Karte No.2-3
突然背後から聞こえた声に、香夜はビクッと肩を震わせ思い切り後ろを振り返る。
瞬間、香夜の体が大きくぐらついた。
「キャ……」
気づいた時にはもうどうしようもなかった。このまま行けば、まず間違いなく椅子から転がり落ちる。
香夜は事の顛末を一瞬で想像した。
が、
「おっと、気をつけろよ。ここは絨毯張りだが、頭を打ったら大変だ」
香夜の体は抜群のタイミングで抱き留められた。
「こ、こんばんは……黒衣さん」
香夜は自分を抱き留めてくれた人物を体裁が悪そうにゆっくりと見上げた。
「はい、こんばんは」
その人物、黒衣遥夏はニコリと微笑み返す。
「今日も……来たの?」
挨拶もそこそこにして香夜は遥夏に抱かれたまま尋ねる。
「来たよ。香夜が元気かな、と思ってね」
それに相変わらずの笑顔で遥夏は答えた。
今日も……そう、この男は香夜が勤め始めた晩からなぜかほぼ毎日この場所へとやってくる。もちろんそれは患者としてではない。正真正銘、単なる遊びに来ているだけだ。
何を隠そう、香夜が最後にもう一つ知ったのがコレ。ここ五日、遥夏がほぼ毎晩クリニックに顔を出すということである。
その様子からして、紘務と遥夏は余程仲が良いのだろうと香夜は思ったが、彼女にとって遥夏の来訪はむしろ仕事の邪魔と言っても過言ではなかった。
「昨日会ってから二十四時間経ってないのよ? そんなに簡単に体調崩すほどか弱くないので、黒衣さんのご心配には及びません」
香夜はあえて義務的な返答をする。
「つれないなぁ」
「それより黒衣さん、そろそろ離してもらえない? 助けてくれたのにはお礼を言うわ。でも、このままじゃ起きられないから」
香夜は自分の体を未だ抱きしめたままの遥夏の手に視線を送る。
「離して欲しいって?」
「ええ、とっても」
「だったら、俺の教えたこと、できるよな?」
「…………」
遥夏の含みを持たせた言い方に、香夜は一度黙ってしまう。
そして、これ見よがしに大きな溜息を一つ吐いた。
「……遥夏、お願い。起きられないから離して」
香夜がそう言うと、遥夏はニコリとその表情に笑みを浮かべた。その表情は、営業用なのか本心なのかは見分けがつかなかったが、とりあえず満足そうではあった。
何のことはない、俺の教えたこと、を香夜がきちんとこなせたからだろう。
俺の教えたこと――それは他でもない遥夏を名前で呼べと言うことだ。
遥夏は出会った時から香夜に対して敬語の不使用と名前で呼ぶことに拘っている。その理由は端的で「堅苦しいのは好きではない」とのことだった。
香夜は最初、それは彼が自分に気を遣わせないための社交辞令で言ったことだと思っていた。
それ故、敬語はやめたが呼称は“黒衣さん”を使うことを選択した。だって、遥夏は知り合ったばかりで香夜の友達でも何でもないし、勝手に調べたところによれば年齢は三つ上だし、あくまで一線を引くべきだと判断したから。
ところが遥夏はそれがお気に召さないようだった。
その証拠に会うたび訂正を求めてくる。おまけに昨日辺りから、「俺も香夜って呼べばフェアだろう?」と意味の分からない条件を突きつけてきた。
そんなことを数日も繰り返せば、香夜も流石にどうでも良くなってくる
「そんなに名前で呼んで欲しければ、恋人にお願いすればいいでしょう? 綺麗な顔してるんだから、そういう人の一人や二人いるでしょう? それとも奥さんは?」
香夜は溜息混じりに目の前の美丈夫に言った。
最初の晩、会った時から容姿は良い男だと思っていたが、それから数日が経過してもやはり良い男であることは間違いない。それ故、群がる女がいないはずがないと香夜は踏んでいたのだ。
それに、そういう世界の男達は愛人やら何やらがそこら中にいると昔映画かドラマで見たことがある。年齢的に考えても、結婚をして子どもの一人や二人いても不思議ではない。
「残念。独身だし、今恋人席は空きなんだ」
「そう。じゃあ、さっさとその席埋めたら?」
「もちろん。絶賛受付中だけど?」
遥夏はそう言うと、香夜の顎をクイッと持ち上げた。
香夜の体は未だに遥夏に抱き留められたまま――まるでキスでもする直前の体勢だ。
少女漫画的に言えばこれはドキリと胸が高鳴る瞬間なのであろうが、生憎そこまでお嬢ちゃんじゃない香夜は冷静に遥夏を見据えていた。
多少、落ち着かない気もするが所詮その程度だ。
遥夏は全く動じる様子のない香夜を見ながらクスリと笑みを零した。
「口説いてるんだけど、認識してる? その空席、香夜に埋めて欲しいって意味」
それなりのシチュエーションで言われれば、一気にフォーリンラブな台詞であるそれも、今の香夜にとっては溜息の対象にしかならない。
なぜなら、やはりこれもこの数日繰り返し言われている事であるから。
一体何がお気に召したのか、遥夏は香夜と出会ってから暇さえあれば口説き文句を囁いていた。もちろん香夜はそんなものを相手にはしない。
確かにナンバーワンホストのような男性に口説かれるのは悪い気はしないが、香夜がそれを真に受けることもなかった。
だって、遥夏が本気でないことはその態度でよく分かったから。ちょっと興味があるから遊んでみたい……そのレベルの感情だろうと香夜は踏んでいた。女に苦労したことのない男がやりそうなことだとも思った。
重ねて、香夜は少女漫画のよくある展開に似ているとも思った。
モテモテのヒーローに全く興味を示さないヒロイン――おもしろい女だ、俺の恋人にしてやろう、という具合だ。二次元ならばそこから盛大な恋愛展開が繰り広げられるのだろうが、ここ三次元ではそんなこともあるまい。
どう考えても馬鹿らしくて、香夜にすれば溜息しか出ない。
「馬鹿言ってないで、仕事したら? それも終わったならこんなところで盛ってないで、夜はさっさと帰って寝る。わたし、まだ仕事中だから」
香夜はそう言うと、遥夏の腕からすり抜けて起き上がった。
その時だった。
香夜の視界に不意に成人男性が二人飛び込んできた。
今までその気配すら感じ取れず、てっきり遥夏だけがこの場にいるのだと思いこんでいた香夜は、驚きつつも思わず部屋の戸口に立つ二人をジッと見つめてしまった。
その二人は一瞬でも感じ取れるほど、それぞれに特徴的な容姿を持っていた。
一人は大きな体でがっちりとした体型であり、それはつい先日出会ったばかりの咲村を香夜に思い出させた。年の頃もちょうど三十代半ばかそれ以上と言った感じだ。しかし、その顔は咲村よりももっと柔らかさのあるもので、少し垂れている目元が体格の割に優しそうで印象的であった。
一方で、隣に立つもう一人は系統で言えば遥夏と同じだった。というか、綺麗だと思った遥夏よりさらに美しさが特化したような、まさに“白馬の王子様”のキャッチコピーが適合する人だった。いや、どちらかと言えばお姫様でも良いかもしれないと香夜は思った。
印象的なのはかけているフレームレスの眼鏡で、それが彼の美しさを増長し、さらにはインテリな雰囲気を演出していた。年齢はといえば、一人目の男よりも年若い様子で遥夏とそれ程変わらない感じだ。
香夜が非礼にも何も考えずに見つめていると、この白馬の王子様が香夜にニコリと微笑みかけた。
香夜は説明を求めるように、無言で遥夏に視線を送る。
「コレが誰かって?」
遥夏の問いに香夜はゆっくり頷く。
「香夜……調べたんなら分かるんじゃないか? 俺の可愛い部下、蔵本と神崎さ」
遥夏はパソコンを指差しながらその名前を告げたが、香夜もそれ程詳しく調べたわけではないのでどちらの名前にもピンと来ない。
すると、
「社長、堅気のお嬢さんが少し調べた程度じゃ我々の事など分かりませんよ。生憎、我々は社長ほど名が知れているわけではありませんからね」
白馬の王子様はそう言いながら香夜の前まで歩み寄った。