Karte No.2-11

 香夜が自らの状況を把握するが早いか――遥夏は隙をついて彼女の唇を難なく割り、その舌を口内へと侵入させる。
 さらに遥夏は香夜が抵抗できないよう片手で彼女の顎をしっかりと固定している。もちろん、体はもう片方の手で抱きしめられているために、香夜は遥夏から離れることが叶わない。
 それでもなんとかして香夜がその身を捩って抗うと、
「……っ、ふ……」
 唇と唇の隙間からは香夜の抗議が漏れ出る。
 そのまましばらく遥夏に好き勝手をされれば、流石に香夜も力が入らなくなる。
 当たり前と言えばそうなのかもしれないが……見た目に違わず、遥夏のキスは上等だった。別に香夜の男性経験が多いわけではないが、それでも上手いか下手かくらいは判断できる。
 だからといって、今この瞬間身を任せるかと言えば大間違い。最終的に香夜は最大限の理性を以てしてドンドンと彼の胸を叩いた。
 すると、遥夏は案外簡単にその手を解いた。
「……な、何するのよ!!」
 ようやく自由を手にした香夜は、ゼイゼイと肩で息をしながら遥夏を睨み付ける。
 対する遥夏は、満足そうに香夜を見つめながらまるで肉食獣のように舌なめずりをしてみせた。
「何ってキス」
「そんなこと……言われなくても分かるわよ!」
 香夜はまるで噛みつくように言い、これ見よがしに自分の唇を手の甲で拭ってやる。
 すると、
「だったら、覚えろよ。俺のキス」
「はぁ!?」
 訳の分からないことを言う遥夏に、香夜はさらに眼光を鋭くする。
 そんな香夜を遥夏は面白そうに観察していた。
「お前はよく知りもしない男とは付き合わないんだろう? だったら、少しずつでも知ればいい。名前と肩書きはもう分かってるだろう? だから、今度はその次、これが俺のキス……本当はその先も教えてやりたいけど、今日のところはこれで我慢するよ。じゃあな、香夜。おやすみ」
 これまでで初めて冷静さを欠いた香夜を見て満足したのか、遥夏はそう言い残すとすぐに踵を返した。
 その後ろ姿に、
「何すンのよ! この馬鹿!!」
 と香夜が罵声を浴びせれば、遥夏はそれに応えるようにバイバイと手を振ってその場を後にした。
「…………」
 香夜はそれ以上出す言葉もなく、そんな遥夏の背を黙って見送るしかなかった。
 その背を見ながらようやく冷静さを取り戻した香夜は、
(マズ……)
 まだ口内に煙草の苦みが残っていることに気付いた。
 それは喫煙者とキスをした時の独特の味。
「……大嫌いなのよ……煙草を吸う男は…………」
 香夜は静かに独り言ちると、下唇を痛いほどに噛み締めた。それはまるで、煙草の苦みを払拭するかのように。





 遥夏がクリニックのビルを出ると、少し離れていたところに止まっていた黒塗りの車が近づいてきた。
 やがて車が遥夏の前で止まると、運転席から男性が降りてきて遥夏のために後部座席のドアを開ける。
「お疲れ様です。社長」
「なんだ咲村。今日はお前が来たのか」
「はい。蔵本の兄貴も一緒です」
 言われてふと視線を送れば、反対側の後部座席からは蔵本が既に下車をして、遥夏に礼をしていた。
 遥夏は蔵本の姿を確認すると、目線だけで『車に乗れ』と指示を下す。
「何かあったのか?」
 咲村の運転する車が動き出したのを確認して、遥夏は隣に座る蔵本に問いかけた。
 続けて、煙草を一本くわえると蔵本はすぐにそれに火を付ける。
「いえ。自分が管理している店の出納記録を見て回った帰りです。若がこちらにおいでだと聞いたもので、一緒に来ただけですよ。ご迷惑でしたか?」
「別に」
 遥夏は答えながら、気怠そうに紫煙を吹き出した。そして、燻る煙草を無意識に見つめる。
 思い出すのは香夜の柔らかな唇――それと違って、この煙草の無機質な丸みはくわえていても少しも面白みがない。
 二人の間には沈黙が流れる。
「蔵本、クラブ泉は確かお前の管轄だったな?」
 遥夏がそんな話を振ったのは、沈黙がしばらく続いた後のことだった。
 遥夏の仕切るシュヴァルツレーヴェは飲食店や金融業、不動産業その他、いくつもの店を持っている。書類上、それらは全て遥夏が最高責任者として取り仕切っていることになっているが、実際のところ遥夏は最終決済を下すだけであり詳細までは把握していない。便宜上、それらの細かな采配は全て上層部の部下たちに振り分けて行わせているのだ。
 例に漏れず蔵本も神崎もかなりの数の店を担当している。特に二人は遥夏の腹心の部下と言われているだけあって、収益上位の店ばかりを任せられているのだ。繁華街の一等地に店を構えるクラブ泉もそのうちの一つである。
「はい、確かに。つい先ほども寄ってきましたが……何かございましたか?」
「お前、少し前に、そこの女が一人何かで揉めてるって言ってたよな?」
「あぁ、それでしたら、杏子ってホステスですよ。若のお耳に入れるほどのこともないつまらない話です」
 蔵本の返事を聞いて、遥夏はやはり自分の記憶に間違いはなかったと思った。
 一カ所の店で、同じ源氏名を持つ女は存在しない。つまり、香夜が患者だと言っていた女はまず間違いなくその杏子本人だと言うことだ。
「それでその女、何で揉めてるって言った?」
「えぇ、杏子は……」
 蔵本が言いかけた時だった。
 遥夏のスマートフォンが車内でけたたましく鳴り響く。
 表示を確認した遥夏は、煙草を消しながらその応答ボタンを操作する。
「神崎か、何だ?」
 話はそれで中断した。





 それから数日後、香夜がクリニックへ出勤すると院長室には珍しい顔がいた。
「こんばんは、蔵本さん」
 そこにいたのは先日遥夏に紹介された蔵本だった。
「これは、香夜さん。いつも社長がお世話になっております」
 蔵本は香夜の姿を確認すると、今まで座っていたソファーから立ち上がり丁寧にお辞儀をしてくれた。
 香夜はそのあまりの礼儀正しさを見ながら、遥夏がこの半分でも持ち合わせていれば、と真剣に考える。
「そうだ蔵本さん、手の傷もう治りました?」
 香夜は自分の右手の甲をさすって見せる。
「お陰様で」
 蔵本はその顔をくしゃりと緩ませて大きなゴツゴツとした手を香夜に見せる。そこにはもう傷の跡も見えない。
「治って良かった。それより……今日は? もしかして体調が悪いんですか?」
「いいえ、院長先生に往診を頼みに来たんですよ。店の女の子が倒れたもんで」
「お店の女の子?」
 蔵本の返答に香夜は尋ね直す。
「はい、若……いえ、社長が経営してる飲食店がありましてね。そこの従業員ですよ」
 言われて、香夜は先日の遥夏の言葉を思い出していた。
 確かシュヴァルツレーヴェは飲食店やら金融業やらを行っていると彼は言っていた。
「でも、専務さんともあろうお人が直々にお世話を?」
 香夜は続けて尋ねる。
 だってよく考えれば、単なるお店の子が倒れただけで専務が直々に出てくるというのはとても不思議な話であったから。こんな事を言っては語弊があるが、そんな仕事はもっと下の人間がやればいい話で、蔵本が直々に動くほどでもないことのように思えたのだ。
「たまたまですよ。店の様子を見に立ち寄ったら、倒れた騒ぎに出くわして……そしたらその子が病院に行くならここがいいって言ったんです。碧山先生なら、若いのを寄越すより私が来た方が話が早いかと思いましてね」
 引っかかったのは蔵本の言葉の一部だった。
“病院に行くならここがいい……”
 香夜はそれに即座に反応した。


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