Karte No.2-9

 紘務は杏子を軽く診察すると、レントゲンを撮ると香夜に指示を出した。杏子の左足はここに運んできた時よりパンパンに腫れていた。
「ねぇ、こんなの……困るんだけど」
「こんなのって?」
 香夜はレントゲン室の準備をしながら尋ね返した。
「こんなこと勝手にされたって困るのよ。わたし、お金払えないわよ。だから救急車も呼ぶなって言ったんじゃない」
「それなら気にすることないわ。たぶん、うちの院長は事情を話せばお金取らないから」
 苛つきを見せる杏子とは正反対に、香夜は落ち着いて返した。
「うちね、ワケアリの患者さん多いしそういうの慣れてるから大丈夫よ。心配することないわ」
「…………」
 何を思ったのか、杏子はもうそれに反論することはなかった。
「それで、あなた名前は? あと年齢。できれば身長と体重も。それから、何か病気ある? 飲んでる薬とかもあれば教えて?」
「…………」
 香夜は続けて質問を投げかけたが返事は得られなかった。その様子からしても、やはりワケアリなのだと香夜は理解する。
「名前は本名じゃなくても良いいわよ。呼ぶのと記録の識別に使うだけだから、患者Aさんでいいならそうするわ。でも、身長体重はできれば教えて欲しいかな。あと病気と服薬状況も。薬が出る時にそれで量や種類が変わってくるから」
 香夜が質問を放ったまましばらく待つと、
「……杏子。年は、二十ちょうど。身長は百五十くらいで体重は四十キロくらい……そんなもの、しばらく計ってないから確かじゃないけどさ。……病気もないし、薬も飲んでない」
 今度は呟くように小さな答えが返ってきた。
「分かったわ。ありがとう。じゃあ杏子ちゃん、足首のレントゲン撮るからこの台の上に乗って」
「…………」
 香夜が指示するも、杏子は動こうとしなかった。その右手は先ほど同様、お腹に置かれていた。
「杏子ちゃん?」
「ねぇ……レントゲンってさぁ……どうしても撮らなきゃ駄目なの?」
「骨に異常があると困るしね、一応撮るようにって院長が」
 香夜が説明をするも、やはり杏子は動こうとはしない。
 香夜はいつしか、杏子のお腹に置かれた手を気にしていた。
 先日初めて会った時から、何かにつけて彼女は今のように腹部を押さえている。先ほど倒れる瞬間でさえ、同じように腹部を押さえていた。それに対し、痛むのかと聞けばそうではないと言い、打ったのかと聞いてもそれも違う様子だ。
(もしかして……)
 その時、香夜は今ある種の確信を得ていた。
「ねぇ、杏子ちゃん……もしかして、あなた妊娠してる?」
 投げられた問いに杏子はビクリと肩を震わせる。
 どうやら、香夜の読みは正解だったようだ。
 以前、大学の救急部に似たような患者がいたことを香夜は思い出していた。来た時からずっと腹部を押さえ、問診をしても何も言わなかったのに、いざレントゲンを取ろうとした瞬間、妊娠しているかもしれないと怖ず怖ずと打ち明けたのだ。
 今の杏子の様子はその時の患者によく似ていた。
 レントゲン室には大概、妊娠中であれば申し出るように注意喚起の張り紙がしてある。このクリニックも例外では無く、ちょうど杏子の視線に収まる位置にそれがある。
 大方、この部屋に入ってそれを見て急に不安になったのだろう。
「杏子ちゃん、少しここで待っててくれる?」
 状況を把握した香夜は、ひとまず紘務に伝えようと考えた。こういう大切なことは医師の耳に入れておかなければ後が厄介だ。
 そして、香夜がレントゲン室を出ようとドアノブに手を掛けた時だった。
「……い、言わないで!!」
 切羽詰まった声が、香夜の背中に掛けられた。
 香夜は一度ノブから手を下ろし、杏子を振り返る。
「……杏子ちゃん?」
「お願い……お願いだから誰にも言わないで!! 黙ってて……お願い……」
 何に怯えているのか、杏子の肩は小刻みに震えていた。
「駄目……絶対……絶対誰にも、言わないで……お願いだから……」
 杏子は必死に訴えながら、その場にぺたりと座り込んでしまった。その手はやはり腹部に置かれている。
「杏子ちゃん落ち着いて。院長には話さないと、適切な治療ができないわ。それにわたしたち、守秘義務があって秘密はきちんと守るから」
 香夜はそんな杏子のそばに腰を下ろし、その背を優しく撫でてやった。
「あなたが不利になる様にはしないから大丈夫よ。ね?」
「…………」
 しかし、杏子は震えるばかりで返事をしようとはしなかった。





「もうすぐ妊娠三ヶ月ってところかね」
 紘務は杏子から聞き出した情報を元に計算を出した。
 あれから、いつまで経っても準備ができたと呼びに来ない香夜を心配した紘務は、レントゲン室へとやってきた。部屋に入ってみればそこには、床に座り込んだ杏子とそれを宥める香夜の姿があったのだ。
 その結果、紘務にも事情を話さざるを得ない状況となり、杏子は観念して自らの口で妊娠を告げた。
 そして、子宮から離れた足のレントゲンを撮ってもお腹の子には影響はないと紘務から説明を受け、それでも気になるならと防護エプロンを二重に掛けて杏子はレントゲンにも応じた。
「幸い骨に異常はなかったよ。湿布でも貼っておけばすぐに腫れも引くだろう。それよりお腹の赤ちゃんの事だけど……産む気はあるんだね?」
 紘務の問いに、杏子は静かに頷いた。
 これまでの杏子の様子からして、堕ろす気はないのだろうと紘務は判断していたが、やはりそれは正しかったようだ。
「だったら、産婦人科にはもう行ってる?」
 杏子は首を横に振る。
「相手の男……父親は、このこと知ってるの?」
「…………」
 紘務は続けて尋ねたが、それには杏子が答えることはなかった。
 すっかり俯いてしまった杏子に、紘務と香夜は顔を見合わせる。
「答えたくなかったら、それ以上聞かないよ。とりあえず、俺は産婦人科医じゃないし、君の保護者でもないからね。今は君自身の体の話をしよう。それなら答えられるね?」
 杏子は再び頷いた。
「血圧が随分高いようだけど。これは元々?」
 紘務はカルテを見ながら新たな質問を杏子に投げかける。
「そんなの……知らないわよ。計る事なんて無いもの」
「だったら、すぐにでも産婦人科にかかって、定期に計ることを勧めるよ。放置しておくには少し高すぎる。きちんと状態を見て必要なケアを受けた方がいい。高いまま放置すれば君だけじゃなく赤ちゃんにだっていいことは無いからね。それから、今の仕事、夜間帯でしかも酒を飲む仕事だろう? ホステスかなにか?」
 問診で職種までは問わなかったが、紘務は杏子の今の支度を見て彼女が何をしているのか大体当たりを付けた。
「ホステス、よ」
「その仕事も早めに辞めて、昼間の仕事を探した方がいいだろう。妊娠が分かってからお酒は?」
「……飲んでないわ。断ってる」
「でも、その仕事をしていてこのままずっと『飲めません』じゃ通じないだろう? もちろんその様子だと、店にも妊娠を言ってないんだろうし」
「…………」
 紘務は質問を投げかけながらカルテに情報を記載していたが、杏子が答えなくなったところでその視線をカルテから杏子へと上げる。
「子どもを産むのはそんなに簡単じゃないってこと、よく考えることだよ。とりあえず、今日の所は帰ってゆっくり休みなさい。いいね?」
 紘務はそれだけ言うと、杏子に対する処置の指示を香夜に与えて診察室を出て行った。


Karte No.2-9