Karte No.2-7

 その日の夜。香夜は夕暮れ後の繁華街を早足で歩いていた。
 昼間はスーツ姿の商社マンやオフィスレディで満ちているこの界隈も、時間が時間になるとそれらは入れ替わり、夜の街へと変化を遂げる。
 雪緒と会った後、出勤までにはまだ時間があったので香夜は一度帰宅した。
 そして、面白くもないテレビを何となく見ながらソファーに横になったのが全ての間違いだった。香夜はそのまま、居所寝をしてしまったのだ。気が付けば時計は凄い時間を指しており、慌てて飛び起きた。
 紘務に電話をすると、遅刻は構わないから気をつけておいでと言ってくれた。それでも、お金を貰って仕事をしている以上、香夜はなるべく早く向かおうと今一生懸命歩いているわけである。この人混みさえなければ全力疾走していきたいくらいだ。
 香夜が雑踏の流れに乗り歩いていくと、数メートル手前でその雑踏が変に湾曲していることに気づいた。
 不思議に思うまま進んでいくと、人が避けて通るそこには暗闇の中何か大きな塊が見える。
 香夜が人混みの隙間から一体何かとそれを見ると、塊と思ったそれは誰かがその場にうずくまっているのだということが分かった。
 それにも関わらず、誰一人としてその人物に声を掛けようとする者はいない。見えていないことなど無いはずなのに、人々は皆無言で通り過ぎていく。正確には一度視線は送るが、関わりたくないとばかりにすぐにその視線を別方向へと逸らす。
 香夜は考える間もなく雑踏をかき分け、その人物の元へと向かった。職業柄というのもあるが、こういうのを決して見過ごせない性格なのだ。
「大丈夫ですか?」
 香夜はすぐに腰を落として声を掛ける。
 近づいてみれば、それは小柄な女性だった。その職業は夜の蝶であるのか、随分と派手なメイクと髪型をしている。
「ご気分悪いんですか? それともどこか……」
「平気……よ……」
 香夜の声掛けに、小さな声が帰ってきた。同時に、彼女は俯けていた顔をゆっくりと上げる。
(…………)
 その女性の顔を見た瞬間、香夜の中で何かが引っかかった。
 顔を上げた女性――しっかりとメイクが施されているが、まだ少女っぽさが抜けきらないような幼い顔。
 その顔をどこかで見たことがあるような……香夜はそんな感じを受けたいた。しかし、それがいつどこでどんな風だったのかまでは思い出せない。似た人を見たことがあるだけで、単なる勘違いかとも思う。
 ふと気が付くと、彼女が左足を押さえているのが見えた。そこは暗がりでも分かるほどに腫れ上がっている。
「転んだだけ……別に何でもない」
 女性は傍に転がっていた高いヒールの靴を履き直し、その場に立ち上がった。
 しかし、ふらついて再びその場に崩れる。
「大丈夫ですか!? 足だけじゃなくて、他にどこか打っていませんか?」
 香夜は慌てて彼女の体を支えた。
「単なる貧血よ……」
 そう言った彼女の顔は確かに白く、それはネオンの光のせいではないことが香夜にも分かる。
 彼女は香夜の手を振り払い、再び歩き始めようとした。しかし、二、三歩進んだところで彼女は再び倒れる。
 香夜はすぐに掛けより、彼女の身を抱き上げる。
「聞こえますか? 大丈夫ですか?」
 呼びかけたが彼女は目を閉じたまま動かなかった。その顔は暗がりでも分かるほどに青白い。
 香夜はすぐさま鞄を開きスマートフォンを手にした。そして一一九の番号を押して通話ボタンを押そうとした。
 が、
「……やめて……」
 力ない彼女の手が、香夜からスマートフォンを取り上げた。
「でも、あなた病院に……」
「駄目、よ……」
 掠れるような声で女性は香夜を遮った。その手にはすっかり閉じられた香夜のスマートフォンがある。
「救急車は……呼ばないで…………」
 女性はそれだけ言うと力尽きたように目を閉じた。
「ちょっとあなた……しっかりして!」
 香夜は何度か彼女の頬や肩を叩いたが反応はなかった。
 この時の香夜に、何かを考えている暇は無かった。





「随分大きい物拾ってきたねぇ、香夜ちゃん」
 紘務は入れ立てのコーヒーをカップに注いで香夜に渡した。香夜はそれを「すみません」と言いながら受け取る。
「勝手に連れてきたのは悪かったと思ってます。でも、放っておけなかったです。救急車も呼んでくれるなっていうし、つまりそれってワケアリってことでしょう? それならここしかないだろうな、って」
 あれから香夜は彼女を背負って出勤してきた。
 あのまま放っておくことはできないし、でも救急車を呼ぶなと言うし……結局ここに連れてくるより他に方法はないと決断したのだ。
 紘務に診てもらった結果、彼女は左足以外に特別外傷もなくバイタルも安定しているのでとりあえず点滴を入れて今は静かに寝かせてある。そのうち目が覚めたらまた改めて診ようと紘務は言った。
「まぁいいよ。どうせ今のところ他の患者さんも来る様子がないし、今夜は往診依頼もないから暇だしね」
 紘務はコーヒーを啜りながらそのまま院長席に座った。


 ◆◆◆


 それからしばらくして、紘務は「暇だねぇ」と香夜に声を掛けた。
 何とも言いようがないので、香夜は「そうですね」とだけ答える。
 暇なのは香夜自身も同じで、今も特別することがないので香夜はソファーに腰掛けて雑誌をペラペラとめくっていた。
 結局会話はそれ以上膨らまず、再び辺りを沈黙が包んだ。
 それからどのくらい経っただろうか、紘務は突然「そうだ」と声を上げると思いついたように机の引き出しを開け、中からガサゴソと何かを取りだした。
 紘務はそのまま香夜の向かいのソファーに腰掛けると、その何かを広げて見せる。
「ねぇ、香夜ちゃん。こっちのナース服と、こっちのナース服どっちが良い? 一番? 二番?」
 その声に香夜が雑誌から視線を上げると、紘務はその顔に満面の笑みを浮かべて、二着のナース服を左右の手に持って掲げていた。
 香夜の顔は一気に引きつる。
 紘務の右手にあるのは胸元が大きく開き、大腿の中程までスリットの入ったナース服。一方、左手にあるのは一見普通のナース服に見えるがそのスカート丈があり得ないほどに短い。ちなみに右手が一番で左手が二番らしい。
 それらをどこで調達してきたのか、香夜はその点に大いに興味をそそられたが、下手に食い付くと墓穴を掘りかねないのでそこには敢えて触れない。
 そして、一体何の真似だと思いながらも、
「今のパンツスタイルが気に入ってますので。それに、処置用のスクラブもロッカーに入ってますから結構です」
 香夜はさらりと答えた。
「それは仕事着。これはファッションショー用。香夜ちゃんも暇だろうから、ファッションショーしよう。ね?」
 ――お一人でどうぞ
 そう言いたいのをグッとこらえて、香夜は、
「じゃあ三番で」
 とにこやかに交わした。
「もー! 一番か二番って言ってるでしょう?」
 香夜の返答が気に入らない紘務は一瞬、むぅっという顔をする。
 表現する分には可愛らしいが、あくまでも今香夜の目の前にいる男は三十過ぎのいい大人であることを忘れてはいけない。最近知ったところによれば、彼の実年齢は三十五らしかった。
「院長……わたし、残念ながら院長の変態趣味に付き合うほどお人好しじゃありませんので」
 溜息混じりに香夜が言うと、
「何言ってるの。出勤途中に困った子が倒れていれば、それ拾って来ちゃうくらいお人好しじゃない」
 そんな答えが返ってきた。
 さらに紘務は、その表情に意味深な笑みを浮かべる。
「それに、単なる口約束なのに毎日ここに仕事に来ちゃうくらいはお人好しでしょう?」
 それはまるで、君のことはお見通しだよ、とでも言いたげな顔だった。
 香夜にすれば、なんだかそれが妙に癪に障る。
「それはそれ、これはこれです。それに、あの時仕事をする条件でスマートフォンを返してもらいましたから。あくまでもわたしは義務をこなしに来ているだけです」
「逃げる気なら逃げられただろうに。それでも来ちゃう香夜ちゃんが俺は好きだよ」
 香夜は、本当に逃がす気はあるんですか? と聞いてやろうかと思ったが、思うだけで無表情を貫いた。食い付いたところで良いように言いくるめられるのは目に見えているから。
 だから、香夜は話を切り替えようとした。
「院長、いくら暇でも他にすること無いんですか?」
「ないよー。今日本当に暇だもん。あの子の点滴もまだ時間が掛かるだろうし、急患でもない限りこれと言って仕事はないんだよね。今日は昼間も暇だったし」
「だったら大人しくしていてください」
 香夜はピシャリと言うと、開いたままの雑誌に再び視線を落とす。
 丁度その時、院長室のドアが静かにノックされた。


Karte No.2-7