Karte No.2-10

 紘務が退出した後、香夜は杏子の足を指示通りに処置してそのまま彼女をクリニックの夜間用の通用口まで送り出した。もちろん、料金の徴収も香夜の予測したように紘務の指示通り無しだ。
「ねぇ、杏子ちゃん……うちは産婦人科じゃないけど、もし調子悪くなったらとりあえず来るのよ? 放っておくよりマシだからね。来られないならせめて電話しなさい。毎晩一時くらいまでなら、わたしか院長がここにいるから」
 出入り口のガラス扉に手を掛けた杏子に対し、香夜はその背中に喋りかけた。
 それに対し、杏子から特に反応は無かったが「本当は少しでも早く産婦人科に行くことを勧めるけど」と香夜が更に言い添えると杏子はゆっくりと振り返った。
「オネーサン、名前は香夜サン……だったっけ? あんたって、本っ当に呆れるくらいお節介ね。倒れたわたしなんて、道行く人みたく放っておけば良かったのに、拾ったりして馬鹿みたい……」
 杏子は口では随分ときついことを言っているが、その顔はわずかに笑っていた。
 香夜はそんな杏子に対して小さく溜息を吐く。
「そうね。自分でも嫌になるくらいお節介だけど、困っている人を見て見ぬふりはできないタチでね。そういう性分なんだから仕方ないじゃない?」
「そんなお人好しじゃ、いずれ馬鹿見るわよ? まぁ……それでも、今日はそのお節介でわたしは助かったけど。ありがとね、香夜サン」
 杏子はそう言って一度扉を押したが、「そうだ」と呟くと処置をしたばかりの足を庇いながら香夜の元まで戻ってくる。
「香夜サン、一番最初に会った時のビル覚えてる? わたし、あの五階に入ってるクラブ泉で働いてるから、今度来てよ。女でも香夜サンだったらサービスするからさ。今日のお礼」
 杏子は名刺を一枚出して香夜に渡すと、そのままバイバイと行って帰って行った。
 香夜はそんな杏子が左足を引きずりながらひょこひょこと歩いていく姿を、暗闇に紛れるまで見送ってやる。
「患者、帰ったのか?」
「うん。たった今ね」
 気が付けば香夜の後ろには遥夏がいた。
「それ、何?」
 遥夏の視線は香夜の手元に注がれている。
「今の患者さんが置いていったのよ。ホステスやってるんですって。今日のお礼に女でも歓迎するから今度遊びに来いって言ってたわ」
 香夜は貰ったばかりの名刺を遥夏に見せた。
「クラブ泉……これ、うちの店じゃないか」
 遥夏は名刺を見るなりそう呟いた。
「え?」
「香夜も知ってるだろう、シュヴァルツレーヴェ(うちの会社)。こういうクラブとかホストクラブとかバーとか……いくつか経営してるんだよ。この前香夜が呼ばれて行ったホストクラブもここも、うちの店だ」
 香夜が何を知りたいのかを悟った遥夏は、簡単な説明をする。
「飲食店業なの?」
「いいや、それだけとは限らない。他には金融や不動産管理なんかもやってる。そうだ、何なら香夜にはこの近くにマンションの一つでも買ってやろうか? 都心の夜景を見渡せる、最上階のワンフロア、とか」
「……馬鹿言わないでよ」
 まるでその辺の雑貨か駄菓子でも買い与える様な勢いで言ってのける遥夏に、香夜はため息混じりで答えた。
 金持ちの思考回路は良く理解できない――そう思いながら。
「そんな大それた物、買ってもらう理由がないわよ」
「だから、恋人になれって誘ってるだろう? 香夜が俺の恋人になれば、それが理由になる。恋人にプレゼントを贈るのは至極真っ当なことじゃないか」
 なんだかえらくずれてしまった話の論点に、香夜は今度は遥夏にも聞こえる様なあからさまな溜め息を吐いた。
 そして、その美丈夫の綺麗な頬をむにっと掴んでやる。
「遥夏、寝言は寝て言って。それに、愛の告白をそんなに簡単にする男なんて信用できないから」
 香夜の言葉を聞くと、遥夏はニヤリと笑ってみせた。そして、自分の頬を掴んでいる香夜の手を逆に掴み取る。
「だったら……」
 そんな声が聞こえた瞬間、
「キャッ……」
 香夜の小さな叫び声と共に、その体は一気に引き寄せられて遥夏にしっかりと抱きしめられた。
「これなら真剣さが伝わるか?」
 気づけば鼻先数センチの距離に遥夏が見え、彼は香夜をジッと見つめていた。
 それは、見方によっては肉食動物に追いつめられた草食動物――なのだが、
「あのねぇ……近ければ良いってもんじゃないわよ」
 香夜は遥夏の腕の中でジタバタと騒ぐわけでもなく、ただ冷静に反論する。
「大体、会って間もない人間に恋人になれって言われて、はいそうですか、なんて言うわけ無いでしょう? どこぞの少女漫画でもあるまいし。それにわたしは、よく知りもしない男にホイホイ引っかかるような軽い女だと思われてるの? 馬鹿にしないでよ」
 淡々と言ってのける香夜に、遥夏は堪えきれないという感じでフッと笑みを零した。
 全く、構えば構っただけ、次から次へと面白い反応を返す女だと思う。
 なぜなら――恋人にしてやると言って断られたのも、間近で口説く様に見つめてやって頬の一つも赤らめなかった女も遥夏にとっては至極珍しい反応であったから。
 今まで相手にしてきた女は皆、誘えばすぐに喜んで付いてきた。遥夏が誘わなくても、自ら売り込みに来た女だって腐るほどいた。それが例え初対面であっても、こちらが望まなくても、だ。
 もちろん、正確に言えば遥夏が誘っても見向きもしない女たちはいた。しかしそれは彼女たちが遥夏に興味がなかったわけではない。単に恐怖心を持っていたからだ。裏の世界に生きる男になど関わりたくないという恐怖心が彼女たちに遥夏を避けさせたのだ。
 そんな女達は逆にその恐怖心を煽ってやれば最終的には遥夏に付いてきた。本心はどうあれ、少なくとも見かけだけは喜んで遥夏に服従した。
 しかし、香夜はそういうわけでもない。多少裏社会に恐れはあれども、脅したところで食って掛かってきそうな勢いだ。
 初めて会った時の松平のこともそうだし、前回蔵本や神崎に会わせた時のことを考えてもそれは容易に想像できる。
 それもそれでまた、遥夏の興味を引くのだが――……
「何が、おかしいのよ?」
 笑ったまま何も言う様子のない遥夏に、香夜は威嚇するかの様に尋ねる。
「いや、別に。流石、香夜らしいこと言うなと思って。ま、そう簡単に落ちたらつまらないから今はそれで良いさ。その方が落とし甲斐があるからな」
「何度言われてもお断りよ。分かったら、さっさと離してよ」
 そんな風に、香夜が相変わらずの強気な発言をした時だった。
 チュッという音と同時に、香夜が唇に感じたのは柔らかい感触…………
(――――!!)
 気づいた時には、遥夏の唇が香夜のそれを捕らえていた。
 それは避けようもない一瞬の出来事で――流石の香夜も、それは不意打ちだった。


Karte No.2-10