Karte No.2-4
白馬の王子様は懐から慣れた手つきで名刺を差し出す。
「ご挨拶が遅れました。私、神崎と申します」
――株式会社シュヴァルツレーヴェ 常務取締役 神崎智視
名刺にはそう書かれていた。
「サトシ…さん?」
名前の読みに自信がなくて、香夜は尋ねるように呼びかける。
「いいえ、それでトモミって読むんです。変わっているでしょう?」
へぇ、と香夜が名刺を見ながら納得していると、目の前にもう一枚名刺が差し出される。それはゴツゴツとした手に持たれた物で、その手の甲にはできてそう時間は経ってないと思われる傷が一筋あった。
香夜はゆっくりとその視線を持ち上げる。
「お初にお目に掛かります、蔵本秀悟と申します」
そこに立っていたのは、いつの間にかやってきた咲村に似た男だった。
「こちらこそ、はじめまして」
香夜は再び名刺を受け取る。
――株式会社シュヴァルツレーヴェ 専務取締役 蔵本秀悟
先ほどの神崎は常務取締役で、この蔵本という男は専務取締役――両人とも遥夏の腹心の部下であるということを、香夜は瞬時に判断する。
「ご挨拶が遅れてすみません。こちらで看護師としてお世話になっている、坂下香夜と申します」
香夜はぺこりと一礼する。そして、受け取った名刺二枚をひとまとめにすると、香夜はゆっくりと二人の顔を見た。
「一点お伺いしてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
答えたのは神崎だ。
「失礼ですが、これ……表向きですよね? この会社、フロント企業でしたっけ? そう書いてありました」
香夜は名刺と神崎を交互に見る。
そして、
「本職は黒龍会の方ですか?」
単刀直入にその問いを突きつけた。
一瞬、神崎の目がその眼鏡の奥でわずかに細められる。
「違うな。こいつらは本部とは直接関係してない。まぁでも、黒衣組の幹部だけどな」
そう返したのは神崎ではなく遥夏だった。
「ふーん、そう」
「ふーんって……それだけか?」
香夜の反応が不服なのか、遥夏は尋ね返す。
「それだけ……って。それだけよ? 何か問題?」
香夜はスッパリと言い切った。
すると、何がおかしいのか神崎はフフッと笑みをこぼした。
「香夜さんは面白い方ですね。それを聞いて恐ろしいとは思わないんですか? 裏の世界の人間が目の前に三人もいるんですよ?」
香夜はそんな神崎に視線を向ける。
「そうですね。でも、先日からそういう方には随分とお会いしていますから。それに、神崎さん達が初めてじゃ無いんです。そういう職業の人」
「おや、それは興味深いことを仰いますね? どなたかこの世界にお知り合いが?」
「いいえ。いませんよ。以前大学病院で仕事をしていた時、そんな患者さんがいたってだけの話です。救急部にいましたからね、堅気じゃない方も何人か運ばれてきました。銃弾を受けた人とか、警察沙汰になった方が色々とね。それだけの話です。それをいちいち怖がっていたら仕事になりません。特にここはワケアリの方達を診るクリニックですから」
「なるほど。そういうわけですか。だから、臆することなくうちの松平を叱りつけることができた、と。……先日のご活躍は伺っておりますよ」
どうやら、先日の一部始終を知っている様子の神崎に、香夜は一瞬バツの悪そうな顔を見せる。
香夜にとってアレは怖いとか怖くないとかそんなレベルの話ではなかった。単にぶち切れたというか、恥ずかしながら見境が無くなったというだけの話で、できれば消し去りたい記憶だ。
「お前にも見せてやりたかったよ神崎。香夜の勇姿をな」
気づけば遥夏は香夜の傍へと歩み寄り、その肩に手を置いていた。
それに対し、「それはまた勿体ないことをしたようで……」と神崎が答え始めた時だった。
バタンという音と共に、院長室へ新たな来訪者がなだれ込んでくる。
「あれ、遥ちゃん来てたの?」
相も変わらず脳天気な声が部屋に響いた。やってきたのはこの部屋の主だ。
蔵本と神崎はその主、紘務と認識があるらしく、彼の姿を確認するとそれぞれに軽く会釈をする。
それに対して紘務は、
「なんだ、今日は智りんも蔵ぽんも一緒だったんだ」
あっけらかんとした様子でそう返す。
何というか……本当に緊張感に欠ける人だと香夜は思ってしまった。
いい大人の男に対して、遥ちゃんに智りんに蔵ぽん――だったら、自身は紘むんにでもしとくか? と香夜は思わず突っ込んでやりたくなる。まぁ、後が面倒なので敢えてやめておくが。
それにしても、これがあの日あれだけの手術をこなした人と同一人物だとは、どうがんばっても考えにくかった。しかし、香夜はあの時夢を見ていたわけでもないのであれが事実であるのだが。
「あのねぇ、遥ちゃん。お取り込み中申し訳ないけど、うちの看護師さん借りてもいい?」
「患者さんですか?」
紘務の言葉に状況を察した香夜はすぐに尋ねた。
「そう。今日は往診のオファー。ホストクラブでトラブルがあったみたいで、流血騒ぎ? になっているとかなっていないとか……何だか厄介事みたいで店まで来てくれって。すぐ出られる?」
「はい」
「往診鞄取ってくるから、下の通用口で待ち合わせね」
「わかりました」
紘務は香夜の返事を背中で聞きながら部屋を出て行った。
一方、香夜は机に置いてあった薄手の黒いパーカーを手に取り、何かを思い出したように机の引き出しを開けた。
引き出しから目的のものを取り出すと、香夜は蔵本に歩み寄る。
「蔵本さん、その手……小さい傷だからって馬鹿にしちゃ駄目ですよ。ちょうど良いサイズだと思いますから、良かったらどうぞ。これ特殊な加工がしてあって貼っておくだけで早く治るんですって」
香夜はさらに「試供品ですけどね」と笑いながら付け足すと、蔵本に大判の絆創膏を手渡し、そのままパーカーを羽織りながら部屋を後にした。
そんな彼女の背中を、残された男達は黙って見送る。
「坂下香夜……若がお気に召しただけあってなかなかに面白いお嬢さんですね」
香夜が出て行った後、呟くように言ったのは神崎だった。
「随分と肝も据わっている方だ。それに、夜の蝶達が望んで止まないあなたの口説き文句も、相手にしようともしない……それには流石の私も興味を惹かれますね。若は一生女性には振られない人間かと思っていましたので」
神崎はフッと笑みをこぼしながら一度眼鏡をクッと持ち上げる。
香夜がいなくなったのを確認してか、遥夏への呼称は“社長”から常日頃使っている“若”へと切り替えられていた。この男、神崎の本職は何を隠そう黒衣組の若頭である。遥夏の片腕として定評があり、ミスは絶対に許さない冷徹な完璧主義者だ。
そして神崎は、
「まぁ、一般家庭出身のごく普通のお嬢さんみたいですが。……ねぇ、蔵本さん」
蔵本へと視線を送った。彼はそれに返事をするようゆっくりと頷く。
対する蔵本は黒衣組で舎弟頭を務める男だ。神崎が片腕ならば、この蔵本は遥夏の懐刀としてその名を馳せている。寡黙な男であるが、情に厚く、常に遥夏を立てて要所は確実に押さえる人物である。
「神崎……お前調べたのか?」
神崎と蔵本のやりとりにすぐさま食い付いたのは遥夏だった。遥夏の視線は神崎へと向けられており、それは睨み付けるというほどのものではなかったが鋭さがある。
「えぇ、一応は。若が興味を持たれた以上、必要性を感じましたので一足お先に色々と。情報としてはそれなりに面白いものも何点か上がってきていますよ。信憑性も高いかと。……よろしければご報告を?」
そう言った神崎に、遥夏はフンと不満そうに鼻を鳴らした。
「誰が調べろと言った? 必要ない、そんなもの。相手の手の内を先に知ったら面白みに欠けるだけだ。久しぶりのオモチャ……少しずつ楽しまなきゃ意味がないだろ」
「随分なご執心ぶりですね。親しげにお名前まで呼ばせて……」
「いずれベッドに誘った時、黒衣さんなんて呼ばれても面白くないだろう?」
「いつもはそう簡単にお許しにならないのに」
「単なる性欲処理の相手に、呼ばせる名前は持ち合わせてないだけだ」
「では、あのお嬢さんはそうではないと?」
尋ねた神崎に遥夏は答えるわけでもなくフッと鼻で笑った。
「せっかく見つけた珍しい女だ。妙な邪魔はするな」
その時の遥夏の顔には、何とも言えぬ不敵な笑みが浮かべられていた。