Karte No.2-8
紘務が「どうぞ」と返事をすれば入ってきたのは遥夏だった。
この男は今夜もまた飽きもせずやってきたらしい。
「遥ちゃんいらっしゃい」
迎えられた遥夏は一人のようだった。神崎や蔵本の姿も今日は見えない。
そして、やはりと言うべきか、遥夏は勧められずとも香夜の隣に腰を下ろした。
「紘さん今日、暇なの?」
「そう、暇なの。今、患者さん一人寝てるけどそれだけ」
二人の他愛もない会話を耳に入れながら香夜は相変わらず雑誌をめくる。
「香夜は? 退屈じゃない?」
不意に投げられた遥夏の問いに、香夜は少しだけ視線を持ち上げる。
「前は救急で仕事してたって言ってたろう? それに比べれば暇すぎてつまらないんじゃないか?」
「そうね。あそこは座ってる暇もないほど忙しかったわ。だから、今は少し退屈なくらいが丁度良いの。それにここが暇ってことは、みんな病気も怪我もなく元気で何よりでしょう」
香夜の返答に「そりゃそうだ」と紘務が笑う。
「香夜、確か大学病院にいたんだよな? いつ辞めたんだ?」
遥夏もまた暇なのか、次なる質問を香夜に投げかけた。どうやら、興味本位で香夜の素性調査を始めた様子だ。
紘務もそれには興味があるのか、聞き耳を立てている。紘務の場合、雇用主という立場を考えればそれも致し方のないことだが、彼の場合その意味合いは薄いだろうと香夜は感じていた。
「今年のゴールデンウィークが終わった後……だったかな」
香夜は雑誌から視線を上げることなく答える。
「へぇ。つい最近じゃないか」
辺りに短い沈黙が流れる。
「香夜……病院、何で辞めた? そんな中途半端な時期に」
そんな質問が遥夏の口から零れ出た時だった。
香夜は今まで雑誌をめくっていた手をピタリと止める。そして、その表情が一瞬曇ったのを紘務は見逃さなかった。
「疲れたから……よ」
香夜は静かに答える。
その時にはもう、香夜は何事もなかったかのように先ほど同様、雑誌のページをめくっていた。しかしそのペースは早く、どう考えても『読んでいる』というものではない。
「疲れたから?」
「さっきも言ったでしょう? 救急って馬鹿みたいに忙しいのよ。その勤務態勢にも疲れたし、それに…………」
言いかけたまま香夜はその言葉を止めてしまった。
同時にその手も止まる。
香夜の視線はいつの間にか雑誌から離れ、宙に浮いていた。それは、何かを考えている様な表情、そして、どこか寂しげな雰囲気……
遥夏も紘務もただ黙ってそれを見ている。
やがて、香夜は徐に雑誌を閉じるとその場に立ち上がった。
「……人間関係にも疲れたの。ああいう大きい病院、やり甲斐はあるけど色んな柵があって大変なのよ。特に看護部は女社会だから、派閥とか軋轢とか色々ね。そういうの、全部面倒になったのよ」
香夜は少し早口に取って付けたような文句を並べると、「わたし、彼女の様子を見てきます」と言って院長室を出て行った。
バタンと閉まった扉を確認すると、
「ワケアリだってさ」
紘務は呟くように言った。
「駄目だよ、遥ちゃん。レディーの秘密はそっとしておかないと」
「気になる女のことを知りたいと思うのは悪いことだと? 独占欲強いんだ、俺」
遥夏は悪びれもせずに答える。
「あのねぇ、遥ちゃん。小学生の男の子じゃ無いんだから……。それに、香夜ちゃんにだって知られたくない過去の一つや二つあるんだよ」
紘務は遥夏に対して少し大げさに肩を竦めてみせる。
「随分庇うね、紘さん」
「そりゃ一応彼女の雇用主で上司ですから」
「本当に? 単なる上司としての庇護だけ?」
遥夏はまるで紘務を試すかのように問い掛けた。
すると、
「遥、それ以外に何があるっていうんだい?」
紘務はそれを受けて立つかのように遥夏の目を見る。
それに対して、遥夏は不意に意味深な笑みを向けた。
「例えば……香夜が昔の自分に被る、とかね」
その一瞬、紘務の眉がピクリと動く。
しかしそれだけで紘務は特に返答をしようとはしない。
遥夏はそれを見ながら、昔の紘務を思い出していた。今とは到底結びつかないような、出会ったばかりの頃の紘務……
それから少しの間を空けて紘務の口から零れたのは、
「そんなことより遥ちゃん、香夜ちゃんには手を出すなって言ったはずだけど? 香夜ちゃんはお前が遊んでは捨てている女たちとは違うんだから」
返答ではなく全く別の話だった。
それは、もうこれ以上その話はするなという紘務なりの圧力である。
遥夏もそれをすぐに感じ取り、
「そんなこと、分かってるさ。奴らと同じなら興味すら持たないね」
それ相応の差し障りのない返答をする。遥夏自身、流れとして話を振っただけで今この時に、その話を掘り下げようと思ったわけでは無かったから。
「あのねぇ遥……その興味本位で手を出すのはやめろって言ってるの」
「だったら、本気なら問題ないと?」
まるで話を聞くつもりがない様子の遥夏に、紘務は再び肩を竦める。
「本当に本気ならね。そうだね、差詰め……お前が彼女に命を懸けられるなら構わないよ。最も、女を人間とも思っていないような遥には無理だろうけど」
「命ねぇ……香夜がそれに値する女なら、喜んでくれてやるさ」
遥夏はそれだけ言うと、話は終わりだとばかりにスーツのポケットから煙草を出してくわえた。
紘務はそんな遥夏を見ながら大きな溜息を一つ吐いた。
「体調はどう?」
香夜が処置室に入ると、女性が既に目覚めて天上を見つめていることに気づいた。
「ここ……どこ?」
「わたしの勤めてる病院よ。あなた、わたしと会うなり倒れるんだもの。救急車は呼ぶなっていうし……でも放っておけないしここに運んだの。あなたが小柄で、しかも運良くタクシーが捕まえられたから助かったわ。でなきゃ運んでこられなかった」
香夜は説明をしながらベッドサイドへと近寄る。
すると、
「あ……」
女性は香夜の顔を見るなり目を見開いた。
「やっぱり……間違いじゃなかったのね」
香夜はその様子を見ながら答えた。
あれから香夜は記憶の糸を辿って一体この女性にどこで会ったのか懸命に思い出していた。結果、数日前ホストクラブに駆り出された晩、ビルの裏路地で見かけた子と一致したのだ。
今の反応からして、香夜の記憶は正しかった様だ。
そんな彼女は今日も先日同様、顔色はあまり良くない。
女性――杏子は腹部を押さえるようにしてゆっくりと起きあがる。
「お腹、痛むの?」
「別に……。それより、オネーサン……」
杏子は香夜の全身を上から下までくまなく眺める。そして、途中胸元に付けられているネームプレートでその視線を止めた。
「仕事、看護師なの? ふーん、坂下香夜サン、か……」
杏子は興味深そうに香夜のネームプレートを読み上げる。
「そうよ。ここで看護師をやっているの。この前会った時はちょうど往診に出てたのよ」
「なーんだ。本職か。あんなところでそんな格好してたから、てっきりそーゆーお店の人かと思った」
言われて、香夜は彼女と出会った時のことを思い出す。
確かにあの時自分はナース服を着ており、あの場所から一本裏に回ったところには所謂そーゆーお店が建ち並んでいる。
(まぁ……そう思われても仕方ないわね……)
その時だった。
ガチャリという音がして、紘務が顔を覗かせた。
「お嬢ちゃんは目が覚めた?」