな結末に期待したかった。
 しかし、悲しいことにそう都合良く卒倒できるほど香夜の心身は柔にはできていない。
「院長……相談があります」
 香夜は顔中の筋肉を総動員して笑顔を作った。
「やっぱり昼間の時間帯でわたしを雇いませんか?」
 そして、紘務の目をじっと見つめる。
 自然界では目を逸らした方が負け――昔、自然系の教育番組で得た知識を以てして、香夜は紘務を見つめる。
 が、
「雇いません」
「どうしても?」
「どうしても」
「絶対?」
「うん。絶対。君には夜の専属で来てもらう」
「万に一つも昼間の時間帯に異動とかいうことは……」
「ありません。だって、昼間は普通の看護師さん足りてるし。夜が忙しいって言ったでしょ? 夜は普通の看護師さんじゃ駄目だしねぇ」
「わたし……至って普通だと思うんですけど」
「あ、大丈夫。変わってる人はみんな、自分のこと普通だって言うから」
 紘務はそう言うと、カラカラと笑った。しかし、彼は決して香夜から視線をはずそうとはしない。むしろ、瞬きだって必要最低限以外していない。
「香夜ちゃん、一応確認するけど今更辞めるなんてこと……君に限ってないよね? 約束したもんね?」
 香夜はそんな紘務から遂に視線を外してしまった。
 敗北だ――香夜が項垂れる。
「……半年後には絶対辞めます」
 そして、香夜は小さく溜息を吐きながら院長室を出ようとした。
「待って。香夜ちゃん、忘れ物」
 今度は遥夏がドアノブに手を掛けた香夜を呼び止めた。
 その手には現金が入った封筒を持っている。
「……わたし、受け取れません」
「取っておけよ。邪魔になるものじゃない。それに香夜ちゃん昨日、言っただろう? 部下の落とし前は上司が付ける、だったか? これ、昨日うちが世話になった分だから」
 ニコリと笑って見せる遥夏に、香夜は少し間をおいた。
 そして、封筒を受け取るとそこから二枚だけお札を抜き取り、残りを遥夏のスーツのポケットに差した。
「じゃあ遠慮なく。でも、これで十分ですよ。基本給分と、プラスアルファの分」
 香夜は二枚のお札をひらひらとなびかせた。
 そして、
「それと、部下の皆さんに伝えておいてください。もう怪我するような危ないことしちゃ駄目だ、って。危うく死ぬところだったんですから」
 香夜はそれだけ言うと、バイバイと手を振りその場を後にした。
 遥夏も紘務もしばらくの間、香夜の背中が消えていった方角をじっと見つめていた。
 院長室のドアがガチャリと閉まった後、遥夏は待っていたかのようにフッと笑みを零した。
「……紘さんも、人のハメ方心得てるな」
「失礼だね、遥ちゃん。交渉術に長けている、と言ってくれないか?」
 紘務は不服そうにその肩を竦める。
「でも、何だか楽しくなりそうだ。昨日と言い、今日と言い……あんな女、俺は初めて見たね」
「遥ちゃん。香夜ちゃんには手を出しちゃ駄目だよ」
 制する紘務に遥夏は答えようとせず、ただ不敵な笑みを見せた。


 ◆◆◆


 坂下香夜、本日付で『あおやま太陽クリニック』に正看護師として正式採用。
 しかし、そこは夜だけ開かれる知る人ぞ知るアウトローな職場……
 
 かくして、香夜の危険な夜は幕を開けた。
 そこでの仕事が吉と転ぶか凶と転ぶか……それはまだ、誰も知らない。

―Karte No.1 END―



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