Karte No.2-5

「はい、終わりました」
 香夜は患者であるホストの腕にガーゼを貼ってやった。
 事の次第は至って単純――というか、こういう業界ではよくある話なのだそうだ。
 今香夜の目の前にいるホストに、それなりのご家庭の奥様がお熱を上げていたのだそうな。旦那が忙しいのを良いことに、彼女は来る日も来る日もこのホストクラブに通い続け、やがては一人のお気に入りを見つけた。するとそのホストは甘い言葉を囁き、貴女だけだとその女性をその気にさせ、体の関係を持ち……取れるだけの金を吸い取ったらしい。
 一方、そうとも知らずすっかり惚れ込んでしまった女性は、夫との離婚まで決意してホストに駆け落ちを迫ったのだ。しかし、もちろんホストにそんな気はなく、ようやく騙されたと悟った彼女は本日、何とビックリ包丁片手にこのホストクラブにやってきたのだという。
 散々包丁を振り回したあげくホストに怪我をさせ、店のマネージャーが警察に通報しようとしたところ、今度は女性の夫の秘書という人が現れた。
 彼はマネージャーに対し、主人から預かった、とそれなりに厚みのある封筒を預けると「穏便に頼みたい。後で弁護士を寄越す」とだけ言って女性を引き取って帰ったそうだ。
 結局、穏便にするには怪我したホストを公に病院へ送ることはできず、以前にも一度世話になったことがある『あおやま太陽クリニック』に電話をしてきたらしかった。
「おねーさん、ありがと」
 ホストは切れてしまったシャツの袖を降ろしながら、香夜にニコリと微笑んだ。
 流石ホストなだけあって、一番自分を魅せる笑い方を心得ている。
「どういたしまして、お大事に」
 香夜はそんなホストを視界の端に入れながら、今まで使っていた医療用品の類を往診用の鞄に入れて義務的に答える。
「ねぇ、おねーさん。お礼にサービスするから今度お店に遊びに来てよ」
「すみません、ホストクラブに興味ないんです。それに、それ程裕福じゃないので」
 香夜は相変わらずホストに視線さえ合わせず答える。
「えー。じゃあさ、個人的に看病……とかどう? ボク、おねーさんに看病されたいな。このガーゼだって一人じゃ交換できないしぃー」
 椅子に座っているホストは、上目遣いで香夜を見つめる。
 どうやら、彼はこういうキャラで商売をしているようだった。そして、今なんで自分が怪我をしたのかも忘れて、もう次のカモを獲得しようとしている様子だ。
「もしこれが膿んじゃったら困るでしょう? ね、おねーさん」
 ――別にわたしは困りません。困るのはあなたです。
 そう間髪入れずに言ってやりたいのを堪えて香夜は沈黙を貫く。こういうのは相手をしただけ余計な労力を消費すると分かっているから。
 しかし、それにも構うことなく彼は続ける。
「あのね、もしおねーさんがボクを指名してくれるなら、ボクお店辞めても良いよ? こんな怖い思いもしたしさ」
 それは甘ったれたような声だった。そして、もちろん上目遣いのオプション付き。
 そういうのが好きな人にはたまらない仕草だろう。
 しかし、香夜はそんなものは好みではない。
 溜息を吐きたい気持ちを懸命に抑えて、
 ――稼ぎたいなら他当たりなさい
 そう言ってやろうと思った時だった。
「あのねぇ、君、うちの看護師さん、勝手にハンティングしないでくれる?」
 香夜はいつの間にか横にやってきた人影に視線を送る。
 そこにはつい先ほどまで奥でマネージャーと支払いの話をしに行っていた紘務の姿があった。
「院長……」
「このおねーさん、既に契約済みだから他当たりなさい。良い子だから、ね?」
 紘務は言って香夜の肩をポンポンと叩いた。
 ホストはそれでハンティングの失敗を理解したのか、チッと舌打ちをすると忌々しそうな顔を見せながら席を立ってしまった。
「モテるねぇ、香夜ちゃん」
「……こんなところでモテても嬉しくないんですが」
 戯ける紘務に香夜は鋭い視線を送る。
「もぉ、怖い顔しないの。モテるのは良いことなんだからさ。……あのね、少し掛かりそうだから先に下降りてて。支払い済んだら俺もすぐに行くから」
 紘務はそれだけ言うと、再び奥の部屋へと消えていった。
 

 ◆◆◆


 その後、患者のホストより余程常識の通じる下っ端のホストが「お世話になりました」と言って香夜を店先まで送り出してくれた。
 このホストクラブはビルの一、二階に店を構えている。香夜達が呼ばれたのは二階の一角にある事務所だ。
 香夜はそのまま非常階段を使って下に降り、ちょうどビルの裏側に出た。
 それは香夜が紘務を待って五分も経たない頃のこと。
「…………うぅ……」
 一瞬人の呻き声の様なものが、聞こえた気がした。
 ここは繁華街でも一等地であり、いくらビルの裏口といえどもそれなりに人通りはある。時刻は既に深夜であるため少し落ち着いてきてはいるものの、まだまだ静寂は遠い雰囲気だ。
 そのため、香夜はすぐに何かの聞き間違いだろうと思った。
 しかし、
「うぇ……う……ふぅ……………」
 それは再び香夜の耳に飛び込んできた。
 今度は先ほどよりもしっかりと。聞き間違いとは到底思えないほどよく聞こえた。
 どうやらそれは、ビルとビルに挟まれた路地から聞こえてくるようだ。
 音源を特定した香夜は、様子を伺うようにその路地をゆっくりと覗き込む。
(何……?)
 通りの光がなんとか射しこむそこには、誰かがうずくまっているようだ。
 香夜がそのまま足を勧めると、それは小柄な若い女性であることが分かった。その支度は煌びやかなドレスのようなものを身に纏っており、ホステスか何かであることが窺える。
 注意深く見れば彼女は腹部を押さえ、苦しそうに吐き戻していた。
 酒にでも酔ったのだろうか、それとも体調が悪いのか……性格上、見て見ぬふりのできなくなった香夜は考える間もなくすぐにその場に座り込み、女性に声をかけた。
「ご気分……悪いんですか?」
 香夜が声をかけると、女性の背中が驚いたようにビクリと震えた。
「…………」
 香夜の声掛けに女性はゆっくりと無言のまま顔を上げる。
「大丈夫?」
 香夜は思わず口をついて尋ねてしまったが、彼女の顔は血の気が失せておりとても大丈夫そうではなかった。
 まだ幼さの残るその顔にはしっかりとメイクが施されていたが、それでも隠しきれないほどに唇は青ざめ、頬も今にも倒れそうなほど蒼白で。
「何でも……ないわ……」
 女性は消え入るように言うと、再び吐き気を感じたのか元のように俯いて吐き戻し始めた。
 それがあまりに苦しそうで、香夜は思わず彼女の背をさすってやる。
「何でもないって顔色じゃ無いわよ? あなた……」
 香夜がそう言いかけた時だった。
「杏子ちゃん、こんなところで何やってるの!? お客さん、待ってるわよ」
 突然、甲高い声が裏路地に響いた。
 見れば路地の入り口には、露出の高い煌びやかな格好をした女性が一人立っていた。
 香夜がそちらの女性に意識を取られているうちに、今までうずくまっていた女性はよろよろと立ち上がる。
「ちょっと待って……」
 その足取りがあまりに不安定で、香夜は心配になり思わず呼び止めてしまう。
 が、
「ホントに……何でもないの。放っておいて」
 女性は少し強い語調で香夜を振り切るように言う。
「すみません、すぐ行きます……」
 彼女はそう言って、未だふらつく足取りでそのまま路地を出て行ってしまった。
 香夜は心配に思いつつもそれ以上、彼女を引き留めることはできなかった。


Karte No.2-5