Karte No.2-12
「もしかして……そのお店って、クラブ泉ですか?」
「そうですが……」
突然尋ねられた蔵本は不思議そうに香夜を見る。
しかし、そんなことはお構いなしに香夜は質問を重ねた。
「その女の子って杏子ちゃんって子じゃないですか?」
蔵本はその眉間にわずかに皺を寄せる。
「はい……でも、香夜さんなぜそんなことを?」
蔵本が不思議に思うのは無理もない。普通に考えれば、香夜と杏子の関係など到底思いつかないだろう。
香夜はそれをすぐに察した。
「杏子ちゃん、数日前にここに来たんですよ。その時、また何かあったら来なさいってわたしが言ったから。……それで、今院長は往診の用意してるんですね?」
「えぇ、まぁ……」
蔵本の返事を背中で聞きながら、香夜は院長室を慌ただしく後にした。
「ずっと調子悪いの?」
診察を終え、事務所のソファーに横たわる杏子に香夜は静かに話しかけた。
紘務は先ほど蔵本と共に出て行き、ここには香夜と杏子しかいない。というより、紘務が状況を的確に判断して香夜を杏子と二人にしたのだ。
紘務は部屋を出て行く際、香夜に「少し他愛のない話でもして、落ち着かせてあげて」と香夜に言いつけていった。女同士の方が話もしやすいだろうから、と。
「本当はいつから調子悪いの? 朝? それとも夕べ?」
「…………」
香夜は杏子に質問を投げかけたが、答えが返ってくることは無かった。
「放っておくなって言ったでしょう?」
香夜は構わず話を続ける。
すると、
「だから……呼んだじゃない」
今度は返答がある。
「言われたようにきちんと香夜さん達呼んだでしょ?」
「それは倒れる前に、って意味で言ったんだけど?」
「…………」
間髪入れずに返した香夜に、杏子は再び押し黙る。
香夜は一度小さく溜息を吐いた。
「まぁ良いわ。それで、この仕事いつまで続けるの? 赤ちゃん産みたいんだったらお酒飲む仕事は辞めた方が良いって院長も言ってたでしょう? 昼間の仕事、きちんと探してる? なによりも、産婦人科にはもう行ったの?」
「…………」
「血圧だって今日もかなり高いし、それにそのうちお腹も出てくるわよ?」
「……お酒なんて飲んでないし、別にお腹だってまだ目立ってないもの。誰も妊娠なんて気付かないわよ」
杏子は呟くように答えると、フイッと香夜から視線を外した。
「そういう問題じゃなくて。お母さんの生活リズムだって赤ちゃんには大切なのよ? ストレスだってよくないし」
「…………」
再び押し黙った杏子に、香夜はもうそれ以上何も言わなかった。
二人の間に沈黙が走る。
それからしばらくして、杏子は「だったら……」と消え入りそうな声で呟いた。
「何?」
「だったら……香夜さんがここよりお金のいい昼間の仕事、紹介してくれる? もちろんわたしだって……赤ちゃんに良いように生活したいけど、産むにはすごくお金がいるじゃない」
杏子は香夜から視線を外したまま言った。その語調はいくらか険しい。
「それはもちろんそうだけど。ねぇ……余計なお世話かもしれないけど、これだけ身を粉にして働いてたら、よほど浪費しない限りそれなりには入ってくるんじゃないの?」
杏子の返答に香夜は素朴な疑問を投げかけた。
彼女たち夜の蝶がひと晩に稼ぎ出す額――香夜はその詳細を知っているわけではなかったが、それでもそんなに安くは無いだろうと踏んでいた。
以前看護師仲間の一人が、学生時代にそんなバイトをした経験があったとかで、自分たちがこうして病院で稼いでるより夜の街に出た方が余程入ってくると言っていた覚えがある。そして彼女は加えて、相手をするのが患者か酔っぱらった男か、それが違うだけなのにね、とぼやいていた。
それを考えても、今香夜が言ったように変な浪費癖が無い限りお金はそれなりにたまると思うのだが……
しかし、杏子が香夜の問いに答えることは無かった。
それに対し、香夜は自分のとった行動に後悔をし始めていた。
「……ごめんね、杏子ちゃん。そんなプライベートなところまで、わたしが口出す事じゃなかったわ。答えたくなければ言う必要なんてないからいいのよ」
香夜は杏子に謝りの言葉を述べる。
体のことだけならまだしも、経済面までは単なる看護師でしかない自分の踏み込んで良いところではないと思ったのだ。これで、今現在診察代の取り立てをしているならまだしも、それも取らないとしているのだから、尚更そんなことを聞くべきではない。
もちろん香夜は、単なる好奇心ではなく杏子のことが本当に心配で尋ねた。良い意味では、心配になりすぎてつい感情的に、といったところ。しかし、他人の香夜にはあくまでも踏みとどまるべき境界が存在する。
「とにかく、杏子ちゃん自身のためにも、お腹の赤ちゃんのためにも今日も帰って寝ることね。その調子じゃもう今夜は仕事にもならないでしょう?」
香夜は自分の感情だけで杏子に申し訳ないことをしてしまったと思いながら、場の空気を変えるべく話を変えた。
「お店の人にはきっと院長が説明してくれるわ。院長は優しい人だし、それに蔵本さん……ここの責任者? 彼とも知り合いだからね。心配はいらないから」
相変わらずそっぽを向いたままの杏子に香夜は、最後に一言「帰ってゆっくり寝るのよ」と伝えた。
そして、踵を返して部屋を出て行こうとしたその時――
「待って……」
杏子の小さな声が香夜の足を止めさせた。
香夜はゆっくりと杏子に視線を合わせる。すると、杏子の視線は香夜に向けられている訳ではなく、仰向けに横たわったまま天上を見つめていた。
「わたしさ……借金が……あるのよ」
杏子の唇からそんな言葉が漏れる。
「この子の父親に頼まれて……連帯保証人ってヤツになっちゃったの」
杏子は続ける。
今度は香夜が黙ったままその話に耳を傾ける。
そんな香夜の様子を感じ取ってか、杏子は静かに話し始めた。
「よくある話、よ。好きだとか愛してるとか……そんな言葉に躍らされて、サインしちゃったの。わたし馬鹿だからさ、彼を疑いもしなかった。なのに、結局……アイツはいつの間にか姿を消して、残ったのはこの子と五百万もの借金だけ……馬鹿みたいな話でしょう?」
杏子は口ではフフッと笑いながら、いつの間にかこみ上げてきたものを気づかれないようそっと手で拭った。それを隠すためか、再びフイッとそっぽを向き香夜には背を見せる。
その背はわずかに震えていて、とても小さく見えた。
どんなに虚勢を張っていても、濃いメイクで大人ぶってみせても、所詮それはどこにでもいるような二十歳の女の子の背中だった。まだ頼りなくて、子どもらしさも少し残っていて、ちょっと押されれば簡単に倒れてしまいそうな細くて小さな背中。
そしてその小さな背に、杏子は借金に子どもにと過重な負担を背負っている。
「なんか……ごめん。……空気悪くなったね。綺麗な生活しか知らない香夜さんには関係ない話。……どうせこんなこと話したって分からないだろうし、聞かなかったことにして。引き留めちゃって……ごめんね。もう帰って良いよ。これ以上、わたしなんかに関わらない方がいい。バイバイ………」
杏子は鼻を啜りながら、くぐもる声でそう言った。その言葉はまるで自分を律するようにも感じられたが、やはり頼りないほど幼くて――。
香夜はそんな杏子に徐に近づいた。
杏子もその気配に気づいたのか、赤くなってしまった目を拭いながらわずかに香夜へと向ける。
香夜は杏子と目線を併せるよう、ソファーの傍に腰を下ろした。
そして、
「随分馬鹿にしてくれるじゃない? わたしが綺麗な生活だけ送ってるような、そんなお嬢さんな女に見える?」
香夜は口角をわずかに上げて笑って見せた。