Karte No.2-2

 時刻は夜の九時、香夜は新しい仕事場であるあおやま太陽クリニック五階の院長室でパソコンの画面と睨めっこをしていた。
 勤務中、香夜はこの院長室で院長である碧山紘務と共にその時間の大半を過ごす。
 院長室の一角には、香夜が勤めるようになってから小洒落た事務机が設置された。そこはまるで秘書がいるようなスペースであり、紘務はご丁寧にもそこにインターネットの引いてあるパソコンやら業務に関係のありそうな医学系書籍の類を並べてくれた。
 そこを自由に使って良いと言われた香夜は、患者の来ない間、本を読むかネットサーフィンをするかで時間を潰している。
 これも別に香夜が怠慢だというわけではない。
 ここは小さな個人経営のクリニック。入院患者を大勢抱える大学病院と違って記録をする必要もなければラウンドに出る必要もない。だから紘務が、患者さえ来なければ好きに過ごせと言ってくれたのだ。やるべき時に動いてくれればあとは何をしていても構わない、そういうことらしかった。
 そんなわけで今日も、香夜は読み終えてしまった本を閉じて先ほどからネットサーフィンをしていた。紘務は今、別の仕事があるからと部屋を不在にしている。
 香夜がこんな生活を初めて既に五日が過ぎた。たった五日。されど五日――この期間で香夜は色々なことを学習した。
 まず第一に、このクリニックの構造について。
 このビルは一階が調剤薬局になっていて、二階から上がクリニックになっている。二階は主に受付と待合室、それに診察室、処置室がある。三階はリカバリールームが併設された処置室があり、四階は各種検査室と一番奥にはバックヤード的なスタッフルームとスタッフ専用の更衣室が配置されている。五階は院長室や来客用に使っている部屋がメインで予備室的なものがいくつかある。
 紘務は院長室の隣を香夜用の更衣室にあてがってくれた。そこは元々荷物置きになっていたが、鍵も一応掛かるし、貴重品を置いたり着替えをするには十分な部屋だった。
 ちなみに、地下一階は、香夜が最初に連れて行かれた手術室がある。ここは日中は使われることはなく、夜間専門、しかもワケアリ専門の使用らしかった。
 だからその構造もとても秘密めいていて、一度外に出なければ行けないような仕様になっている。限られた人間しかその存在を知らないと紘務は言っていた。
 なお、ビル自体は地上七階建てとなっており、六階と七階は紘務の私邸だそうだ。あの軽い感じで「いつでも遊びにおいで」と言っていたが、なんだか魔王の住処に行くような気がして、香夜は丁重にお断りした。
 第二に、患者について。
 あの日のような重症患者は滅多に来ないということを香夜は知った。
 紘務が説明してくれたところによれば、基本的に夜間は秘密裏に診療を提供しているだけで、その存在も限られた人しか知らないという。
 もちろんそんな場所に来る患者はワケアリばかり。そのワケは様々であるが、例えば前回のように警察沙汰にはできないケースや保険証を使えない人、一般病院では断られる人が伝手を辿ってここに来るのだと紘務は言った。そして、緊急オペを要するような患者はあまり来ないとも言っていた。
 その通り、この五日で来た患者と言えばどれも少しの処置で済むような者ばかりだった。ただし、その人種はこの前の様な人たちから夜の街で働く蝶まで様々であったが。
 彼らがクリニックに来る際は、必ず電話を一本入れてくる。夜八時以降、院長室の電話の直通番号、または紘務のスマートフォンに着信があったらそれが患者が来る合図だ。その番号自体が、知る人ぞ知る番号のようだった。
 紘務に言わせれば、たまに事前連絡なく転がり込んでくる患者もいるというが、希だそうだ。基本的には一見さんお断りのスタンスらしい。
 そして第三に、碧山紘務という人間について。
 結論から言うと、彼は意外と良い人だった。スマートフォンを使って香夜を脅迫した時点で良い人というのもどうかと思うが、それはさておく。
 このクリニックを受診する患者は大きく二種類に分けられる。明らかにお金の融通が利くと思われる患者とお金の都合が付かない患者。どちらにも共通しているのはワケアリであるということだけ。
 基本的にここでの診療はあくまで秘密裏であるために保険の効かない原価が報酬として求められる。前者はもちろん金に糸目は付けない。こちらが求めなくてもその治療費の他に口止め料として法外な額をクリニックへ落としていく。しかし、後者の方は必要最低限の治療費さえ払うことは難しい。
 そんな時、紘務はお金を取ろうとはしなかった。「元気になったら、いつかね」と言ってさっさと帰してしまうのだ。「それで経営していけるんですか?」と香夜が問えば、「取れるところからガッツリ取ってるから大丈夫」という答えが返ってきた。それを聞いて、香夜は前回遥夏が自分に差し出した額を思い出し妙に納得してしまった。それでも、あの額は一介の看護師の日当としては多すぎると思ったが。
 それから第四に、香夜への保証。
 最初の勤務日に紘務は香夜にある約束をした。
『書類上、香夜ちゃんは日中の通常業務で雇ったことにするよ』
 それにこうも言った。
『万が一バレても何も心配はいらない』
 香夜にとってそれは嬉しい誤算だった。
 正直、業務内容を考えると流石の香夜も怖くなっていた。どう考えても、こんな所で働いたのがバレたら免許は停止、下手したら取り上げだ。自ら引き寄せたトラブルとは言え、さすがにそれは痛すぎる。
 ただ、紘務が何を以てそんなに自信があるのか気になったが、「理由は聞かないでね」と先手必勝で防御線を張られてしまった。
 そして最後にもう一つ……
 香夜は今目の前でパソコン上に表示されている文章を見つめていた。

 黒龍会――――
 東京を中心に全国展開している広域指定暴力団。その規模は東日本一。現在は五代目会長、黒衣(くろえ)良遥(よしはる)が取り仕切っている。組織体型は現時点で四次団体の存在まで把握されており、その構成員と準構成員は二万人に近いとされている。また、確認されているだけで全国の都道府県約八割にその事務所を構えている。

 そこに出ているのはそんな文面だ。
(黒龍会ねぇ……)
 香夜は心の中でその固有名詞を呟いた。
 あの日、遥夏に会った時から香夜の脳内ではあることが引っかかっていた。
 それは“黒衣”という珍しい名前。
 そんな名前の知人はいないはずなのに、香夜はどこかでその名前を聞いたことがあるような気がしたのだ。恐らく、それはテレビか何かのメディアを通して聞いたのだが詳細な記憶は定かではなかった。もしかして有名な芸能人かとも思ったがそういうわけでもない。
 そこで、「どこで聞いたんだっけ?」と思っているうち、インターネットの検索フォームに何気なく“黒衣”の名前を入力したところすぐに『黒龍会』という固有名詞と結びついた。
 便利なご時世になったものだと感心しつつ、香夜はその組織名に「どおりで、聞いたことがあるはずよね……」と納得せざるを得なかった。
 黒龍会と言えば、いくら香夜が堅気の世界一本で生活していようと名前くらいはニュースで耳にする。それも、やれ人殺しだ、抗争だ、挙げ句の果てには警察の立ち入り調査だ、と比較的宜しくはないものばかりで。
 やがて調べていく内に、あの男、黒衣遥夏がその組織のお坊ちゃんだということを香夜は理解した。
 そのまま見ていた画面をスクロールしていくと、そのページには黒龍会の組織構造や主要構成人員をつらつらと説明した文面が出てくる。ここ数日、香夜はいくつかのサイトで黒龍会についての情報を見ていたが、このページは初めて見るものだった。
 ――黒龍会若頭、黒衣遥夏
 香夜はそこでスクロールを止めた。
 ――黒衣良遥の嫡子。黒龍会直系の二次団体、黒衣組の現組長。しかし、表向きは黒龍会のフロント企業である株式会社シュヴァルツレーヴェの代表取締役社長。
 そこにはいくつかの情報が羅列されていた。そのうち要所要所の単語、例えば“二次団体”や“フロント企業”の所には米印があり、それはなんぞやという注釈が付けられている。
 その世界に疎い香夜はそれらも全て細かく読み込む。
「なるほどねぇ……社長、ってのもあながち嘘でもないんだ。この世界も一つの稼業だけ専門でやってればいいわけじゃないのね。若頭に組長に社長に……色々大変なんだ」
 香夜は先日松平が遥夏を『社長』と呼んだのを思い出しながら、画面に表示されている内容を噛みしめるよう独り言を呟いていた。
 その時だった。
「そんなものコソコソ読まなくても、直接聞けばいいだろう」


Karte No.2-2