Karte No.2-13
「綺麗な生活しか知らないような人間ならね、わたしもこんなアウトローな病院なんかに勤めないで、まっとうな病院でまっとうに仕事してるわよ。杏子ちゃんとも会ったりなんてしなかった」
香夜は「そうでしょう?」と言ってフッと笑ってみせると、杏子の頭をそっと撫でてやった。
「辛かったね、一人でずっと。杏子ちゃん……わたしの勝手な想像だけど、人に頼って依存するタイプでもないし、この子守るために独りでがんばったんでしょう?」
香夜は今度は杏子のお腹を優しく撫でてやった。
「だって……だってこの子にはわたししかいないもの…………」
杏子も香夜と同じように自分のお腹を撫でる。
「それでも、がんばれるのは凄い事よ。誰にだってできる事じゃない。堕ろさずに産んであげようって、守ってきたんでしょう?」
杏子は無言で頷いた。
それを確認した香夜は、今度は杏子の頭をそっと撫でる。
「杏子ちゃん、よくがんばったね。偉かったよ」
その香夜の声が言いようもないほど優しくて、撫でられた手が温かくて――杏子は瞬時にこみ上げた涙を必死に堪える。
「わたし……命……懸けてんのよ……この子に……」
香夜は必死に言葉を紡ごうとする杏子の涙をそっと拭ってやると、ニコリと微笑みかけた。
「杏子ちゃん、良いお母さんの顔してるじゃない。でもね、これから先は人に頼ることも少しは覚えなさい。元気な赤ちゃん産むにはお母さん一人じゃどうしようもないことも多いのよ。幸い、助産師やってる友達もいるから、紹介してあげるわ」
「……本当に?」
杏子は真っ赤になってしまった目で、香夜を見上げる。
香夜はそれに「もちろんよ」と笑顔で答えた。
「だから、助けて欲しい時はきちんと助けてって合図出してね。そしたら、あなたにも赤ちゃんにも、わたしは協力を惜しまないわよ」
「赤ちゃんにも?」
杏子はお腹に置いていた手に少しばかり力を込める。
すると、香夜はその杏子の手に自らの手をそっと重ねた。
「そうよ、当たり前でしょう? 自分の患者が命懸けて守ってるものなんだから、一緒に守るに決まってるじゃない。わたし、あなたの担当看護師だからね」
そう言った香夜の顔は優しいけれど強くて、輝いていた。そして、重ねられた彼女の手は何もかもを包み込んでくれるような温かかさがあった。
そんな香夜に対して、杏子の唇から零れ出たのは、
「香夜さんて……やっぱり……馬鹿、だよね…………」
泣き濡れた力のない憎まれ口。
今、杏子は目の前にいる香夜から久しく忘れていた物を感じていた。
高校卒業と共に、実家も友達も何もかもを捨てる勢いで東京へと出てきた杏子。
これまでの田舎暮らしに嫌気が差し、東京にさえ出れば夢のような生活が待っていると信じて止まなかったあの頃――……
それなのに……
東京という場所は、金も実力もない杏子には冷たかった。どんなに困っても、助けてくれる者も頼れる者も誰もいない。
夢にまで見たその場所は、夢を見ることなど許されないところ。
やがて生活のため夜の街で働きだした杏子は、更に人間の裏側を目にするようになった。
昨日まで仲の良かった友達は、今日には敵――そんなことが日常茶飯事であり、裏切り裏切られることが当たり前であることを知ったのだ。
夜の蝶に関するいろはを初めて教えてくれた女は杏子に言った。この世界で生きていくなら、人を信用してはいけないと。そして、頼れるのは自分だけだとも。
初めは半信半疑だった杏子も、夜の街で生きていく内その言葉を身を以て知った。
だから杏子も自分だけを信じ、自分だけを頼りにやってきたのだ。
そんな生活に疲れた頃、出会ったのが一人の男だった。
彼は肩を張って生きる杏子に、安心して休める癒しを与えてくれた。そして、杏子に愛を囁いてくれた。
それは杏子が東京に出てきた時から望んで止まなかったもので――……
次第に杏子は男に心を開き、心から彼を愛するようになった。そして、癒しを与えて貰った分、相手を支えてやりたいと思ったのだ。
やっと自分も幸せを掴めるのだと杏子は再び夢を見た。優しく、温かい夢を。
しかし、現実はそう甘くなく――ある日突然、愛した男が姿を消したのだ。
お前だけだ、と優しく愛を囁いてくれたはずの男は、跡形もなく消え去った。それはまるで何もかもが幻想だったのだと思わせるかのように。
しかし、そうではなく現実だと杏子に思い知らせたのは、後に残った多額の借金とお腹の子どもだった。
最初、子どもは幾度となく堕ろしてしまおうと杏子は思った。それが非情な選択だと言われようとも、自分の細腕では子どもまで面倒を見られないと思ったから。それなら、産まないであげる方がその子にとっても幸せなのだと思ったから。
だが、日々変わりゆく自分の体に子どもの生命力を感じさせられると、杏子は考えを変えざるを得なかった。
自分の勝手でその子の命は絶てないと思ったのだ。それが例え、法律で認められている範囲であったとしても。
その子を産むと決めれば、杏子には裏切られた悲しみに暮れる暇はもう無かった。
そして、人生のどん底とも言える辛酸を舐めた杏子は、再び元のような生き方に戻ることを選んだ。自分だけを信じ、自分だけを頼る孤独な生き方に。
そして、杏子は心に固く誓った。
もう二度と誰も信じない――そう誓った。
それは自分と子どもを守るために杏子の行き着いた結論。これ以上傷を負わないための悲しい選択。
しかし、ある日偶然に出会った女性は、それを覆そうとした。
馬鹿みたいにお節介でお人好しのその女性は、杏子が困っているのを見ればすぐに手を差し伸べてくれた。皆が皆、見て見ぬふりをしているのにも関わらず。
もちろん、人に頼るつもりなどない杏子はそれを突っぱねた。しかし、彼女はそれでも再び優しい手を差し出してくれたのだ。
はっきり言えば、杏子はそれをわずらわしいと思った。偽善者ぶって自分の守っている生き方を乱さないで欲しいとも。
だから現状を話せば、流石に嫌気が差してその手を引くだろうと杏子は思った。思ったのに…………
彼女は言った。
『よくがんばったね。偉かったよ』
それは、思いもしない言葉。
人生のどん底を味わってから先、誰も掛けてはくれなかった言葉。だけど、ずっと誰かに言って欲しいと、杏子が思っていたものだった。
他人などもう簡単には信用しないと誓ったはずなのに――彼女の声があまりにも優しくて、杏子は忘れていた人の温かさを思い出した気がした。
そして女性は引くどころか、さっさと掴みなさいとばかりにより深く手を差し伸べてくれた。温かいその手を。
不覚にも、杏子は彼女のそれを取りたいと思ってしまった。
この人ならば、自分を裏切らないような気がして。
誰にも頼ってはいけないと決めたはずなのに、彼女ならば頼っても良いような――そんな気がして。
「……お人好し……すぎて、ホント……馬鹿だよ、香夜さんは…………」
杏子はもう一度憎まれ口を重ねる。
本当はありがとうとか、大好きとか、香夜に伝えたいことはたくさんあるのに、それを言うことはできなくて。
「まったく口の減らない子ね。でも、そんな泣き顔で言われたって効果無いわよ。それに馬鹿で結構。そういう性分だって前に言ったじゃない」
杏子の涙はさらに溢れる…………
それから、杏子はまるで香夜に甘えるように泣き続け、香夜はそんな杏子を抱きしめて撫でてやった。