Karte No.2-1
「ちょっと押さないでよ……」
「だって見えないじゃない。あんたこの前ヘルプ入ったんだから良いでしょう?」
繁華街の一等地にあるビルの五階、クラブ泉では手の空いているホステス達が伸び上がるように奥のヴィップルームを覗いている。
中では一人の若い男性をこの店のママである泉とナンバーワンホステスの美樹が接待している最中だ。
美樹は今晩他に指名が入っていたが、それを差し置いてこの場へ呼ばれた。それからしても男性がかなりの上客であることが窺える。
ママと美樹は何とか男性の機嫌を取ろうと躍起になっている様子だが、それを聞いているのかいないのか彼は物憂げな表情でグラスの中身を飲み干す。
「珍しいわね、今日は社長が来ているの?」
そこへまた一人、客を帰したホステス沙那がヘルプに付けていた別のホステスを伴ってやってきた。
「はい。先ほどいらっしゃったんです。お時間が空いたとかで立ち寄ってくださったみたいですよ。皆さん社長に釘付けで困っていますよ。まぁ今日はもう客足も落ち着いたから良いんですけどね」
答えたのは傍に控えていた黒服の男性だった。
そんな彼の話を耳に入れながら、沙那は他の子たちと同じように目を凝らしてヴィップルームの中を覗き込み始めた。
「社長って……?」
そう黒服に尋ねたのは沙那と共にやってきた新人ホステスの杏子だった。
「そうか、杏子さんは社長を見るの初めてですね」
杏子は三ヶ月ほど前に入店し、沙那についてこの店のいろはを学んだ。既に一本立ちして客の指名も受けているが、まだそれほど店の内情に詳しいわけではない。
黒服はそれを悟ったのか説明を始めた。
「あの方はうちも含め、この辺一体のビルを管理している会社の社長、黒衣様です。不動産管理の傍ら、うちみたいな飲食店もいくつか経営しているんですよ。それでお時間のある時、こうして様子を見がてらお店にいらっしゃるんです。といっても、杏子さんが知らないくらいですから、ここのところしばらくはお見かけしませんでしたけどね」
「へぇ、あんなに若いのに、社長なんだ。わたし、もっとおじいさんを想像してた」
「あら、凄いのは若さだけじゃないわよ?」
突然話に割って入ったのは沙那だった。
「杏子ちゃん、あなた黒龍会って名前くらい知ってるでしょう?」
「黒龍会って……アノ、ですか?」
記憶の中のある物とすぐに一致させた杏子は暈かした表現で沙那に尋ね直す。
その固有名詞を、杏子は確かに知っていた。
詳細までは把握していないが、所謂ヤクザ屋だ。聞くところによればその規模は東日本一だとか。
ともかく、普通に生活している人間でもその名前ぐらいは聞いたことがある……そんな大きな集団であることは間違いない。そして、夜の街で働いている杏子にすればその名を耳にする機会は普通より多く、その関係の人たちがこの店に来たこともある。
「そう、その黒龍会。社長はその総元締めのご子息。確か今は若頭だったかしら?」
沙那が確認するように黒服に視線を送ると、彼は静かに頷く。
「よく知らないけど、母親もその筋ではかなり良いところのお嬢さんらしくて、裏社会でも類い希に見るサラブレッドですって。それにあの非の打ち所のない容姿……みんなが躍起になって狙うのもわかるでしょう?」
「沙那さんも?」
そう杏子に尋ねられると、沙那は突然アハハと笑い声を上げた。
「やぁだ、杏子ちゃん。わたしなんて無理無理。こうして遠巻きに見るのが精一杯よ。たまにヘルプに付かせて貰えばそれで最高。そもそも、美樹さんに無理なんだから、わたしなんてお呼びじゃないわ」
「美樹さんでも!?」
杏子が食い付いたのは一人の名前だった。
その声の大きさに、沙那は慌てて唇の前に人差し指を立てて「シィッ」と言う。
それを合図に杏子はすぐに口を押さえた。
しかし、杏子が驚くのも無理はない。
クラブ泉の美樹、と言えば巷ではちょっと有名なホステスである。その人気ぶりは凄く、指名ができるのはそれなりの地位や資金力のある者のみという暗黙の了解が存在する。そのため、ひと晩で稼ぎ出す額は計り知れないとさえ言われている。
しかし、誰がいくら積んでもその肌は決して許さないことで有名であり、それがまた「自分こそは落としてみせる」と人気に拍車をかけているほどだ。
沙那はサッと周りを見回し、誰も聞いていないことを確認すると声のボリュームを最小限に絞った。
「単なる噂だけどね……。あの美樹さんが誘っても駄目だったんだって。まぁ正確に言うと、誰が誘っても駄目らしいわ。運が良ければひと晩くらいは相手にして貰えるみたいだけど、それでジ・エンド。余程気に入らない無い限り二度目はないって専らの噂よ。美樹さんもひと晩だけのクチみたい。まぁ、美樹さんだからひと晩だけでも相手にして貰えた、って言い方もあるけどね」
「へぇ、あの美樹さんが……。それにしても、あの社長って笑わない人ですね」
杏子はヴィップルームの奥へと視線を送りながら、ポツリと呟いた。
自分たちがここにやってきてから既に数分が経過する。しかし、杏子が見ている限り男性はピクリともその表情を緩めようとはしなかった。しかし、明らかに不機嫌な様子を醸し出しているわけではない。ただ能面のような表情で、ママや美樹の話を聞いているのか定かではないという感じだ。
その一方でフロアを見渡せば、客である男達は皆アルコールも手伝って筋肉が弛緩しきったような顔をしている。そして、ホステス達に傅かれて饒舌に語り、放埒な振る舞いを見せる姿はある意味で滑稽だ。
それらが当たり前だとは言わないが、比べて社長という人間は随分と無表情な人だと杏子は感じていた。
「確かに、ヘルプに入った時も笑ったのなんて見たこと無いわね。でもねぇ、またそこが良いのよ。ストイックな感じって言うの? 闇夜に生きる男、って具合でさ」
沙那は興奮気味に言いながら、ヴィップルームへと熱視線を送る。
「そうそう、実は黒衣社長にはもう一つ面白い噂があってね……」
沙那がそう言いかけた時だった。
「沙那さん、少しお喋りが過ぎますよ」
彼女の言葉を遮ったのは黒服だった。
「三番テーブル、沙那さんにご指名入ったそうですよ。杏子さんも一緒にヘルプに入ってください」
指示を受けた沙那は黒服の顔を見ながら、分かりましたよ、とばかりに肩を竦めて見せた。そして、「杏子ちゃん行きましょう」と言うと何事もなかったかのようにフロアへと足を向けた。
杏子はそんな沙那の後ろに付いていきながら、視線はまだ奥のヴィップルームへと残してあった。それに収めているのは、もちろん社長と呼ばれた男性。
(あの人……何をしたら表情が変わるんだろう)
そんな風に思いながら、杏子は彼をジッと見ていた。