Karte No.2-6

「で? 新しい仕事は順調なの?」
「まぁ、それなりに?」
 香夜は目の前にいる女性に曖昧な返答をした。そのすぐ後で、目の前のお皿で綺麗にデコレーションされているレアチーズケーキを、フォークで刺して口に運ぶ。
 場所は昼時のちょっとおしゃれなカフェ。香夜は目の前にいる女性、正木(まさき)雪緒(ゆきお)と一緒に食事を楽しんでいた。
 雪緒は香夜より三つ上で、大学時代からの良き先輩である。現在は大学病院の救急部で看護師をしており、香夜は辞める直前まで彼女と一緒に仕事をしていた。
 仕事をしている時はもちろん、辞めてからも雪緒は香夜を心配してこまめに連絡を寄越していた。たまたまタイミングが合わずに会うことはできなかったが、今日は香夜が仕事を辞めて以降初めて二人の都合が合ったのだ。
「ちなみに、今はどこの病院で仕事してるの?」
「え……、まぁ、あまり名の知れてない小さな個人病院ですよ。夜人手が足りないってことなので、夜勤専門でしばらく稼ごうかな、と」
 雪緒の質問に、香夜は少し躊躇いながらもうまく暈かして答えた。
 香夜と雪緒は気の置けない仲ではあるが、流石に今の仕事のことは言えない。雪緒の性格上、それを知ればもちろん心配をするだろうし、すぐにでも辞めろと言われるのはわかっていた。場合によっては、自身が乗り込んでいって辞めさせる手はずを取るくらいのことはしてくれる人だ。
 だから、本当ならば心配をかけないためにも黙っていたかった。しかし、雪緒には退職後、再就職先を随分と心配して貰った手前もあって、香夜は敢えて嘘ではない曖昧な表現で返答することを選んだ。
「夜勤専門って大変じゃない?」
「そうでもないですよ? 大学にいた時みたいに救急車の受け入れがあるわけじゃないですからね。それに、雪緒さんのところで散々しごかれましたから」
「それはそれは、どういたしまして」
「いや、お礼は言ってないです」
 ふざけたやりとりに二人は互いに笑い声を漏らす。
「その職場、環境は良いの? 人間関係とか、さ」
 言われて香夜は自然と紘務や遥夏の顔を思い出す。なぜ仕事場の人間でもない遥夏が出てきたのかは謎だが、あれだけ入り浸っていればそれも当たり前だ。
「悪くは、ないですよ」
 香夜は答えた。
 決して良いとは言い難いが、悪いわけではない――それが香夜の素直な感想。
 これまた大学病院と比較すれば、女同士のつまらない揉め事が無いだけで御の字である。昔どこかで女が三人集まれば派閥ができると聞いたが、今の仕事場はありがたいことにそういうものとも一切無縁だ。
 すると、
「ちなみに外科系? 内科系? 個人病院てことはそれ程ベッド数も多くないんでしょう?」
 雪緒はよかれと思って次なる質問を投げかけてきた。しかし、香夜にすればそれは少し困ったことだった。
 下手に適当なことを言えば同じ職種である分すぐにボロが出るし、かと言って答えないのも変な話だ。
「どちらかと言えば外科系、になるんでしょうね。でも、色々ですよ。そうそう……そんなことより、拓海(たくみ)さん元気ですか?」
 香夜はこれ以上はもう耐えられないと踏み、やや強引ではあるが別の話題に切り替えようとした。
 拓海とは雪緒の夫の名である。二人は互いの友達の紹介で知り合い、二年ほど前に結婚した。雪緒と仲のいい香夜はもちろん結婚式にも出席したし、拓海とも面識がある。
「相変わらず。すれ違い生活もいいところよ。二人とも淡白で仕事が好きだからやって行けてるって感じかな。それでも、お互い譲歩してできるだけ顔を合わせようって努力はしてるんだけどね」
 雪緒は答えながらふぅっと大きな溜息を吐いた。
 拓海は警視庁に勤める警察官である。互いに仕事大好き人間で子どももまだいないため、互いのシフトが合わなければ生活がすっかりすれ違うというのも香夜は良く分かる気がした。
「それにねー、あの人、最近仕事変わったのよ。しかも、わたしに何の相談も無しに!」
「拓海さん、警察辞めたんですか?」
「そうじゃないの。職種は変えてないんだけど、部署替え、って言うの? それで勝手に希望して……」
 そこまで言って雪緒は少し声のトーンを落とした。
「マルボウ担当になったのよ」
「それって……」
「裏社会担当、ってこと。昔から組織犯罪に立ち向かうことが夢だったんですって。拳銃の密輸とか覚醒剤とか、さらには人身売買とかね。……全く勝手なんだから!!」
 そのことでよほど拓海とやり合ったのであろう雪緒は、思い出したように鼻息荒く言葉を放った。
(マルボウねぇ……それじゃ、余計に雪緒さんには今の仕事は言えないよね……)
 気の置けない仲であるからこそ、黙っていなければいけないこともある――香夜は心の内でそう自分を納得させようとした。
 それが自分だけでなく雪緒のためなのだ、と。
(ごめんね……雪緒さん……)
 その時、香夜は遥夏の顔を無意識に思い出しながら、レアチーズケーキの最後の一欠片を口に放り込んだ。


 ◆◆◆


 少し長めのランチタイムを終え、香夜と雪緒は店を出たところで別れようとした。
 が、寸前になって雪緒は「ねぇ、香夜……」と静かに呼び止めた。
「今、楽しい?」
 突然に尋ねられたその質問に、香夜は不思議そうに首を傾げる。
 雪緒がなぜそんなことを聞くのか、理解できなかったのだ。
「雪緒さん……突然、どうしたんですか?」
「え? 別にただ聞いてみただけよ。それで、今楽しいの? 楽しくないの?」
「んー、楽しいですよ。新しいことばかりで。何より、人生は楽しまなきゃ、って教えてくれたの雪緒さんでしょう?」
 雪緒の真意は分からぬまま、香夜は答えてフフッと笑って見せる。
「そう。だったらいいわ。その顔……見てれば、嘘じゃないってのは分かるしね」
 雪緒は香夜に微笑み返す。
 香夜はそれを見届けて「じゃあ、また。拓海さんにもよろしく」と踵を返してその場を後にした。
 雪緒はそんな香夜の背中が雑踏に呑まれて見えなくなってもずっと見つめていた。
(元気そうで、安心したわ……)
 その時、雪緒の脳裏にふと浮かんで来たのは、大学病院を辞めるといった時の香夜の顔だった。
 この世の全てを諦めたような顔。底知れない寂しさと闇を感じさせる顔――……
『もう、疲れました……何もかもに…………』
 力のない笑みを浮かべて、そう告げた香夜の顔を雪緒は今でも覚えている。
 いつも強くしなやかで、涙など見せたことさえない香夜があの時は力なく項垂れてすすり泣いていた。
 放っておけば、このまま世を儚んでしまうかもしれないと雪緒は心配した。
 それも無理はない。
 あの時、香夜を取り巻く環境は、どうかしていたとしか考えられない。いくらそれが定められた運命といえども、それはあまりに非情で残酷で……
 次から次へと畳み掛けるように降ってきた悪夢に、香夜は良くもそこまで耐え抜いたと雪緒は褒めてやりたいくらいだ。
 あの時、泣き濡れる香夜の姿を目の当たりにした雪緒は、何も言えずただ彼女を抱きしめてやることしかできなかった。
 そんな雪緒に香夜は掠れる声で言った。
『わたし……リセットできますかね? もう一回……最初から……やり直せますか?』
 雪緒は香夜を抱きしめる手に自然と力が入ったのを良く覚えている。
『できる……できるに決まってるじゃない。香夜にやる気さえあれば、人生はいくらだってやり直せるし、楽しめるんだから』
 雪緒の口をついて出たのはなんともありきたりな言葉だった。
 でも、それ以上に掛けてやれる言葉など、その時の雪緒には思い浮かばなかったのだ。もっと気の利いた台詞の一つも言ってやれないものかと思ったが、そういう時に限って言葉は出なかった。
 ただ、香夜の震える背中を抱きしめてやることだけが精一杯で。
「あの子……まだ覚えていたのね」
 雪緒は誰にも聞こえないくらい小さな声でポツリと呟いた。
 そして、
(ねぇ、香夜……きちんと、リセットできてる? そんなに簡単じゃ無いだろうけど……いつかは完全にリセットできると良いわね)
 雪緒は先ほどの香夜の表情を思い出しながら、心の内で静かに問いかけた。


Karte No.2-6